プロローグ6

 商人は動けなかった。無理もない。セレネが目の前で兵士たちを容赦なく倒していくのを間近で目撃したのだから。


「つ、積み荷は全てお渡しします。だから、どうか命だけは!」


 泣いて許しを請う商人だったが、セレネは彼に危害を加える気はなかった。


「安心して。生かして帰すから。西から積み荷を運んで来たんだろ?」

「ええ、そうです。あ、そうだ。で積んだ品もありますよ」


 商人は余計な事までセレネに語り出す。すると彼女はあごに手をあてて、少し考える風をした後で言った。


「じゃ、王様から運ぶように命じられた品だけ頂戴」

「は、はい、喜んで」


 セレネは梯子で甲板下部へと降りると目当ての品を探し出す。


(確か、装飾された箱だったな)


 セレネは依頼主からの情報を頼りに、雑多な積み荷をかき分けていく。


「姉御! あんまり時間をかけねえでもらえねえっすか」


 ふと顔を見せたのはデメトリオだった。彼はセレネが出てこないのを不審に思い、商船に乗り込んできた。


「ちょっと待ってよ。今探してっから」


 セレネはそう言うと、開いたままの扉を閉めて積み荷をかき分ける作業を再開する。そして……。


「あった!」


 彫刻レリーフが施された箱は一際目立っていた。他の積み荷――壺や樽と比べれば、その差は一目瞭然だ。


「これだな、どれどれ」


 セレネは箱のふたを開けてみる。と、その瞬間。


「うわっ!」


 彼女は目くらましをくらったかのような錯覚を覚え、右手で目を守る。


「なんだ? これ……」


 目への強烈な刺激が収まると、セレネは箱に収められた品を手に取った。


 それは指輪で、炎と思しき彫刻が所狭しと施された代物。石座せきざには赤い紅玉が丸く加工されてめられたそれは、間違いなく高価な品物だ。


(結婚指輪か? でも、本物を見たことがないから分かんないや)


 セレネは十八歳。行き遅れと言われかねない年齢だ。

 だが彼女は結婚など望めない。いや、望んではならないと考えていた。


なんざ、男がちびって相手にもしてくれないや」


 自嘲気味に独り言を呟くセレネ。自分はどうやっても一人だ、と疑わない彼女。いかつい仲間たちには見せない陰鬱な顔が、セレネの美しい顔から魅力を奪う。


「いけね。仕事仕事っと」


 セレネは暗い気持ちを振るい落とすため、頭を犬のようにぶるぶると震わせる。そして、蓋を閉じようとしたも、


「……」


 生涯で決して身に付けることのないだろう指輪が目の前にある。


 セレネは誘惑に負け、それを右手薬指にはめてしまった。


 ことも知らずに。


(なんだ……、体が熱い)


 異変はすぐに現れた。

 セレネは体内が沸騰するように焼けつく感覚を覚え、続いて表皮を何かが蠢くのを感じる。


「何だこれ。気持ち悪い!」


 節足動物が彼女の白い肌を素早く動くおぞましい感触。

 が、今回のは過去のものとは比較しようのないものだった。

 まるでセレネの肉に噛みつき、内部から食い破ろうとしているかのようだ。


(外せ、今すぐに!)


 ふと耳に入る警告。それは

 セレネは怖くなって、急いで指輪を外した。


 すると、彼女の体内は冷えていきいつもの調子に戻る。

 同時に表皮に感じたぞわぞわした感覚もなくなる。

 ここでセレネは大きく一呼吸する。


「はあ……何が起こったんだ?」


 手で額を拭うセレネ。

 油汗が出ているのに気が付いた。

 また、甲板下部に吹き抜ける風がいつもより心地よく感じられた。


 兵士十一名と対峙した時以上に胸の鼓動を強く感じる。

 殺気立った戦よりも強いストレスを感じるのはどういった理屈だろう?


「考えても仕方ないや」


 その後、セレネは月明かりが灯る甲板上に顔を出す。出来るだけ平静を装いながら。


 そんな彼女をデメトリオが出迎える。


「姉御」

「仕事は終わり。ずらかるよ」

「いや、姉御の叫び声を聞きやした。ほおってはおけやせんよ。どうか港に着いたら、の侍医に見てもらって――」

「デメトリオ、これ以上無駄口をたたくな!」


 デメトリオはもう何も言わず、セレネの背中を追って自分の船に戻る。


 そして、商船からは指輪が入った箱以外は取らず、また商人にも危害を加えず逃してやるのだった。



 根拠地を真っすぐ見据えるセレネ。

 彼女は次の仕事について考えていた。


(あとはこの箱をアケイオスの統領に届ければ終わりだ)


 依頼主はアケイオスという国のお偉いさんのようだ。

 セレネは本当は早めに届けたかったが、夜間であることと船員の疲れを考慮して、後で送り届けるつもりでいた。しかし……。


(何だろう。手放したくないな)


 結婚へのあこがれか。それとも別の誘惑か。

 セレネは無意識に箱を開けようとしする。


「姉御、品に手を付けるのはまずいっすよ」


 デメトリオが彼女をたしなめる。セレネは一瞬驚くも、


「あはは、ちょっと気になってさ」


と言って適当に誤魔化すのだった。



 夜が明ける前にセレネの船団七艘は、故郷の港に到着する。

 乗組員たちは陸に上がり、その地の空気を吸い込む。


「へっ、いつも通りだぜ」

「そうなんですか?」


 セレネの変異を目にして気絶した例の若造が、近くの仲間に尋ねる。


「そうさ。なにせここは『呪われた島』だ。空気もまずけりゃ、飯もまずい。おまけに女どもはここに寄りつかねえ!」

「どうしてですか?」


 若造がまたもや質問する。聞かれた男の方は面倒くさくなったのか、


「三日もいりゃ分かる! いちいち聞くな」


と言ってそそくさと市内に足を運んでいく。取り残された若造は彼の後をついていった。


 最後まで上陸地点付近に残っていたのはデメトリオとセレネだった。


「姉御、あっしらはいつも通りに」

「分かってるよ、デメトリオ。クソ親父に顔合わせだろ。まったく嫌になるよ」

「そう言わんでくだせえよ」


 二人は共通の目的地へと向かう。その最中でも、セレネの脳裏には指輪がチラついていた。


(やっぱり、手放すなって訴えてくる……)


 セレネはこの時点で指輪に侵されていた。

 この時点ではそれはまだ小さなものだったので、時が薄れさせてくれるだろうと考えていた。


 その指輪が、人々に大きなわざわいをもたらす代物だとも知らずに。

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