第2話 フランツ・フォン・マイヤー斯く生きたり

最初の人生の軌跡。帝国主義と共産主義の黎明期に精一杯生きた、1人の人間の物語。


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 私、フランツ・フォン・マイヤーは1895年4月にまだ皇帝の居た独逸第二帝国の首都ベルリンで父カールと母アマーリエとの間に生まれた1人息子だった。


 マイヤー伯爵家は300年間オストプロイセンに忠誠を誓うユンカー(貴族)で、先祖と同じく父もまたプロイセンに忠誠を誓う陸軍軍人だった。


 嫡男の1人息子の事、軍人以外の選択肢はなく幼年学校から士官学校、そして卒業間近にあのサラエボ事件が起こった。


「フランツィ、戦争になるよ。」


と、父は久しぶりに自宅に帰るなり私にそう言った。私も急に一週間の休暇を与えられ、帰郷せよと教官から言われた時点で覚悟はしていたが参謀本部付陸軍少将の父の言葉で


 「ああ、いよいよか。」


と現実として受け入れる事になった。


 幸か不幸か整理すべき異性関係もなく、一週間休暇を家族で過ごし帰校すると即繰り上げ卒業し見習士官としてプロイセン陸軍砲兵第42連隊に配属され徹底的に鍛えられている最中に開戦となった。


 あの戦争については今更語るまい。西部戦線は地獄そのものだった。


 何とか生きて帰れたが、皇帝も帝国も、何もかもが風の前の塵のように吹き飛んで消えた。東部戦線で父の命も。


 帝国はワイマール共和国となり、戦勝国が押し付けたベルサイユ条約により10万人に制限されたワイマール軍を除隊となり収入を絶たれ、すっかり老け込んだ母を抱えて途方に暮れていた時、当時流行りの反共義勇軍に入団したかつての戦友からの勧誘を受けた。


 「マイヤー中尉、私は君の父上と東部戦線で共に祖国の為に戦った事がある。マイヤー将軍閣下の、皇帝陛下と祖国の為に命を捧げた忠誠は決して忘れていない。忘れてはならない。

 だからこそ、その嫡男である君のような精鋭の若手士官が今の独逸には必要なのだよ。生活のことは心配ない、私に任せてくれ。給与は紙屑のワイマールマルクではなくフランスのフランかイギリスのポンドで支給するし、食料はジャガイモでもソーセージでもチーズでもなんでも充分に現物で支給する。手放さざるおえなかったベルリンの邸宅も君の母上の為に団の経費で買い戻す。祖国の英雄、マイヤー将軍の怜夫人が困窮しているのを座視出来ない。だから祖国の為、そして母上の為にも、君の忠誠を捧げてもらいたい。どうかね?」


 大戦時の戦友でもあり士官学校時代の親しい後輩でもある、その義勇軍部隊の副官をしていたマントイフェル少尉に紹介された反共義勇軍の上級指揮官である元陸軍大佐殿にそう言われた時、他に選択肢なんてなかった。


 敗戦のハイパーインフレのこの混乱期には右翼か赤旗か二択しか選択肢がないが、祖国の裏切り者・共産党など糞くらえだ。


 それに、今更軍人以外の仕事なんて出来ないし、学び直す経済的余裕なんかあるはずもない。




   明日の糧もないのに。




 なのに、父の生き様 死に様を正当に評価してくれる人達や、組織がある。



   正直、救われたと思った。



 だから、義勇軍フライコール「フォン・オーフェン」に入団した。



 その後のしばらくは、街角や酒場、講演会場でドイツ共産党のゴロツキ共との乱闘や闘争•市街戦に戦友達と隊列を組んでの示威行進等が続いて、未熟で若かった私には暗い世相を忘れてリピドーの発散が出来るそれらの活動が、義勇軍フライコールのおかげで生活の心配も無くそれなりに楽しく充実した日々を送った。



 それから、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)が政権を取り、いつの間にか色々な義勇軍が統合されて突撃隊(SA)となり、色々なしがらみで1923年にナチ党に形だけとはいえ入党していた為に古参党員として高級党員章を与えられ、総統の腰巾着のカイテル将軍の推薦で1936年、SA中佐の時に陸軍に同階級の中佐で復帰することができた。


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 ポーランド侵攻の1939年9月1日、私は陸軍砲兵少将として指揮下の陸軍第19機械化砲兵旅団を率いてあの正義なき侵略戦争に加担した。


 数日遅れで東から(侵略されたポーランドへの援軍)と騙して侵攻してきたソ連赤軍と、前もってヒトラー・スターリンの密約により決められていた停戦ラインで対面し、お互い満面の笑みで握手・抱擁したのをはっきりと覚えている。



  あの日、東西の独裁者によりポーランドは引き裂かれ、蹂躙された。



 陥落したポーランドの首都・ワルシャワでの軍事パレードに独逸帝国軍とソビエト赤軍は肩を並べて行進し、虚像の友好関係を世界に示した。


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 後は言うまでもない。ポーランド侵攻から西部戦線でのシュリーフェン計画の焼き直しでフランスや低地諸国を落とし、不可侵条約を無視しバルバロッサ作戦でソビエトに侵攻。緒戦は奇襲により破竹の勢いでの連戦連勝だったが、作戦前に政変により反独逸に寝返ったユーゴスラビアに制裁侵攻し占領した事によりバルバロッサ作戦発動が1カ月以上遅れ、ソビエト連邦首都モスクワ攻略に失敗。更にあのナポレオンすら敗退した(冬将軍)の到来で完全にこう着状態に。


 西部戦線ではイギリスとの2正面作戦の愚行をまたも犯してアシカ作戦の失敗、連合軍のハスキー作戦により同盟国イタリア王国の要衝シシリア島のパレルモの陥落・ムッソリーニ統領の失脚でイタリア降伏。イタリア北部に傀儡政権イタリア社会共和国(RSI)を樹立させたが長くは持たず、逃亡を図ったムッソリーニ統領は同政権崩壊後非公式な略式裁判で死刑を宣告されて、パルチザンにより愛人や副官もろとも射殺され遺体は首都・ローマ近郊の街道で逆さ釣りにしてさらされた。


    そして、あのDーデイ。


 連合軍がカーンから上陸してくる前提で、フランス海岸線に莫大な資金と資材を投入して延々と作られた西方要塞は全く役に立たず、意表を突いてノルマンディーに世界未曾有の規模で攻め寄せた敵の大軍により、フランスを失って前線は独逸本土へ。


 更に無謀なアルデンヌの森からの反抗作戦で、虎の子のティーガー重戦車やパンテル中戦車等の重装備や古参兵を悉く失った。


 東部戦線ではスターリングラードでのパウルス将軍麾下の第六軍の降伏により15万人以上の現役兵やその装備に帝国を支えた10人以上の現役将官が敵の手に落ち、更にバクラツィオン作戦で赤軍に押しまくられルーマニアやブルガリア等が次々寝返り、忠実だったフィンランドすら連合国と講和してラップランドから我が独逸軍を追い出して、最後はベルリン攻防戦での敗戦となった。




 ~祖国が半分に引き裂かれる前に戦死できたのは、いっそ幸福だったかもしれない。~ 



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