読書

 三人に遅れて、デメトリオが王宮内の書庫に入る。既に勉強会が始まっていた。時間は午後で、弟のイアソンに姉妹が読み聞かせをする時間だった。


「クロエおねえちゃん、これよんで」


 イアソンが本棚から持ち出したのは、ナクサス島と周辺の地理について書かれた地誌だった。彼はまだ字が読めないので、姉クロエに読書を頼む。


「いいわよ。さあ、座りましょうね」


「わーい」


 イアソンはクロエの膝にちょこんと座り、今日の勉強が始まった。


 姉と弟の邪魔をしないように、セレネはデメトリオの袖を引っ張り、二人で窓の向こう側の景色を眺めることにした。


「姉御、いいんすか。手伝わないで」


「いいの。あたし、あの本は好きじゃないから」


 東向きに設置された窓から、セレネは北東へと目をやる。


「ナクサス島から北東には、たくさんの島が浮いているの」


 セレネは背中で姉の語りを聞く。彼女の言う通りで北東には多島海が広がり、大小無数の島々が浮かんでいた。


セレネは指で多島海の箇所をなぞる。


「たくさんある島の西と東に大きな陸が二つあるの。分かる、イアソン?」


「うん、これと……これ!」


 クロエの語りは多島海の周辺へと移ったようだ。イアソンは元気よく「左のブドウがおいしそう!」と言った。それに微笑むデメトリオとクロエ。


「確かにブドウはおいしいわね。そこはアケイオスよ」


「そうなんだ」


 アケイオス半島にはリアス式海岸が広がり、それがイアソンにはブドウの束に見えたのだろう。半島部分はTの文字にそっくりで、極めて細い地峡になっていた。


「イアソン。ここではね、ブドウがたくさん採れるの。今度、セレネがここに行く予定だから、お土産を頼んでみたら?」


「本当? ねえ、セレネお姉ちゃん。ブドウのお土産持ってきて」


「え? ああ、分かった」


 上の空で返事をするセレネ。心ここにあらず、といった感じだ。


「ねえ、この石ころさんは?」


「そこはトリナタス島ね。大理石が採れるの」


 トリナタス島は、ナクサス島から遥か西に位置する島だ。三角形に近い形で描かれているが、沿岸部のごつごつがイアソンには「石」に見えたらしい。


「大理石?」


「白い石のことよ。それを使った真っ白な王宮があるらしいの」


「なにそれ! 見てみたい!」


 イアソンは未知の世界への憧れからか、好奇心を刺激されっぱなしだ。


「それで、最後に――」


「ね、おねえちゃん。このわっかはなあに?」


 イアソンが指差したのは、多島海にある島の中でも特に大きな輪に似た形の島だった。


「これは――」


「レス島だよ」


 クロエが答える前に、セレネが割り込んで答えた。


「御先祖様が昔住んでた場所よ、イアソン」


 レス島の方角に目をやり話すセレネ。窓枠に手を置きつつ、物憂げな表情をして。


「じゃあ、なんで今僕たちはここにいるの?」


「それは……」


 セレネは話したがらない。自身の宿命に関連することを弟に伝えるのははばかられたのだ。


「イアソン、セレネは少し調子が悪いみたい。だから、後で聞きなさい」


「はあい」


「それで、レス島のすぐ東にある大きな陸地が――」


 その時。アケロン王が「セレネはいるか?」と言いながら、こちらに向かってくるのに四人が気付いた。間もなく、書庫の扉が開き王が現れる。


「すまないな、イアソン。勉強の邪魔をして」


「いいよ、怒ってないから!」


 そう言うとイアソンはクロエに顔を向け笑って見せた。クロエも笑顔で返す。


「今日はまだセレネと顔を会わせていない。どこにいるか知らないか?」


「セレネなら窓の近くに」


 クロエが窓の方を指差すが、セレネはいなかった。他に出入り口はなく、書庫から下は十メートルもある。そこからの移動は考えにくい。


「ん?」


 デメトリオが窓に引っかけられているフックに気が付く。それには縄が結わえ付けられていた。加えて、壁をコンコンと叩く音。彼は窓から下を覗き込んだ。


「あ……」


 セレネとデメトリオの目が合った。どうやら、セレネは鉤縄かぎなわで逃亡を図ったようだ。


「おい、どうした。デメトリオ」


 アケロンの声と足音。セレネは慌てて地上に降り立ち、鉤縄を外そうとした。


 ガシャンッ!


 鉤縄を強引に引っ張ったので、窓枠の一部が外れてしまった。冷や汗を流すセレネ。窓から顔を出すアケロン。


「おい、セレネ。どうして逃げるのだ!」


 父の声には答えず、セレネは城下の市内へと走り去っていった。

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