「はなさないで」

長串望

いつまで

「はなさないでね」


 って君が言ったから。

 私は君の手を握ったまま、うん、と頷いた。


「うん。はなしやしないよ」

「きっとよ。きっとはなさないでね」

「うん。きっとはなしやしないよ」

「きっとよ。きっと……」


 そのまま君がゆっくりと目を閉じても、私は君の手を握っていたね。

 君の手が冷たくなるまで、その温度を確かめるみたいに、ずっと握ってた。


 私の体温と、君の体温が、ゆっくりと混ざり合って溶け合っていたのに、君はだんだん冷たくなって、そのこわばっていく指先を、私はずっと握ってたよ。


 はなさないでねって、君はそう言ったから。


 朝が来て、カーテンの隙間から朝日が差し込んできて。

 そのころになってようやく私は、ぼんやりとものを考えることができるようになったんだ。


 はなさないでねって、君はそう言ったけど。

 ねえ、さっちゃん。

 それって、いつまで?




「あなた、融通が利かないって言われるでしょ」

「はあ。まあ」

「不器用で頑固だって」

「はあ。まあ」

「おまけに変人ときたわ」

「はあ」


 お義母さんは(そう呼ぶとなんだかとても奇妙な顔をされるが)、呆れ果てたような、困り果てたような、曰く何とも言い難い顔をしていた。

 それはさっちゃんのお葬式でのことだった。


 さっちゃんの手を握りしめたまま、いつまでそうしていたらいいのかわからなかった私は、さっちゃんを抱えたまま、とりあえずお義母さんに電話をかけた。

 朝っぱらからの電話にも、お義母さんは丁寧に対応してくれて、私がしなければいけないことをゆっくりと教えてくれた。私はそれをメモに一つ一つ箇条書きにしていった。多くのことはお義母さんがしてくれるというので、私がしなければいけないことはそんなに多くなかった。


 私はさっちゃんを抱えたままシャワーを浴びて、さっちゃんを抱えたまま髪を乾かした。

 さっちゃんを抱えたままぎこちなく化粧水をはたいて、乳液をすりこんで、簡単に眉を書いておく。それはさっちゃんが私に覚えこませたことで、ぼんやりしていても機械的に手は動くのだった。


 さっちゃんを抱えたまま台所を右往左往して、何とかシリアルの箱を見つけた私は、適当に牛乳を注いだ。さっちゃんがやってくれないシリアルは、牛乳がなんだか妙に多すぎて、それに甘くもなくて、後半はほとんどスプーンで牛乳をすくってはこぼしながら飲んでいた。


 お義母さんの教えてくれた私がしなければいけないリストの三番目は、寝ることだった。

 私はさっちゃんを抱えたまま、さっちゃんの体温がないベッドに横たわった。さっちゃんのにおいがして、さっちゃんの重みがあるのに、さっちゃんは私におやすみを言ってはくれない。


 さっちゃんがおやすみを言ってくれないと私は寝れない。

 なんて思っていたけれど存外に私は薄情な人間らしく、徹夜明けの脳は勝手にスリープモードに入ってしまったようだった。


 目が覚めたのは、お義母さんにたたき起こされたからだった。

 さっちゃんの体温がないベッドでさっちゃんを抱えたまま寝ていた私は、ぎこちなく起き上がって「おはようございます」とむにゃむにゃ言った。

 返事がなかったのでもう一度「おはようございます」と言うと、お義母さんはおはようの代わりに「あなた大丈夫?」と正気を疑う顔と言葉をくれた。その顔は私が変なことをしたときにさっちゃんが見せる顔とよく似ていて、なるほど親子だなあとぼんやり思った。


 お義母さんはシンクで干からびかけていたシリアル・ボウルを見て、私のぼさぼさの頭を見て、そしてまたベッドの上で体温をなくしているさっちゃんの体を見て、「いろいろ突っ込みたいことはあるけど」という顔をした。それはさっちゃんが良く見せる顔と似ていたのでよくわかった。


 それで、私がさっちゃんを抱えたままソファでぼんやりしている間に、お義母さんはいろんなことを済ませてくれた。

 私は詳しくなかったけれど、人が死んだときにはいろんなところに連絡しなくちゃいけなくて、いろんな手順が必要で、そしてそれはお葬式という形で出力されるのだということはわかった。


 私はさっちゃんを抱えたまま、お義母さんにせっつかれるようにしてお葬式を過ごした。

 町の、普段は意識していなかった、メモリードホールなるしゃれた名前の建物の一室で、なんかしゃれた名前だからしゃれた建物なのかなと思ってたけど、それは要するに葬儀場のことなのだった。


 私はそこでさっちゃんを抱えたまま受付をした、と思う。

 お義母さんに言われて、お義母さんに並んでさっちゃんを抱えたまま座らされて、来てくれた人にありがとうございますと言ったり、なんか受け取ったり、名前を書いてもらったりするのだった。お義母さんに言われたとおりの口上は覚えたけれど、意味はよく分からなかった。


 来てくれた人は、知ってる人もいたけれど、ほとんど知らない人だった。私が知らないと思っているだけで向こうは知っていることもあったけれど、それらはみんなさっちゃんの職場の人だったり、お友達だったり、親戚の人だったりした。


 お葬式は、なんだか流れ作業のようだった。前の人のまねをしていると、いつの間にか終わるやつだった。私はさっちゃんを抱えたままお義母さんのやるとおりにすればよかった。お義母さんも私がまねしやすいようにしてくれた。

 棺の小窓から見えるさっちゃんはなんだかすまし顔で、全然知らない人に見えた。私のことなんて知りませんよというような顔で、なんだか私はその顔を見ているとどうしたらよいのかわからなくなってしまって、さっちゃんをぎゅうっと強く抱きしめていた。

 お義母さんが私の肩を引っ張って、椅子に座らせてくれなかったら、私はいつまでもそうしていたかもしれなかった。


 お葬式では、よく知らない人に、さっちゃんとの関係を聞かれた。私はさっちゃんを抱えたままちょっと困った。

 いままでこういう時、なんて説明していたのか、急にわからなくなってしまった。さっちゃんがいた時は、さっちゃんは何て言ってくれていたんだったっけか。私はさっちゃんを抱えたまま、ええと、とつぶやいたきり、その先を思いつかないまま真っ白になってしまった。


「娘の嫁です」


 と簡単に説明してくれたのはお義母さんだった。

 よく知らない人は困惑したようで、私はその顔だとか、雰囲気だとかを感じるとどうにもいたたまれない気持ちになってしまって、さっちゃんを抱えたままうずくまりそうになってしまった。


 でもお義母さんが「娘の嫁です」と繰り返すと、よく知らない人はそういうものなんだねえとそそくさと去って行った。

 お義母さんと呼ぶたびになんだかとても奇妙な顔をしてきた人は、呆れ果てたような、困り果てたような、曰く何とも言い難い顔をして、「あなた、私の娘の嫁なのよ」と言い聞かせるようにつぶやいた。


 私が「お義母さん」と呼んでみると、お義母さんはやっぱりとても奇妙な顔をして、ひとしきり呻いた後、ため息を吐いて、言った。「私があなたのお義母さんです」と。

 私はさっちゃんを抱えたまま、さっちゃんのおかあさんの人をしばらくまじまじと見つめて、もう一度「お義母さん」と呼んだ。そのひとはさっちゃんとよく似た顔で、なんだか微笑んでくれたのだった。


 さっちゃんのお骨は細かった。もろくて、すぐに崩れてしまうほどだった。

 私はさっちゃんを抱えたまま、四苦八苦しながら何とかお箸でさっちゃんの骨をつまんだ。お義母さんからパスされた骨は本当に軽くて、もろくて、多分、私史上一番緊張する箸づかいだった。煮豆をつまんだり、天ぷらを揚げるとき以上に緊張した。


 なんでか骨壺は私が運ぶことになった。そういうものらしい。

 私はさっちゃんを抱えたまま、苦労してさっちゃんの骨壺を抱えた。多分壺の方が重いくらいに軽くなってしまったさっちゃんがそこに詰まってた。


 さっちゃんを抱えたまま、さっちゃんの家のお墓に、さっちゃんの骨壺を納めた。

 さっちゃんは、あれでパーソナルスペースが広いほうだから、ご先祖や親戚とはいえ、こんな狭いところで同居するともめるかもしれないなと思った。

 さっちゃんと私が同棲するまでにも、随分もめたように思う。さっちゃんは自分のスペース内に私がちゃんといないとすぐに怒るのだった。


 なんだっけ。

 なんか。なんかいろいろあったように思うけど、たぶんお義母さんがいろいろしてくれたんだと思う。

 私はお義母さんが貸してくれた喪服のまま、さっちゃんのいない部屋でさっちゃんを抱えたままぼんやりしてた。

 それで、なんだろうな。いつまでかなあって、そんなことを考えてた。さっちゃん、はなさないでねって言ってたけど、いつまでかなあって。


 どういう流れか思い出せないけど、お葬式のあともお義母さんがしばらくのあいだいてくれた。ご飯を作ってくれたり、掃除をしてくれたり。

 私はさっちゃんを抱えたままそれを手伝おうとしたけれど、さっちゃんを抱えたままだと何をするにも不便で、お義母さんは見かねて「いいのよ」と言ってくれた。


 お義母さんにばかり働かせるのもと思って、さっちゃんを抱えたままケトルを火にかけてみたけれど、どこに紅茶やコーヒーがあるのか私は知らなかった。赤ん坊みたいに泣いてる笛吹きケトルを前に、私はあやし方もわからずに、火を止めることしかできなかった。


 さっちゃんを抱えたまま朝食も作ろうとしてみたけれど、シリアルの箱は半端にしか残っていなくて、牛乳は賞味期限が切れていた。お義母さんがいろいろ買ってきてくれた冷蔵庫の中身は、私にはもう何もわからない。もともとさっちゃんの領域だったから、なんにも知らなかったけど。


 お義母さんは、「辛かったら捨ててもいいのよ」とさっちゃんの私物を指していった。それを捨てるなんてとんでもない。と言ったけどあんまり通じてなかった。

 別に私はさっちゃんを思い出して辛くなることなんてないし、なんだかさっちゃんに勝手で物を捨ててしまうのも申し訳なかったので、私は全てをそのままにしてもらった。


 私がさっちゃんを抱えたままの生活にも慣れて、仕事にも戻れるようになってくると、お義母さんは「陽子さん、いつでも頼るのよ」と言って帰っていった。私はなんだか少し寂しくなって、さっちゃんをきつく抱きしめたけれど、さっちゃんの残り香は少しずつ、でも確かに薄れていた。


 さっちゃんがいなくなっただけなのに、まるでヴェルサイユ宮殿みたいに広くなってしまった我が家で、私は毎日迷子になったみたいな気持ちでさっちゃんを抱えたままうろついていた。

 いろんなものにさっちゃんがいて、いろんなところにさっちゃんが微笑んでいるのに、この家にはさっちゃんがいなかった。私はさっちゃんを抱えたままこの寒くて広い家をさまよった。


 さっちゃんがいなくなった家にも、さっちゃんがいなくなった生活にも、それでも慣れていった。

 私はさっちゃんを抱えたまま生きていくことに適応してしまった。さっちゃんを抱えたまま、なんでもこなせるようになってしまった。


 さっちゃんを抱えたまま顔を洗い、さっちゃんを抱えたままシリアルを用意して、さっちゃんを抱えたままテレビを見ながら朝食を済ませる。

 さっちゃんを抱えたまま着替えて、さっちゃんを抱えたまま仕事に行く。もちろん、職場でもさっちゃんを抱えたままだ。職場の人たちは、さっちゃんにもよくしてくれた人ばかりで、さっちゃんのお葬式にも来てくれた。私とさっちゃんのこともわかってくれて、なにくれとなく気にかけてくれていた。さっちゃんがそうなるようにしてくれた。私がさっちゃんを抱えたまま仕事することも、認めてくれた。


 恵まれてるんだと思う。さっちゃんが、私が生きていくための場所を作ってくれたからというのもあるけれど、私を生かしてくれる場所になってくれた職場も、受け入れてくれた人々も、きっと優しい人ばかりだったのだと思う。

 みんなに自分の生活があって、自分のことを気にかけないといけないのに、私はさっちゃんを抱えたままで優しくされていることを思うと、なんだかとても申し訳ない気持ちにもなった。


 さっちゃんがいなくなった日々に、私は慣れた。慣れてしまった。職場の人たちも、慣れていった。慣れていってしまった。世界中が、さっちゃんのいない日々を送っていた。

 私だけがさっちゃんを抱えたまま、さっちゃんのいない日々をつまずきながら歩いてる。

 その私も、さっちゃんを抱えたまま、さっちゃんのいなくなった世界を、当たり前のものとして受け入れ始めていた。


 家はもうヴェルサイユ宮殿みたいに寒々しい広さじゃない。私は家の中で迷うことがなくなった。

 いろんなものからさっちゃんがいなくなって、さっちゃんの微笑みが薄れていく。私は冷蔵庫の中身を把握していて、紅茶とコーヒーを好きな時に淹れられる。お義母さんに電話することも減った。


 そんなある日、職場の後輩の子に、告白された。好きです、付き合ってくださいって。

 たまにはご飯行きましょうよって誘われた居酒屋で、急に言われて、なんて言えばいいのか、困った。

 私はさっちゃんを抱えたまま、割り箸のささくれをじっと見つめてた。


「陽子先輩が幸子さんのことまだ引きずってるのは知ってるッス。でも、私じゃかわりになれませんか?」


 後輩の子は電子ちゃんって言った。

 おうちは電気屋さんなのって聞いたら、「デリカシー死んでるんスか?」って。なんでもお母さんが理系で、お父さんは滅茶苦茶渋ったけど、ゴリ押しされたらしい。

 陽子先輩の家も理系なんですかって聞かれたけど、別に私の名前はプロトンではない。なんか、明るい子になってほしいっていうやつだったらしい。「全然そうならなかったッスね」って言うけど、私もそう思う。


「別にもともとの意味なんかどうでもいいですし、ほら、電子と陽子でいい感じにくっつくと思うんスよ。陽子先輩、陽子なのにネガ入ってるッスけど、私もほら、電子なのにポジティブで、安定すると思うんスよ」

「電子ちゃんはかわりにはなれないよ」


 電子ちゃんが喉を詰まらせたみたいな顔をする。

 私はさっちゃんを抱えたまま割り箸のささくれを取り除いて、それから、うつむく電子ちゃんを見て、なんか間違ったなと改めて言葉を探す。


「えっとね…………………………………………」

「あ、ウーロンハイひとつ」

「はい。グラスおさげしますね」

「電子ちゃんは電子ちゃんで、電子ちゃんのこう……ポジションがあるから。さっちゃんポジションに来られると、電子ちゃんに空きができちゃうから、困る」


 注文一つ挟まれるくらいに考えたけどなんかいい感じの言葉は出てこなかった。


「まあ、それはそれで嬉しいッスけど」

「よかった」

「べつによくもねえんスけど」

「なんかごめん」

「陽子先輩のそういうわかってないのに謝るところほんと陽子先輩ッスよね」

「ありがとう?」

「感謝するのも違くて」


 お酒の入った電子ちゃんはケタケタ笑った。

 私はウーロン茶をなめながら、ずっと抱えたままのさっちゃんを見下ろす。

 さっちゃんはあの日のままだ。はなさないでねって言ったあの日から。

 あの日から、私はさっちゃんを抱えたまま。それはいつまで?


「さっちゃんはね。幸子っていうんだ。ほんとは」

「知ってるッスけど。なんスか童謡みたいなこと言い始めて」

「私はそんな、名前に見合うような幸せにはできないよって言ったんだ」

「あー、陽子先輩らしいネガっぷり」

「そしたらさっちゃんは、自分で勝手に幸せになるし、あなたも無理やり幸せにするからそんなこと知らないって言って、なんか見たことない値段の指輪つけさせられて、家も買っちゃって。気づいたら住民票も移されてて」

「幸子って名前でその暴虐アリなんスか?」

「さっちゃんね、絶対はなさないでねって言ったんだ」

「強引だけどロマンチックな感じの人だったんスね」

「死ぬ前に手を握ってて」

「そういうタイミングのセリフ急に持ってきます?」

「絶対は言ってなかったかもしれない」

「そういうことじゃなくて」

「いつまでかなあって」

「え? どれにかかってるやつッスかそれ?」

「いつまではなさないでいたらいいのかなあって」

「もしかしてそれ今でも続いてるやつなんスか?」

「もういいよって言ってくれないし」

「なんスか? 怖い話ッスかこれ?」


 私はさっちゃんを抱えたままウーロン茶をなめた。


 だからごめんね。っていうのも変なのかな。

 電子ちゃんは、変な顔をして言った。


「陽子先輩はそれでいいんスか?」

「うん。これでいいよ。これがいい」


 察しの悪い私でも、なんとなくわかる。

 でも違う。違うんだ。

 多分電子ちゃんは、私がさっちゃんにとらわれてるんだって、そう思ってる。

 過去に縛られて、前に進めないんだって。


 でも、違う。違うんだよ。


「はなさないでいるためにはね」

「え?」

「はなさないでいなきゃいけないんだよ」

「哲学かなんかの話ッスか?」


 さっちゃんが死んだときに死のうと思っていた私は、さっちゃんを抱えるために生きてないといけないんだ。

 どれだけ辛くても、さっちゃんをはなさないでいるために、私は生きていかなくちゃいけない。

 さっちゃんが私をとらえてくれてるから、私は今日も前を向いて生きていける。

 さっちゃんがはなさないでいてくれるから、私は日々を続けていける。


 いつまでも、いつまでも、はなさないで、はなさないで。

 いつか君のもとへ行けるときまで。

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「はなさないで」 長串望 @nagakushinozomi

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