グラスを傾けて

 アフターコロナと言われる世の中というのはとても窮屈だ。誰しもが嘆き、誰も歓喜の声を上げない。ぼろぼろになりながら試合に勝った兵士のように、今の人類というのは包帯グルグル巻きのベッドで寝ている残党兵だ。それでも、何処かで誰か、戦ってもいない誰かが、さも自分を主人公であるかのように雄たけびを上げている。そしてそれを横目に声帯を刈り取られた戦士が涙を流すのだ。その涙はまるで窓に張り付く水滴のように儚く、そして不要なものだ。事象としてしか存在しない、ただの雫。それを優しく救い上げる天使はどこにもいない。いるのはそれをこれ見よがしに踏みつける者だけだ。


 俺は手前のリモコンを手繰り寄せ、テレビの電源を付けた。浅ましくもただ電光掲示板のように異物感をこの部屋に与える。テレビの中とこの場所ではあまりにも世界が違いすぎるのだ。安全な世界と危険な世界。メタバースとユニバース。そしてそのどちらも虚構と現実の入り組んだ複雑な構造を見せている。誰も俺という人間を認識しようとしない。いや上辺だけは見ようとアクションする。しかし俺は全体であって個ではない。個であるべきは少なくとも俺ではない。

 俺は立ち上がり、それから冷蔵庫の扉を開けると半分くらい残った牛乳をパックのまま飲み干し、倒れ込んだ。「どうすればいい」その言葉が息を吐くように口をついて出た。テレビでは未だに東京の歌舞伎町のレポートを真面目そうにスーツを着たリポーターが淡々となんの躊躇もなく話している。ワイプにいるのは今話題の女性アナウンサー、板についてきた表情で真剣に頷く、俺は牛乳パックを投げ捨てた。一滴の牛乳が零れただけで中身はすっかり空になってる。


 俺はゆっくりとテレビの前に戻り、電源を消した。すると辺りは静かになり、そして暗くなった。まるで郊外の夜だ。窓の外をみると街灯に虫が群がってる。俺は自分が街灯なのか、それとも虫なのかが分からなくなった。いやきっとそのどちらも違うんだろう。俺は月だ。遠くからそれを見ながら少しづつ削られていくだけの月だ。俺には新月の後がこない。そもそも人間は消えちまえばそれっきりだ。俺は携帯を開き、そして電話を掛けた。「俺はもう死ぬよ」俺は一言だけ言った。相手は何を思うだろうか。ただびっくりするだけだろう。それでも俺はこれを言わずにはいられなかった。それが俺の弱いところだ。


 「ねぇ、あなたはどうしてこうなってしまったの?」消えた妻の声

 「お前のせいじゃねえかもしれない。でもやることはやれよ」あいつの声

 「???」誰かの声


 俺はふと思い立ち、キッチンの戸棚を開けた。そこには年代物のワインと2つのグラスが置いてある。この家にある唯一の資産だ。そして俺はそれらをテーブルに置いた。まるで腐っているかのようにテーブルは奇妙な音を立て、俺は腐敗したように椅子に崩れるように座った。俺はもうこのワインのように凛々しく立つことは出来ないだろう。しかしその凛々しさも瓶だけなのだ。そう瓶だけ。中身は凛々しく立つどころか、自分の形を形成することすら不可能だ。ガワがないと所詮ただの液体、俺と同じ…

 俺はアイスピックを使い、強引にコルクを引き抜くとそのコルクはなんの抵抗もなしにワインから離れていった。アイスピックは俺のことを突き刺すこともなく、そのコルクから離れることはなかった。そして俺はアイスピックを手放し、ワイン瓶を震える手で持ち上げる。その震えは確かにワインにも伝わり、液面が揺れ、小さな赤い波が出来た。波はぶつかり合い、不規則な動きを見せる。それすらも幾何学的に。

 埃被っていたワイングラスは洗われ、少しくすみながらも、ガラスの表面にやつれた俺の姿を写している。そしてワイングラスは俺の手から注がれるワインを手に入れることによって、ようやくその仕事を果たした。それに比例してワイン瓶は仕事を少しづつ無くしていく。それは社会のように自然的で、自然のように残酷で、如何にも人間的な営みだった。


 ワインを一口飲むと、吐き気がした。それはどこからやってくる吐き気かはわからない。しかしそれも時間が経つと少し心地よく感じる。流石に高い酒はそれなりに味もいいのだろう。俺には分不相応な気もする。少し前までとは俺はやはり変わっているのだろうか。

 俺はワイン瓶半分をものの15分程度で飲み切ると、酔いが早くも回ってきた。酩酊状態で俺は涙を流す。しかし俺の中にはそれを遠くから見ている自分がいる。幽体離脱のように、ガルシアマルケスの短編小説のように、ビアスの短編小説のように、それは俺であって、俺ではない冥界の俺だ。

 俺はゆっくりと立ち上がり千鳥足でLPの前に立つ、そしてレッド・ツェッペリンの「天国への階段」を流す。ジミー・ペイジのギターを聴き、ジョン・プラントの歌声を聞いた。そして俺はワイングラスいっぱいにワインを注ぐと、今度は瓶から直接口に流し込んだ。口から溢れる赤いワインはまるで血のように生気を失っており、偽物の血液のようだった。鮮血とは言い難い。俺の中にもまだ流れている美しいもの。

 ワイン瓶の中が空になると急に頭を締め付けるような痛みが来た。それすらも少し時間が経てば心地良い。ジョン・プラントはその高音を部屋に響かせている。俺は朦朧とした頭でワイングラスを持った。しかし震えでグラスは揺れ、波波と注がれたワインは少しずつテーブルに赤い染みを残していく、そして俺はそこで意識を失った。


 薄れゆく意識の中、狭まりつつある視界が捉えたグラスはゆっくりと傾き、ワインを全て失った。そして最終的には床にぶつかり大きな音を立て粉々に砕けた。俺はそれを見届けて目を瞑った。


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