悪意
何だか最近、クラスの雰囲気が嫌な感じだ。何というか、視線がじっとりしていて腫れ物を見るようなのだ。
まだ学級が始まって二ヶ月なのにそんなに嫌われるようなことを何かしてしまったのか、レオは分からなかった。
「峠先生だろ。」
「そうかな…。でも、あの人は真面目な感じがするし、まず先生だろ?」
レオと月美は、視線から逃れることができる用務室で話し合っていた。
ここ最近のクラスメイトの、レオへの冷たい態度はあまりにもいきなりで不自然だった。
だが、眉間に皺を寄せて月美は言う。
「いいか、レオ。教職に就いていようとな、その人の人間の好き嫌いってのはあるもんだと俺は思う。」
レオはショックだった。先生というのは生徒の好き嫌いなんて無いと思っていたから。
ちなみにレオが気付いていなかっただけで、今までにもそんな事はあった。
だけどレオは、〈先生〉だとか〈親〉とかの肩書きに弱い。それだけで全面的な信頼を寄せてしまうのだ。
「俺、どうしたらいいんだ。」
峠先生に嫌われてしまったのは、俺の何が悪かったんだろう。遅刻?課題を忘れたこと?学校を抜け出したこと?
いくら考えたところで、レオにはやっぱり他人の気持ちなんて分からなかった。
「いいか、レオ。」
こっちを鋭く光る黒い目でじっと見て、月美は言った。
「俺は峠先生のことは気にしなくていいと思う。仮にも教師なんだから、きっとあの人自身で気付くべきことだ。」
「峠先生が気が付くべきことって、なに。」
月美はそっと目を伏せて言った。
「それは、お前が気付くべきことでもあるんだ。」
「あっ、」
今になって思い出した。レオは昼休みに峠先生に呼び出されていたのだ。忘れたらまた叱られてしまう。
「ちょっと行ってくる!」
座っていたパイプ椅子をガタガタ言わせながら、大急ぎで扉を開けて全速力で走った。お昼休みが終わるまであと十分だ。怒られるだろうか。
「失礼しまーす。」
雪街高校の職員室は縦に広くて、奥の方に校長席がある。ずらっと並ぶ歴代校長の写真は、左の方に行くと白黒だ。
今の時期、石油ストーブがあちこちで部屋を暖めていた。峠先生は腕を組み、貧乏ゆすりをした姿勢で椅子に座って待っていた。
「すみません。忘れてました。」
こういう時は素直に謝るものだとレオは思っている。自分に非がある以上は、責められても仕方が無いのだ。それを見て峠先生は、深い溜め息を吐いた。
「お前はどうしてそうなんだ。」
その一言に、レオに対する苛立ちとか嫌悪感とか、鬱憤みたいなものが詰まっていた。黒い目は屈折してこちらを見ていた。レオはあまりの悪意に当てられて、じわりと手のひらに汗をかいた。
キーンコーンカーンコーン
予鈴の鐘の音が鳴った。昼休みは終わりだ。正直レオはほっとした。これ以上この人と一緒に居たら、一週間はこのしんどい気持ちを引きずることになるからだ。
「……失礼します。」
逃げるようにそうっと峠先生の眼前から去った。
何で俺は、いつも人に嫌われるのかな。
昼休みに峠に呼び出されたらしいレオの顔色は最悪だった。猫背だし、目に生気は無い。
今にも口から魂が抜け出してしまいそうだ。さては峠に何か言われたか。
「…レオ、大丈夫か?」
肩に手を置いて、覗き込む様にして訊く。
「……大丈夫じゃない。」
言うと更に猫背になって、手で顔を覆うと、ぐぅと唸り始めた。これはかなり重症だ。
「…よし。」
俺は覚悟を決めた。何の覚悟かというと、それは〈説教〉される覚悟だ。
「レオ。」
そろりと目の隙間からレオがこちらを見た。いつもはぱっちり開いている筈の目は荒んでいた。
俺は力強くレオの腕を掴み、教室を出た。そのまま廊下を進む。昼休みは終わり、もう授業は始まっていて、それぞれの教室は静まりかえっていた。俺とレオの早足の靴音だけが響いた。
玄関も通り抜け、靴を履き替える。
「裏門から出るぞ。」
学校の裏側にある、正門より小さな門は利用している者も少ない。周りは雑草だらけだし、砂利まみれだ。その分先生の目は少ない。朝立っている先生も居ないし、脱走するには穴場だ。
門は自分たちの身長より高いが、乗り越えられない程じゃない。
俺は先にレオの足裏を持って飛び越えさせた。俺は少し後ろに下がり、勢いをつけて飛び付いた。足の力と腕の力で体を支えて登り、とっ、と下りる。
「〈なかむら〉行こう。」
言うとレオはこっくりと頷いて、俺の後を着いて歩いた。
〈駄菓子のなかむら〉。
俺とレオが小学生より小さかった頃からある老舗の駄菓子屋だ。こじんまりした店内には、色とりどりの駄菓子が溢れんばかりあって、子供の頃はここに来るたびワクワクしたものだ。
店主さんもいい人だった。俺たちが来るたび、昔の遊びを教えてくれたりアイスを奢ってくれたりした。この間、代替わりしてしまったけれど。
代わりに来た人はお爺さんの娘のおばさん。何度か見た事はあったけど、話した事はなかった。中学生になると、俺はあまり駄菓子屋に行かなくなった。
次に行った時にお爺さんの姿がなかった時は愕然とした。そして少し後悔した。もっと遊んで貰えば良かったとか、話しておけば良かったなんて思った。
幸いなことに、おばさんもいい人だった。愛想が良くて、店内で子供がお菓子を見ているのを嬉しそうに見ているのだ。俺も何度か行ったが、高校生もまだ子供判定らしく、オマケして貰えた。
レオはずっと〈なかむら〉に通っていたようだから、あのおばさんのこともよく知っている。そして俺は、レオがあのおばさんに懐いていることを知っている。
「おばさん。」
暖簾をくぐって、〈なかむら〉に入る。
「あら、荒井さんとこの!それとレオくんも!」
おばさんは皺を深めるように微笑んで迎えてくれた。こんな時間に高校生の俺たちが来るなんておかしいと分かっているだろうに。
「おばさん、アイスください。クジ付きのやつ。」
「はいはい、レオくんはソーダ味ね?」
視線を向けられたレオは、俺の後ろからうん、と頷いた。
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