伝播する都市

 僕の目の前には一人の男性が立っている。ここは地方都市郊外の駅、大した人混みもなく、かといって廃線になりそうなほど寂れてもいない。ちゃんと自動改札機も電光案内板も完備されているし、駅員だって配置されている。勿論オールタイムだ。


 僕は男性の方をじっと見る。男性は白いワイシャツの上に、フォーマルなネイビーのジャケット、それから少し皴の見えるスラックスを履き、廃れた革靴を履いていた。男性はすこし俯いており、僕の視線など微塵も感じていない。僕はまるで絵画を見つめるようにその男性を見続けた。そして2分かそこら経ってようやく男性が顔を上げ、こちらを一瞥する。感情のこもっていない目が僕の瞳を射抜く。僕は何もせずただ男性の事を見続けた。


 遠くで大きな物音がした。破裂音ではない、爆発でもない。倒壊?この辺りは土地区画整理の途中のような様相だが、こんな時間に工事は行われない。そもそもこんな寂れた町の寂れた県庁のつくるマスタープランなんて大したものじゃない。なんて言うのは良くないな。

 僕は音のしたほうへ視線を動かした。特に何もない。それを確認すると僕は視線を戻した。すると目の前にいた男性は急に蹲る。男性のことを注視すると視界の端に男性の右手が提げていた黒の仕事鞄は地面に萎びたように放り出されているのが分かる。僕はまるで思い出みたいだなと思った。それから再び男性をよく見ると、男性は両の手で口を押えていた。微かな異臭と、両手から漏れ出す黄土色の液体。彼は嘔吐したのだ。


 僕は嘔吐する男性の姿をじっと見た。彼の顔は少し青ざめている。当然だ。

 しかし、彼がなぜ嘔吐したのかは分からない。体調が悪いのか、何かを見てしまったのか、何かを思い出したのか、ご飯を食べ過ぎたのか、なぜなのかは知らない、まぁ知る由もない。人は人である限り、人は人の域を出ることはない。人が人の域を出た時、それは最早人ではないからだ。そして僕は人であり、彼もまた人である。であるならば情報は五感以外の共有手段を持たない。


 男性の事をじっと見ていると、どこからか嗚咽が聞こえる。声のする方を見ると、女性が排水溝に向かって嘔吐している。木綿かどうかは知らないがハンカチーフが彼女の顔を隠している、が間違いなく彼女は嘔吐をしている。グレーチングの隙間から見える吐瀉物は間違いなく、彼女のものである。


 僕は彼女から目を離すと、辺りを見渡した。今度は僕の後ろにいた老人も嘔吐している、そしてまた首を回すと今度は女子高校生と思わしき少女もまた嘔吐している。そしてその反吐はスカートを汚す。そしてまた周りを見る、こんどは…etc.


 どうやら何かが伝播しているらしい。それでこんなみんなが嘔吐をするという自体に陥っているのだ。しかし僕には一向に吐き気は来ない。僕はサルトルの小説の事を思い出した。「ここにあるのは後にも先にも実存だけだ」僕はそう直感した。そしてそれと同時に軽く眩暈がした。吐き気は無い。虚像としての吐き気だけが僕の中に充満される。

 僕は人に囲まれながら孤独である。いや、人は常に独りである。人の持ちうる感覚はその人由来であり、誰のものでもない。そもそも見える景色も違うのだ。人は遺伝的に色に対する感受性が違う。それでも人はつながりを求める。違うことを理解し、同じであることを共有し強要する。そしてそれはいづれ社会となり、都市になる。都市の一部となった人間は常にリンクされることを求められる。郷に入っては郷に従え、こんな言葉が生まれる位には人は埋没化されているのだ。

 それからSNSの発達、僕らはついに電脳都市を作り出し、それから進んで自己を不安定なものへと作り変えていった。マークトウェインが言ったように、創作なんてない。オリジナリティなどない。全ては情報の集積に過ぎない。それなのに、なぜ僕らは新たなる、完全無欠の確固たる自分を求めるのだろう。SNSでは相互作用でこれが叫ばれている。都市はあるべき形をまた変えていく。


 ……もしマークトウェインの言うように、僕らの功績が情報を纏める、それだけならばそれはいつしか人工知能が置き換わっていくだろう。創作は人間の特権だなんて、てんで可笑しな話だ。そもそも人間にだってできもしない。人工知能と人間、都市と社会、それから実存と虚像、僕と他人、攪拌と伝播。


 気が付くと僕の周りには大地は無かった。黄土色の液体が異臭を放ちながら道路を見えなくしている。僕は目を瞑り、思考を遮断した。本来人間にはそんなことは出来ないはずだが、なぜかその時には出来た。僕は完全に没人化し、完全に実存のみの無へとなり替わった。


 黄土色の液体は辺り一帯を侵食していく、まるで海面上昇のように水位を上げていく、もはや異臭は無い。異臭そのものが無味無臭にすげ替えられていく。そしてついに僕の身体はその黄土色の液体にすっぽりと埋まった。水位はぐんぐんと上がっていく。


 黄土色の液体はまるでそれが溶岩であったかのように急に凝固した。黄土色の液体は大きな一つの岩となった。そして僕はその中でこれからじっくりと化石になっていく。最早無であるために思考は出来ないが、客観で言えばそうだ。


 それから10万年ほど経った。僕は化石になった。そして誰かがそれを発掘したと同時に、僕である化石は昇華した。あるいは硫黄のようなにおいを残して揮発した。どちらかなんて知らないし知る由もない。

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