獣人の子 薬膳でつながる異種族の絆

蒼衣ユイ

序章 獣人の子になった人間の子(一)

 あれは十七年前、十歳の冬。

 人間の叡秀えいしゅうは狼獣人の子になった。


 世界には人間と獣人の二種類が存在する。

 獣人は『人間になれる獣』だ。姿が人間になっても、人間とは一線を画している。


 叡秀は孤児だった。二歳で《錦華ちんふぁ》という隊商に拾われ、隊商隊員として育てられた。

 隊商は馬車で移動販売をする集団だ。錦華はその名の通り豪華な品を扱っていたが隊員の生活は質素だった。子供は全てお下がりで、小遣いは客の心付けのみ。

 豊かではなかったが、隊商以外の世界を知らない叡秀は何も苦しくなかった。

 だが、その日は朝から様子がおかしかった。水浴びをさせられ、頭の先から爪先まで磨き上げられた。一体何なのかと訊ねれば、顧客への荷運びをするという。

 とても荷運びはできない高価な衣服に疑問を感じたが、ずるずると連れて行かれた先は薄暗い森の入口に停まっている馬車だった。

 小さいが豪奢な馬車は、いかにも金持ちと思われた。隊商よりも錦華を名乗るに相応しいが、窓から見えた光景に鳥肌が立った。

 馬車の中では恰幅の良い男と、叡秀と同じように着飾った青年が情事に及んでいる。 

 だが愛し合っているからこその行動ではないのは明白だった。

 青年は泣きながら苦痛に耐えていた。それも鎖付きの首輪を付けられ、恰幅の良い男に鎖を握られてる。それを見た瞬間、今から自分の身に起きる事態を察知した。 

 ――人身売買だ。売られる。

 近年、人身売買の摘発が多発している。だが売買現場を押さえるのは困難を極めるという。その理由は、主な密売現場となるのが隊商だったからだ。

 隊商は常時移動し、出店場所は気分次第。怪しいと分かっているならともかく、不特定多数の善良な隊商から犯罪隊商の一つを見付けるのは難しいという。

 何しろ取引は堂々としたもので、売人が『商品』に接客をさせ、購入者が「馬車へ荷物を入れてくれ」と自発的な乗車を促しそのまま逃げる。

 今まさに、売買が行われようとしている。


 恰幅のいい男がこちらに気付き、馬車から降りてきた。青年は口をぱくぱくさせていて、助けを求めているのは表情から見て取れる。

 叡秀も隣に並ばされると思うと、青年の乱れた衣は恐怖を煽った。

 ――飼われてなんてやるものか。

 叡秀は反射的に隊長の股間を全力で蹴り上げた。


「ぎゃあああああああ!」


 隊長は股間を抑えながら膝から崩れ、地面に這いつくばった。


「叡秀! てめえ! 育ててやった恩忘れやがって!」

「ふざけるな! 売り飛ばす前提の教育に恩なんてない!」


 叡秀は恰幅のいい男を突き飛ばし、馬車を通り過ぎて森へ走った。青年の窓を叩く音が聞こえたが、連れ出し共に逃げる余裕はない。

 獣のように繋がれた青年に顔を背け、振り返らず走った。


 幸いにも追いかけてくる様子はなく、叡秀は大木の根本に座り込んだ。

 その場に身を投げると、手足や顔、至るところから血が出ているのに気が付いた。何にぶつかったのかも思い出せないが、怪我を認識したら次第に体中が痛みに襲われていく。


「寒っ……」


 凍えるような寒さに声を震わせた。無情にも、叡秀を埋めるように雪が降り始めた。

 寒さをしのごうと木の葉を掻き集め木の洞に身を隠そうとしたが、その身を丸めるしかできない狭い空間を冷たい雪が追い詰める。

 隊商しかしらない叡秀は、どこで誰に助けを求めればいいのか思い付かなかった。

 頼る相手はいない。本来獣の獣人ではないから、野生生活に必要な知識も装備もない。降り積もる雪は冷たさを増し、次第に空腹が身に染みてくる。

 薄暗い静かな山間は死を感じさせ、飼われた方がよかったのかも――そんな自問が掻き立てられた時、まるで幻のように二十五、六歳くらいの男女が連れ立って現れた。


「坊主! こんなところでどうしたんだ!」

「この怪我で獣に戻ってないなら人間かな。君、名前は? 何があったの?」

「……叡秀。人間。売られて、逃げてきた」

「よし。意識がはっきりしてるなら十分だ。すぐ暖かい所へ連れて行ってやる」


 男は肩で結わいていた紐を解いて裸になると、手足を地面に付けて四つん這いになった。手足にざわざわと黒い毛が生えてきて、全身が黒い毛で覆われていく。

 ――男は人間から狼へと姿を変えた。


「獣化……!」

「狼獣人を見るのは初めて? 大丈夫よ、怖くないから。さ、背に乗って」


 女に促されて狼に跨った。従来、獣人は人間を背に乗せない。人間に支配されているように感じるらしい。

 それなのに男は平然と背に乗せてくれた。女も狼になると、二人は凄まじい脚力で寒空を駆け抜け、あっという間に彼らの家だという木造の小屋へ到着した。

 小屋の中に入ると女は手早く暖炉に火を付けた。男は人間になると、叡秀を抱いて火の傍へ座らせ、手を握り温めてくれる。

 この小屋が男と女の安息の場であり、愛情に満ちた居場所であると感じた。


 男と女は湯を沸かし身体を洗ってくれた。怪我の手当てをし、温かい食事も与えてくれる。人間よりも人間に優しい空間は、叡秀の身と心を生き返らせた。

 男の大きな手で頭を撫でられると、見捨てた青年の姿が脳裏に過った。助けてくれと、叫ぶ代わりに泣いていた。

 涙が溢れた。助かるために一人で逃げた是非は分からない。でも涙は止まらなくて、何も知らない男と女は暖かく包み込んでくれた。


「安心しろ。俺たちは森で一番強い狼獣人。悪い奴が来ても追い払ってやる!」

「そうよ。行く所がないならここにいればいいわ。二人きりは味気ないと思ってたの。お母さんって呼んでくれていいのよ」

「お。いいじゃないか。なら俺は父さんだ! お前は今日から俺たちの息子だ!」

「私はしょう林杏りんしんで、この人はしょうふぁ。あなたは鍾叡秀よ。私たちの息子だからね」


 物心ついた時から親はいなかった。姓など知らない。

 家族だと思っていた人間に裏切られた。助けられたかもしれない人を見捨て、でも助けには戻れない。

 それでも親ができた。申し訳ない気がしたけれど、とても嬉しかった。


 それから三人家族として生活を始めた。異種族であることなど関係なくて、共に狩りをし食事をし夜には抱き合って眠る。本当の親子になれたと感じていた。

 身の凍える森でも温かく平和そのものだったが、一年ほど経って異変は現れた。

 叡秀は手足が棒切れのように細くなってしまった。体力も衰え、力仕事はろくにできなくない。少し冷えれば熱を出し寝込む。

 両親は焦ったが、原因はすぐに分かった。痩せた原因は食事だった。

 気付いたのは、近隣で様々な山菜が採れると知った時だ。両親は肉食獣人だから狩った獲物の肉を食べるが、叡秀は人間だ。動物の肉だけでは栄養が足りなかった。

 叡秀は山菜を食べるようにしたが、その度に両親は首を傾げていた。植物を食べるという概念自体がない彼らには、異様な光景に見えたのかもしれない。

 食の差異を気まずく感じ始めた頃、夜に二人が声を曇らせて話しているのが聞こえてきた。


「やっぱり人間の食事じゃないと駄目なのよ。このままじゃ良くないわ」

「人間は獣人よりも寿命が長いしな。今のうちに育て親を探してやるべきか……」


 寿命がどうこういう理由は分からなかった。分かったのは、人間の自分は二人の息子になれないのだという事実だけだった。


 それから、両親は出かけることが増えていった。それが育て親を探すためだというのはすぐに分かり、叡秀は今まで以上にべったりとくっついた。

 両親の気が変わることを祈り寸暇を惜しまず傍にいたが、ついにその日がやってきた。

 両親に手を引かれて行ったのは、翠煌つぃふぁんという国の華陽ふぁいやんという大きな街だった。隊商生活を思い出す過剰な人出と、賑やかな雰囲気に頭が痛くなった。

 人々を横目に大きな通りを進むと、こじんまりとした建物の前で足を止めた。真っ白で綺麗な建物だったが、森が日常になった叡秀には気味悪く感じられた。

 戸を叩くと中から壮齢の男が一人と、若い女が二人出てきた。繊細な刺繍が施された衣は美しいが、羨ましいとは思わなかった。

 両親を含め、大人五人が話し込んだ。話し終えると、両親は膝を地に付けて目線を合わせてくれた。強く抱きしめてくれる腕は震えている。


「ここなら叡秀はずっと元気に暮らせるの。きっと人間の友達もできるわ」

「美味しい物をいっぱい食べられる。今より健康になるぞ!」


 そんなのいらない――そう言いたかった。けれど野生生活に限界があるのも、これが二人の最大の優しさであることも良く分かっていた。

 そうして、両親の手は離れていった。

 引き留めてはいけない、追いかけてはいけない。

 だが両親の立ち去る足取りも重いようで歩みは遅く、何度も振り返り手を振ってくれていた。けれど二人は狼になり、走り出すと姿はすぐに見えなくなった。

 追いつけないほど遠くなり、ようやく叡秀は声を上げて走った。


「父さん! 母さん!」


 狼である二人に追いつけはしない。それでも走らずにいられなかった。

 それを見透かしていたのか、白い建物から出てきた男に腕を掴まれた。


「仕方ないんだ。獣人と人間は共に生きることはできない。今日から私たちが家族だ。ご両親の願ったとおり、健康に生きよう」


 お前は家族じゃないと言ってやりたかった。だが両親の気持ちを想えば、人間の白い建物に入るしかなかった。

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