序章 獣人の子になった人間の子(二)

 白い建物は《児童養護施設》という場所だった。身寄りのない子供が預けられる場所で、ほとんどが人間だが一人だけ獣人もいた。同じような状況に置かれた子供がいることは心強いように感じた。

 しかし、思っていたよりも、養護施設での生活は難しかった。両親が言っていた「美味しい物をいっぱい食べられる」というのが叶わなかったからだ。

 職員が食事を出さなかったわけでも、嫌がらせをされたわけでもない。叡秀自身に問題があった。


「人間の調味料は爪の先程も食べれないみたい。今日も殆ど残したのよ」

「やっぱり『獣人の子』なのね。人間扱いしない方がいいのかしら」


 肉食獣人と野生で生活していたからか、人間の食事ができなくなっていた。

 試しに獣人用の料理を出してもらった。獣人の子供は食べていたが、叡秀は妙な匂いを感じて吐き出してしまった。

 人間とも獣人とも違っていて、いつしか『獣人の子』と呼ばれていた。


 健康になる食なんて存在しなかった。人里に降りた意味はなかった。

 何故あの時、両親を追いかけなかったのだろう――その後悔に締め付けられた。健康になれないのならいる意味はない。

 ――帰ろう。森に。

 意味がないなら帰ればいいだけだ。それに気付くと、食べられない食事に背を向けて立ち上がった。捕まる前に走って逃げようとしたけれど、後ろからぽんと肩を叩かれる。思惑に気付かれたのかと思い、手を振り払って睨みつける。

 けれど、そこにいたのは見慣れた職員ではなかった。四十過ぎくらいだろうか、こざっぱりとしていて体格のよい男だった。手には大きな盆を持っている。


「食事が口に合わないそうだね。今日は違う料理を作ってみたよ」


 男は両親と同じように膝を付き目線を合わせ、持っていた盆を見せてくれた。

 盆には小さな皿がたくさん並んでいた。全て違う料理が乗っている。香辛料の匂いはせず、野菜を茹でただけに見える。それも見覚えのある山菜ばかりだった。


「山菜! 森で取ってきたの⁉」

「街で買うことができるんだ。叡秀は山菜が好きだとご両親から聞いた」

「お父さんとお母さんを知ってるの⁉ あんただれ⁉」

雲嵐うんらんという。御膳官といって、宮廷で色々な料理を作る仕事をしているんだ。この中に好きな料理はあるかな」


 雲嵐は椅子に座り、その手にある山菜に惹かれて椅子へ座った。目の前に並べられた山菜に手を伸ばし、森でやっていたように手掴みで食べる。手掴みは悪いことだと言われ、箸を使うように指導をされた。だが叡秀には難しく、食事が億劫なのはそれも理由だった。

 けれど懐かしい山菜を前に、礼儀など頭から吹き飛んだ。女性職員は注意しようと飛んで来たが、雲嵐は、いい、と女性職員を制止した。

 まるで森に戻って食事をしている気分になり、次から次へと口に放り込んだ。どれも野菜そのものの味で、余計な味がしない。求めていた物が手に入ったと、体中が喜んでいるのが分かる。

 夢中になって食べていると、雲嵐が頭を撫でてくれた。


「気に入ったか。これは薬膳といって、たくさん栄養が取れる料理だ」

「なにそれ。獣人の料理?」

「いいや。人間の医学から生まれた料理だ。だがね、食に種族の境はないんだよ」


 それは嘘だ。同じ物が食べられれば、今こんな場所へ来る必要はなかった。

 雲嵐は頭を撫でていた手で、今度は頬を拭ってくれた。拭ってくれたのは涙だった。自分が泣いていることに、叡秀はようやく気が付いた。


「作り方は皆に教えておくからしっかり食べなさい。何をするにもまず体からだ」


 雲嵐は何度も頭を撫でてくれた。大きいけれど繊細な料理を生み出した手は柔らかく、両親を思い出さずにはいられなかった。


 雲嵐は毎日やって来た。雲嵐の作る薬膳は初めて食べる物ばかりで、とてもとても美味しかった。

 いつも違う料理で、時には美味しくない料理もあった。だがそれはわざとで、食の好みを調べてくれているようだった。嫌いな食材は調理方法を変え味付けに工夫し、気が付けば何でも食べられるようになっていた。

 これが両親の言っていた『健康になる食べ物』だと、ようやく理解した。

 雲嵐が来ることが楽しみになり、脱走することはすっかり忘れていた。今日も雲嵐は食材を抱えてやって来て、姿が見えると飛びついた。


「おお、叡秀。今日も元気だね。待たせてしまったかな」

「うん! 今日は何の薬膳を作るの⁉」

「今日は八宝粥だ。叡秀と一緒に作ろうと思って簡単な物にした」

「僕と? 僕も作れるの?」

「もちろんだ。覚えれば何でも作れて楽しいぞ。手伝ってくれるか?」

「うん! 作る! 薬膳作りたい!」


 この日から、毎日雲嵐と薬膳を作るようになった。料理は思いの外簡単で、煮る、焼く、蒸す。これだけだった。人間は調味料で難しい味付けをするが、叡秀は嫌いないので使わない。気を付けるのは火にかける時間くらいだ。

 だがもう一つ、叡秀にはずっと気になっていることがあった。


「雲嵐様。獅子獣人でも食べられる薬膳ってある?」

「もちろんだ。だが獣種より本人が何を好むかが大事だな。体に良くても、嫌な料理を無理に食べさせられるのは嫌だろう?」

「じゃあ何が好きなのか調べないとだめだね。教えてくれるかなあ」

「おや。誰かに食べさせてあげたいのか?」

れい涼成りょうせい。ずっとしょんぼりしてるんだ。きっと食事が嫌なんだよ」


 自分が元気になると周りに目が行くようになった。涼成はこの施設唯一の獣人で、年の頃は叡秀と同じだ。叡秀と同じように施設へ馴染めずにいる。

 雲嵐は食事をしている涼成を見た。手は遅いが、全てに手を付け食べている。


「あの子は獣人用の食事を食べていると聞いたぞ。問題はないと」

「僕もそう思ってたけど、多分違う。僕ですら嫌なんだから、獣人はもっと嫌なはずだよ。それに近づくとびくってする。人間が怖くて、嫌って言えないんだと思う」

「……よく見ているね。叡秀は人間よりも獣人が好きか?」

「分かんない。でもここの人間は獣人が嫌いだよ。獣人の子も嫌い」


 雲嵐は眉間に皺を寄せ、施設の職員を睨みつけた。こちらの会話を聞いていたのか、職員たちは逃げるようにどこかへ行ってしまった。

 だがそんなものは気にならなくなっていた。雲嵐の薬膳は、心身ともに元気にしてくれた。生きる力を取り戻せた。


「薬膳を食べると元気になるんだ。きっと涼成も元気になるよ」

「そうか。じゃあこっちに呼んでおいで。食に恐れのある獣人は、毒ではないかと疑っていることが多い。だが共に作り、同じ鍋から盛り付ければ恐ろしさもなくなる」

「そうなの⁉ 呼んでくる! 涼成! 涼成ー!」


 雲嵐の言う通り一緒に料理をすると、涼成は今までが嘘のようにたくさん食べるようになった。ひと月すれば頬はふっくらとして、外で遊ぶようにもなった。

 一年して健康になると、この経験を生かして獣人専門医になると宣言した。猛勉強を始め、その翌年には宮廷御医院見習いとして採用された。これで勢い付いたのか、施設を卒業する十八を待たずして宮廷の寮に移ってしまった。

 やっとできた友と離れるのは寂しかったが、時折施設へやって来て宮廷の話を聞かせてくれる。


「宮廷たのしい? お医者さんになれそう?」

「楽しいけど嫌なこともあるよ。人間と獣人はやっぱり仲が悪いんだ。でもそれじゃ駄目なんだ。人間の医学があれば、獣人も人間と同等の寿命を生きられるんだ!」


 寿命がどうこういうのは、父も言っていた話だった。その意味はまだ分からない。

 涼成の話はどれも難しかったが、夢を語る姿はとても眩しかった。


 涼成の話を聞いて、ふと自分のことを考えた。

 生きる術を身に着ければ、両親の元へ帰れるのではないだろうか。自活できれば、何処でどう生きようが自由だ。それこそ自分が最も求めた幸せな生き方だ。

 叡秀はやって来た雲嵐を捕まえ聞いてみた。


「雲嵐様! 薬膳を覚えたら、お父さんとお母さんの所に帰ってもいい⁉」


 とても良い考えだと思った。だが雲嵐は一瞬息を飲み言葉を失った。少し黙り込むと、鞄から小さな木箱を取り出した。木箱には小さな包丁が入っている。


「ならば私の家に来ないか。ここで教えられることは限られてるからね」


 雲嵐はその包丁を取り出し握らせてくれた。まだ煮ている鍋を掻きまわす程度しかできない。けれど、雲嵐の元に行けば自分で作れるようになるのかもしれない。


「おいで。薬膳の作り方を教えてあげよう」

「うん! 行く! またお父さんとお母さんと暮らすんだ!」

「……お前はきっと素晴らしい御膳官になる」


 御膳官というのは雲嵐の仕事だ。御膳官なんかになるつもりはなかった。ただそれくらいの技術を教えてくれるという意味だと、この時は解釈していた。

 だがそうではなかった。これは『一人で生きろ』という意味だと後から気付いた。

 それは、涼成が勉強した知識を教えてくれていた時だった。


「涼成……今、何て言ったの……?」

「だから、寿命は獣種で違うんだよ。狼獣人は三十歳くらいだよ」


 野生育ちの獣人は人間より圧倒的に寿命が短いという。両親の年齢は、狼獣人の平均寿命だという頃に近かった。

 雲嵐が言葉を濁した理由に気付き、施設を飛び出した。すぐ職員に捕まったが、雲嵐は両親と暮らしていた森へ連れて行ってくれた。

 着いた所に森はなかった。人間に開拓され、金属製品を作る工場になっていた。


「二人は二十八だった。余命もないから、代わりに叡秀を育ててくれと頼まれた」

「そんな……じゃあ、もう……なにも意味がないじゃないか……」

「そんなことはない。お前は涼成を救った。一杯の薬膳で獣人の人生を変えた」


 雲嵐は地に膝を付き目線を合わせてくれた。両肩を掴む力はいつになく強い。


「御膳官になりなさい。お前の求めるものに出逢えるだろう」


 雲嵐は家族として迎え入れてくれた。雲嵐の妻も娘も息子も皆優しくて、胡家の養子にしようと言ってくれた。

 けれど、誰かの息子になる気にはなれなかった。だが国籍は必要らしく『鍾叡秀』という姓名で戸籍を登録してくれた。

 それからはひたすら料理の勉強をし、二十一歳で御膳官試験を受けた。一般的に三回は落第するらしいが一度で合格した。入廷後二年は見習いを務めるが、一年で一人前の御膳官になった。雲嵐以来の快挙だと喝采を浴びたが、何の感慨もなかった。

 代り映えのしない毎日に飽き、試しに胡家を出て一人で生活を始めてみた。再び家族の喪失感を味わうかと思ったが、それもまた、それだけの出来事でしかなかった。

 それでも雲嵐は叡秀を否定しない。胡家を出ても息子同然に可愛がってくれた。

 ――雲嵐には感謝をしている。それでも雲嵐の子供にはなれなかった。


 雲嵐は『お前の求めるものに出逢える』と言った。

 求めるものが何なのかすら分からないまま、死んだ両親と同じ年齢になっていた。

 変わったのは家族がいなくなったことと、薬膳の知識が増えたことだけだった。


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