夏の底の、海と森

紫陽花 雨希

第1話 夏の底

 夏の底は、海のにおいがする。

 昼の間に焼け焦げたアスファルトの上に直に座らされているため、ズボンからはみ出した皮膚に生温かさを感じる。いや、もしかしてこれは私自身の熱なのだろうか。全てが幻覚である可能性もある。対照的に、首にかけられた鉄の輪はひやりとしている。ここは、元々は工場だった建物の二階へ上がるための階段の下。輪に繋がっている鎖の先は階段の手すりに固定されていて、私の力では到底外せそうにない。

 色のない空。夜になる前の、空白の時間。星はまだ見えない。私の目が悪いせいかもしれない。

 我ながら愚かだったな、と笑う。お金が欲しかった。だから、怪しいバイトに手を出した。お兄ちゃんの友達に紹介されて「仕事場」に行き、気が付いたら拘束されていた。変な薬を飲まされたらしく、ついさっきまで夢だが現実だか分からない奇妙な世界にいた。眠りから覚めるように、薄っすらと現実感が戻って来た。ここは恐らく、星屑海水浴場の近くだろう。建物が混み入っているせいで海は見えないが、潮の香がする。

 私はこれから、どうなるのだろう。殺されるのか。恐怖がわいて来ないのは、薬の影響が残っているせいだと思う。

 他人事のように首輪をそっとなでたとき、

「君、相当な度胸だね。まさか、ぴとぴと鳥の密漁に手を出すなんて」

と、よく通る声が上から降って来た。ゆっくりと顔を上げる。見知らぬ女が、私を見下ろしていた。ポニーテールにされた黒髪、丸眼鏡。小花柄の青いブラウスの裾はベージュのコットンパンツに入れられており、首元のネクタイは蝶結びにされている。大昔の、セピア色の写真やノイズの入った動画に出てくる若者のような服装だった。女は腰をかがめて私の目をのぞき込み、

「逮捕されたら死刑だってあり得たよ」

と、薄笑いした。気持ちの悪い笑顔だった。人の不幸を心底楽しんでいるような。だから、私も笑って見せる。

「お姉さん、何歳?」

「三十二歳」

「じゃあ、おばさんじゃん」

 女は顔に笑顔を貼り付けたまま、私に向かって手を伸ばして来た。白い指先が、私の顎に触れる。温かかった。

「そんな口、いつまで叩けるかな。君はこれから、僕のものになる」

かちゃり、と何かがずれる音がした。

 女の手の中で、鉄の首輪が泡となって消えた。


 工場の裏手の空き地に、白い軽トラックが停まっていた。女は軽々と運転席に上がり、助手席に乗るよう私に促す。けれど、疲れ切った私には座席が高すぎた。這い上がれずにいると、女はちっと舌を鳴らして手を差し伸べて来た。

「これだから子供は嫌いなんだよ」

 なんとか座席に着き、シートベルトをしめる。女がアクセルを踏んだ。捨てられた建物ばかりが並ぶごみごみとした区画を抜ける。

「え……」

 息を呑んだ。夕闇に沈み始めたばかりの地上には、見渡すかぎりどこまでもどこまでも森が広がっていた。木々の間に、黄色や青の光が一つ一つともってゆく。恐らく、人の生み出した灯。

「もしかして私――」

「君、まさか気付いてなかった? 自分が異世界に移送されたこと」

 女は、呆れたように首をすくめた。

「死刑になる運命から救ってあげたんだから、感謝してね。ここまでは、君の世界の警察はやって来られないから、さ」

 私は自分の愚かさを改めて思い知った。十四歳にして亡命することになるなんて、そんなの―― 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る