第十一話 侑浬と侑珠の健康診断
黎涼成は人身売買から逃げてきた子供だった。
涼成は男性獣人なら誰しもが憧れる、最強の獅子獣人だ。けれど気が弱く泣き虫で、本音を飲み込む気質をしている。先頭に立って集団を率いる性格ではなかった。
医者を志して養護施設を出ると、宮廷御医院の若手筆頭に上り詰めるという獅子獣人らしい成長を見せた。だが獣人を過剰に擁護したことで解雇されてしまった。雲嵐も庇ったらしいが、獣人を差別する環境を憎み自ら宮廷を去った。
その後は自力で医院を開き、獣人専門医として活躍をしている。同じように解雇された医者を雇用し、今では翠煌国の開業医としては最大規模の医院になっている。
叡秀は侑浬と侑珠を連れ、涼成の
だが嬉しそうに微笑み、温かく迎え入れてくれた。
「こんにちは。その後どうですか」
「健康だよ。食事もしてるし店でも大活躍だ」
「聞きました。陛下へ喧嘩を売った御膳官が獣人薬膳店を始めたと噂になっていますよ。猫玲王子が、鍾叡秀は獣人を救う御膳官だと語り歩いてます」
「そうなの? どうりで猫獣人のお客さんが多いわけだ」
獣種を一人一人確認するわけではないが、質問されたり薬膳教室の参加者には猫獣人が多い。侑浬と侑珠が遊んでいる子供も大半は猫に獣化をしている。
「獣人同士の交流があるのは良いことですよ。まずは基本的な問診をしましょう。お腹を出してください」
言われた通りに侑浬は腹を見せ、涼成は首から下げていた聴診器を当てる。侑珠は何をするのか分からなかったようで、きょとんと首を傾げている。代わりに侑浬が侑珠の服をめくってお腹を出してやると、涼成が心音を確かめた。
「はい、いいですよ。では私の合図に合わせて獣化と人化を繰り返してください。獣化、と言ったら獣態になる。人化、と言ったら人間態になる」
「侑珠は人化が苦手なんです。何度もできないと思います」
「ええ。できるだけでいいですよ。連続で何回できるかを知りたいんです」
「分かりました。侑珠、できるだけでいいんだって。できる?」
「できる。うさぎになる。にんげんになる」
「無理はしなくていいですからね。自分なりの速度でやってください。では、獣化」
侑浬は合図と同時に獣化をした。侑珠は侑浬よりも少しばかり時間がかかった。
「人化」
今度も侑浬は即時に人化をしたが、侑珠は時間がかかるようだった。
それから十回も獣化と人化を繰り返した。侑浬は疲れることもなく最後までやり切ったが、侑珠は三回繰り返したところで限界がきたようだった。
「はい、いいですよ。次は声を出してみましょう。あーって言ってみてくれるかな」
「あー」
「あ」
侑浬は長く声を出したが、侑珠は音を一つ発するだけだった。
「侑浬君はいいですね。侑珠君はもっと長く言えるかな。あー」
「あ」
「あーあーあー」
「あ、あ、あ」
「なるほど。じゃあたくさん喋ってみよう。私の言葉を繰り返して。おはようございます。今日はいい天気ですね」
「おはよごじゃます。きょ、きょ……」
「今日はいい天気ですね」
「きょは、いいてんきね」
「全て同じ言葉で言えるかな。おはようございます」
「おはようごじゃまう」
「今日はいい天気ですね」
「きょは、い、いい、いい……?」
言葉が分からなくなったのか、侑珠は眉間に皺を寄せると兎に戻った。
獣化と人化の繰り返し、難しいお喋りで疲れたのか呼吸が荒い。侑浬は慌てて侑珠を抱きしめて、もう駄目、と厳しい表情で涼成に訴えている。いじめられたように感じたのか、侑珠を抱いて叡秀の背に隠れてしまった。
「すみません。無理をさせましたね。でももう少しだけ。侑珠君の生活指導をさせてもらってもいいかな」
「え⁉ 侑珠どっか悪いんですか⁉」
「悪くないよ。けどもっと元気になる方法があるんだ。まず、叡秀さんは分かってると思いますが、侑珠君は人化栄養不全です。食生活に気を付けてあげてください。それよりも注意したいのは声です」
「あ、やっぱり。喋る練習が必要って聞いたよ」
「侑珠はお喋り苦手なんだ。でも一生懸命お喋りしてくれてるよ」
「ええ。これは兎の習性です。鳴かない獣種は人間態でも言葉が少ない。ですが人間の声帯は使っていないと衰え、声を出すことができなくなる」
びくっと侑浬が大きく震えた。侑珠を抱きしめる手が震えている。
「嫌です! どうしたら、どうしたらいいですか! 何してあげたらいいですか!」
「落ち着いて。毎日喋ってれば大丈夫です。誰かと遊ぶことはないのかな」
「あります! 遊んでくれる子ができました!」
「じゃあその子たちといっぱい喋るといい。喋るための時間を設けるのもいいでしょう。兎の親子は絵巻物を声に出して読むことが多いですね。それと、できるだけ人間態で過ごしてください。それも疲れるまでめいっぱいに。そうしないと、身体が今のままで十分だと思ってしまい、人間態の細胞が衰えます」
「分かった。人間態で遊ぶ時間を増やそう。侑浬の方は?」
「問題ないですよ。狩猟はしてますか?」
「してないです。あんまりやりたいと思ったことないんです」
「教育環境で変わりますからね。でも狩猟はした方がいい。肉食獣人の本能が満たされないと、心的疲労が溜まりますから」
涼成は書類を一枚取り出した。表紙には『狩猟制度利用案内』と書かれている。
侑浬に見せようかと思ったが、いつの間にか眠ってしまった侑珠を撫でるのに必死で見向きもしない。叡秀は案内書を受け取り鞄へしまうと、同時に奥から女性が入って来た。涼成の助手をしている看護師で、叡秀も世話になっている。
「問診は以上です。二人は採血をしていってください。叡秀さん、少しいいですか」
「はい。侑浬、採血ってしたことある? 怖い?」
「平気。時々やってた。侑珠は怖がるけど、今寝てるから大丈夫だと思う」
「ん。じゃあお願いします。終わったら広間で待っててね」
侑浬と侑珠を看護師に預け、診察室を出るのを見届けて涼成の向いに座った。
「何か問題あった?」
「いいえ。あの子たちの素性が気になるんです。まず、二人は血縁じゃありません」
「え? でも本人は兄弟だって言ってるよ」
「養育者にそう言われただけでしょう。草食と肉食は、血縁になりえないんです」
「でも混血っているよね。そういうことじゃないの?」
「獣人の生態は分かっていないことも多いので、確実なことは言えません。ですが、草食と肉食は細胞から違う。混血になり得るのは肉食同士、草食同士」
「けど猫玲王子は兎獣人の血が濃いみたいだよ。草食と肉食だ」
「ええ。それが今回訪問なさった理由ですよ。ごく稀にそういう血統がいますが、世界でもほんの一握り。適した医学がないので代々短命です。そこで、獣人医学最先端の翠煌国に医学協力を頼みに来たんです」
「そうなんだ。じゃあ侑浬と侑珠もそういう血統かもしれない?」
「血液検査の結果が出ないと確実なことは言えませんが、おそらく違うでしょう。混血は成長が異常に遅いんです。猫玲王子は現在二十九歳です」
「え? どう見ても十七、八じゃないか」
「そういうことです。でも侑浬君と侑珠君は年齢相応の成長をしています。混血の五歳児はまだ赤ん坊。十歳でようやく一般的な五歳児くらいになります」
「そっか。じゃあ問題ないんだね」
「体調面は。問題は本人の気持ちです。血縁じゃないと知って、衝撃を受ける子供は多いです。親の話は聞きましたか?」
「何も。でもきっと、獣人密売隊商から逃げてきたんだと思う。侑浬は隊商を怖がるけど接客は優秀だ。商品選定のために販売員として教育されてたんだろう」
「私もそう思います。実は通達が出てるんです。狩猟区域に獣人密売隊商が出入りした形跡があるので、怪しい患者は刑部へ通法するようにと。特に異獣種で血縁を名乗る者は要注意。素性を隠してるんですからね」
「……侑浬と侑珠が売人側だと言いたいのか」
「いいえ。これは親子を名乗っている場合です。売人が親を名乗り、商品である子供は必ず連れ帰る。宮廷職員の家に居候する売人なんていませんよ。それに、二人は殺されそうになっていたのかもしれない」
「それは、何でそうなるの。根拠は?」
「狩猟区域を彷徨っていたからです。狩猟区域は刑部の管轄。捜索願と区域内迷子は常に照らし合わせています。刑部から何かしらの通知はありましたか?」
「ない……」
「なら探されていないということです。二人の生死を確かめたかったとしても、犯罪者は刑部へ問い合わせなんてできません」
「少し飛躍しすぎな気がするよ。単なる迷子かもしれないじゃないか」
「迷子とは偶発的に起こるものです。ですが狩猟区域は入場資格が必要だ。翠煌国籍があり、納税をしていることが前提の国営福祉。うっかり入場はできません」
「そっか。そうだよね……」
「今に至った事情は知っておいた方がいいと思います。万が一を避けるためにも」
涼成はぎりっと唇を噛んだ。人身売買への怒りは、叡秀よりもはるかに強い。
子供の頃は人間を恐れていたが、社会に出たら恐怖が敵意になったようだった。養護施設も嫌悪した。医院を拡大し続けているのは、養護施設に獣人の子供が来たら引き取るためらしい。子供に辛い思いをさせることは許せない正義感の強い男だ。
涼成は清く正しく美しい。親を失い自棄になり、なんとなく御膳官になった叡秀とは違う。隣に並ぶことが恥ずかしくなる時もあったが、今はそれが頼もしい。
「何かあれば来てください。医者が必要な時もあるでしょう」
「そうさせてもらうよ。有難う」
ぺこりと頭を下げると、叡秀は侑浬と侑珠が待つ広間へ向かった。
「命を狙われる、か。そこまで考えてなかったな……」
もし本当に命を狙われているのなら、何かしら対策が必要だ。しかし何も証拠がない状態では、犯罪を取り締まる刑部は動かない。
どうしたものか考えながら歩いていると、どんっと少女にぶつかった。
「いたっ!」
「あ! すみません! 大丈夫ですか!」
「……はい」
少女は右腕に包帯を巻いていた。包帯の箇所を抑えながら足早に去る。
医院で怪我人にぶつかるなど言語道断だ。叡秀はぱんっと両手で両頬を叩いた。
「しっかりしろ。侑浬と侑珠には僕しかいないんだ。守ってやらなくちゃ」
ぐっと拳を握って気合を入れ、侑浬と侑珠の待つ広間へ入った。侑珠は侑浬の膝の上ですやすやと眠り、侑浬は幸せそうに侑珠を撫でている。
「お待たせ。痛くなかった?」
「平気。侑珠ずっと寝てたから気付いてないよ。叡秀は何のお話だったの?」
「食事の確認だよ。二人に正しい食事をさせてるかって」
「そんな! 叡秀はちゃんと食べさせてくれてるよ!」
「お医者様はそれを確認してくれる人なんだよ。さて、陽紗の店で絵巻物を買って帰ろう。侑珠のお喋り練習用だ」
「うんっ! 絵巻物なんて初めてだよ。侑珠はどんなお話が好きかな」
侑浬は嬉しそうに笑って、いつも通りに侑珠を撫でた。侑珠は安心しているのか、ぴくりとも動かず眠っている。
無邪気で可愛い。こんな無垢な子供が殺されていいはずがない。
叡秀は侑浬の肩を抱き寄せた。生前、両親が抱きしめてくれた腕は大きかった。暖かくて安心できて、抱きしめられるたびに家族の絆を感じたのを覚えている。
侑浬と侑珠に何をしてやれるだろう。同じようにしてやれるのだろうか。
夜は侑浬と侑珠を抱きしめて眠った。何ができるかは分からないけれど、安心して眠れる場所でいられたらいいなと思った。
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