第2話 星の輪熊
雑木の森の中を蛇行する舗装されていない一本道を走り続けて数時間、木の葉の隙間から見える空には青い星が輝き、密度の高い植物の群れは巨大な怪物のように息をして、軽トラックの運転席に座る女は冷え切った目で行き先をにらみながら、私の知らない歌を口ずさんでいる。
分からないことがたくさんある。けれど、いくら生意気を自認する私とは言え、隣の女に聞くことはできなかった。それどころか、一音すら立てることを許されない気がしていた。
この女は、今、多分ものすごく機嫌が悪い。もし、少しでも何か気に食わないことをしたら、殺される気がする。比喩でなく、肉体的に。
なるべく音をたてないように注意してつばを飲み込んだとき、張りつめていた空気が急にふっと緩んだ。女は相好を崩し、やれやれと呟く。
「諦めたみたいだね」
さっきまでの殺気が嘘みたいに、穏やかな口調で私に話しかけて来た。
「諦めたって……何が」
「星の輪熊だよ。さっきからずっと僕たちの後ろを追って来てた。さすがに車には追いつけなかったんだなぁ」
女はけらけら笑いながら、私を横目で見る。
「そう言えば、自己紹介がまだだったね。僕はリスパ。異世界小説翻訳者だよ」
「嘘でしょ」
本を読むような人には見えなかった。リスパはまいったなと前髪をかき上げる。
「まあ、表の顔は、ってことね。本業が何かは教えない。それよりさ、君はなんて名前なの」
「リスパが本業を話すまで教えない」
あはは、とリスパは楽しそうに声を上げて笑った。
「生意気な子どもは好きだよ」
「さっき嫌いだって言ってたくせに」
「気が立ってただけさ。だって、あの時から既に星の輪熊に目を付けられてたからね。それなのに君は全然気付いてなくて、もたもたしてるから」
「星の輪熊って何なの。私のいた世界にはいなかったんだけど。野生動物?」
リスパはさらに大きな笑い声をあげた。
「人間だよ。死に損ねた、ね」
背中が冷たくなった。思わず両腕で自分の胸を抱えた私に、リスパが呑気な声で言う。
「じゃあ、今から君のことはアリピちゃんと呼ぼう。名前を教えてくれないんじゃ、仕方ないから」
「どっから来たの、そんな妙な名前」
リスパは答えず、また私の知らない歌を口ずさみ始めた。
さっきまで鉄の輪がかかっていた首を、そっとなでる。緊張から解放されたことによるギャップで、ついこの女に心を許しかけていたみたいだ。なめているわけではない。リスパの殺気は本物だった。けれど、私もなめられないために、今の状況なんてへっちゃらだという態度を取らなければならない。
やがて、道の両側の木々にかけられた青いランプがぽつぽつと増え始め、ついに一軒のレンガ造りの館が現れた。リスパが玄関の前の空き地に軽トラックを停める。
「僕の住処だよ。一人で住むにはちょっと立派すぎてね。お手伝いさんが来てくれてありがたい」
「ちょっと待って。お手伝いさんって?」
「アリピちゃんに決まってるじゃない」
「私、家事とかできないんだけど」
女の目に一瞬、ぴりっと悪感情が走った。しかしすぐに笑顔で覆い隠す。
「僕が教えるから大丈夫」
私は思わず、深いため息をついた。
リスパから与えられたのは、二階の角にある小部屋だった。木製のベッドには、既に清潔なシーツがかけられていた。私のために用意されていたのか、元々客間だったからなのかは分からない。
シャワーを浴びて緩んだ体を、リスパが昔着ていたという柔らかいパジャマで包む。そして、ベッドの上に身を投げ出した。
優しい木材のにおいがする。空気の密度が高い。天井の見慣れぬ光が現実感を薄めるためか、体の疲労もどこか他人事のようだった。手を握りしめてみる。自分が誰なのか分からなくなる。
「百合子、あんたはホンマにアホなんやから」
ふと、そんな声がした。よく知っている声。窓の外から聞こえる。立ち上がり、窓を開ける。
「お母さん……?」
その瞬間、パンッと窓が弾けた。ガラスが粉々になり、キラキラと点滅しながら粉砂糖のように舞い落ちてゆく。
「星の輪熊だよ」
振り返る。リスパが、鋭い目つきで私を、いや、私の向こうにあるものをにらんでいた。右手の人差し指を、ピストルのように突き出している。
「僕がやらなきゃ、君がやられてた。気を付けて。この世界で君が聞く親しい人の声は、全て偽物だ」
殺気に満ちたリスパの顔が、ふっと緩む。
「そんなに怯えた目で見ないで」
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