第3話 卵の割り方
洋館の台所はよく整頓されていた。三口あるコンロと備え付けのオーブン、壁に並べてかけられた大きさや形の違うフライパン。小さな戸棚には、様々な種類の調味料や香辛料、ドライフルーツの入った瓶がぎっしりと詰まっている。
「料理人の台所みたい」
私の母は料理が嫌いで、夏の間はそうめんしか作らない。冬は毎日お鍋。そんな家庭で育ったせいなのか、私も食べるものには無頓着だ。外食も、マクドナルドしか行かない。
感激している私の背中をぽんと一回軽く叩いた後、リスパは冷蔵庫を開けた。
「何が食べたい?」
「そんなこと聞かれても、私、メニューなんてそんなに知らないし」
「じゃあ、僕が決めるか。ベニョリーゼとパパパサラダと……デザートはピラッペで」
「な、なんて?」
そんな奇怪な名前、一度だって聞いたことがない。ここが異世界であることを、改めて思い知る。
リスパは冷蔵庫から卵と魚の切り身、私には名前の分からない緑色の野菜を取り出し、カウンターの上に並べてゆく。
「アリピちゃん、ボウルに卵を割って」
そう私に指示してから、自分はスパイスを物色し始めた。
卵。今までの人生で一度も割ったことはないが、触った感じではけっこう堅そうに思える。取り合えず、手に持って高く掲げてから、ボウルの中に落としてみることにした。カラン、とむなしい音が鳴っただけで、卵はびくともしない。首を傾げながら顔を上げると、私をじっと見つめているリスパと眼鏡ごしに目があった。表情のない顔。泣きじゃくった後の、漂白された顔に似ていた。
リスパが私のそばに寄って来る。ボウルの中から卵を取り出すと、カウンターに打ち付けた。蜘蛛の巣のようにひびが入る。そこを両手の親指で優しくおさえると、殻の中から白身と黄身が滑り落ちた。
「なるほど。そうやるんだ」
リスパは私を横目で見ると、手元に置いてあったスパイスの瓶を持ち上げた。
「これ、何か分かる?」
「この匂いは、カルダモンでしょ」
リスパは顎に手をやり、考え込むような仕草をする。
「アリピちゃん、君は、すごくいびつだね」
これまでどんな生活をして来たんだろう、と呟く。その言い草になぜだか私は傷付いて、唇をかんだ。
「泣かせちゃった」
真っ白だったリスパの顔にみるみるうちに表情が広がってゆく。困惑しているようだ。私にも私の気持ちが分からないのだから、彼女に分かるはずがないか。
「リスパだって変だよ」
声に嗚咽が混じる。リスパは困ったような顔のまま、
「何が?」
と聞き返して来る。
「異世界人のくせに、私の知らない料理とか作ろうとするくせに、妙に同世界人みたいなんだもん」
「ああ、なんだ、そんなこと」
彼女はため息をついた。
「僕は元々、君と同じ世界の出身だからね。言ったよね、異世界小説翻訳者だって。この世界の小説を君の世界の言葉に翻訳する仕事をしてるんだ」
「もしかして、本業はスパイだったりする?」
リスパがやれやれと肩をすくめる。
「これだから、子どもは嫌いなんだ」
そう言って、私の背中にぴったりとくっ付いて来た。思わず体を固くする。リスパは私の両手に後ろから自分の手を添えると、まだ割れていない卵へと伸ばさせた。あ、そうか。だんだんと、緊張が解けて来る。私は卵を掴み、リスパに導かれるままボウルに割り落とした。
「ほら、できた」
「なんかリスパって、学校の先生みたいだね」
リスパは何も言わず、体を離した。温かさが、まだ残っていた。
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