第6話 ある少女、瀧春菜の変わり始める日常 2
車酔いする春菜のために、徒歩と電車で家に戻ったが、春菜は流石に疲れた。
身体のあちこちにある傷と、打ち身がまだ少し痛いし、鎮静剤の効果も残っていたようだ。
「部屋で寝てなさい。晩御飯は持って行ってあげるから」母にそう言われて三階の自分の部屋に行き、布団を敷いて服を脱いで布団に入った。
仰向けに寝転がって深呼吸するといつの間にか寝入ったようだった。
ふと人の気配に気付くと妹の季璃が部屋の扉を少し開けて覗いていた。
「…おかえり…」「…はるなちゃん…だいじょうぶ?」季璃が心配そうな声と顔で聞いてきた。
「大丈夫…ちょっとした怪我だけだって…」「よかった〜」ホッとしたような声に春菜は微笑んでいた。
「ごめんね…まだボク眠いから…」「うん!おやすみ!」扉が閉まる音に春菜はまたうとうとする。
部屋のLEDライトが点いたのか、目に眩しさを感じて春菜は薄目を開けた。
「ごめんね、春菜。声かけたけど起きなかったから」母が盆を持って部屋に入って、電気をつけたようだった。
春菜は鼻をくすぐる出汁の匂いに釣られて身体を起こした。
小さな座卓を置いた母はその上に盆を載せる。上にはうどんが入ったどんぶりがあった。
ネギと半熟卵、蒲鉾が具として乗っている。出汁の香りが食欲をそそった。
「さ、お腹空いたでしょ?」「…うん。いただきます」それを聞いて母はニコリと笑って部屋から出て行った。
どんぶりを持った春菜は箸でうどんをすくい、口に運ぶ。
あえて温めに作られたうどんは春菜の食欲を増進させる。
うどんを食べ、出汁を啜り、卵の黄身を崩してうどんと一緒に啜り、蒲鉾を口に入れ、更に出汁を啜っていく。
「…ふう…ごちそうさま…」あっという間にうどんを平らげた春菜はどんぶりを盆の上に置いて息を吐き出した。
「春ねえ、いい?」扉から大ぶりの湯呑みを持った晃と雪が現れた。
「いいよ」春菜の返事で二人が入ってきて、晃がお盆を下げて湯呑みを置いた。
中には温めの玄米茶が入っていた。
春菜はそれを持って美味しそうに飲んだ。
「春ねえ、大丈夫?」「うん、大丈夫だよ」晃が心配そうに話しかけたので微笑んで答えた。
「姉さん、無理はいけないと思う」側に雪がよって春菜の手を取った。
優しく雪が春菜の包帯を巻かれたところを撫でる。春菜がふと雪を見ると口を何やら小さく動かしていた。
「…雪?」「…普通ならちょっと時間かかりそう…でも痕は残らないと思う」「…わかるの?」「なんとなく」春菜は雪の少しぽやっとした顔を思わず見た。
「まだ寝てた方がいい…と思う」「うん、お腹膨れたらまだ眠いや」春菜は少し目元を擦った。
雪は頷いて空の湯呑みを持って立ち上がり、晃を見た。
「じゃあ春ねえ、おやすみー」「うん」「おやすみなさい」雪と晃は食器を持って、電気を消して部屋を出て行った。
寝転がり、布団を被った春菜は深呼吸を一つするとすぐに眠りに落ちた。
食器をキッチンに戻した雪と晃は春菜の部屋の前に戻った。
「…どう?晃…」雪は目を閉じて小さく口を動かしている晃に聞いた。「…うん、大丈夫。よく寝てるって」晃は雪に頷いた。
晃は静かに扉の取手を掴んでゆっくりと下げて、扉を静かに開ける。
薄暗い室内のやや窓よりに春菜が静かな寝息を立てて寝ていた。
静かに二人は中に入り、扉を閉めて春菜の元へ向かうと側に腰を降ろした。
「じゃあ晃ちゃん、少し窓を開けてくれる?」いつもと喋り方が違う雪が、明るかったら分かるが、紅色だった瞳を薄紅色にして晃に言った。
「わかった。…本当にやれるんだよね?雪菜」「もちろんよぉ、晃ちゃん」「ちょ…ちょっとぉ」晃の腕にしなだれかかった雪に晃は顔を引き攣らせた。
「…雪菜…真面目にやろう」瞳の色が朱色になった雪がキリッとした顔で言う。「んもう…雪華は固いんだから…」薄紅色の瞳になった雪がそうぼやく。「…早く春菜姉さんを治して欲しい」瞳を紅色にした雪が言った。
晃は少し疲れた顔をして、体を伸ばして窓を少し開けた。
室内に少し風が入った。
「…わかったわよぅ…雪」薄紅色の瞳の雪がそう言って口を尖らせると、目を瞑って深呼吸する。
雪は静かに歌を唄いだした。
すると雪の周りに風がまとわりつき、青みがかったブロンドのショートの髪を揺らす。
透き通るような歌声が春菜の部屋に満ち、やがてそれに釣られて部屋の中に緩やかに風が舞う。
暫く風が部屋に優しく流れるとその風が雪に集まり、それに合わせて雪の唄が静かに終わりを告げる。
そして雪は自分の唇を眠る姉の春菜の唇に合わせた。
春菜はふと目が覚めた。
枕元に置いてある時計を見ると午前四時過ぎ。
「う…ん…」布団の中で両手を伸ばす。
見ると腕に巻かれた包帯が解けていた。
春菜はそれを直そうと、包帯を一度解く。
するとハラリと擦り傷を覆っていたガーゼが剥がれた。
「…え?」春菜は腕を凝視する。怪我をしていたはずの場所に傷口が一切なかった。
血の跡があるが、それだけだった。
気づくと打ち身をしたところも痛くなかった。
気になった春菜はシャツを脱いで身体を覆っている包帯や絆創膏を取る。
「うそ…何で…?」手足や身体、顔の傷が綺麗に無くなっていた。
シャツだけ身につけて二階の風呂場へ行き、お湯で身体を流しながら確認するが本当に怪我が無くなっていた。
固まって薄く貼り付いていた瘡蓋だけが怪我のあった痕跡だが、それもお湯と一緒に流れてしまった。
残ったのは十代の少女の瑞々しい肌だけだった。
「どうして…うーん…」首を傾げて裸の自分の身体を鏡で見る。
シャツとパンツを身につけて部屋に戻り、昨日買って貰った服を身につけて下に降りる。
「おはよぉー…」キッチンに入ると母が優しくニッコリと微笑んだ。
「おはよう、春菜」「…お母さん…なんかボク怪我治っちゃってた」「あら、良かったわね」「へ?」母の答えに春菜は目を丸くした。
「え…と、お母さん…変じゃない?」「春菜の怪我を早く治して欲しいと思ってた人がいたんじゃない?」「……」「朝ご飯食べるでしょ?」「あ…うん」釈然としない顔でダイニングへ行くと、父の将が椅子に座って新聞を読んでいた。
「おはようお父さん…」「おはよう。もういいのか?」「うん…一晩で怪我が治ってるの」「そうか。無事ならいい」父はそう言って新聞に目を落とした。
春菜は父の素っ気ないが気にかけてくれた事に少し安堵した。
「さ、朝ご飯食べなさい。シンマのとこに行かなきゃね」母はそう言って春菜の前に朝食を並べてくれた。
何時もの神社に来ると意外な人が居た。
「春菜、具合はどう?」「舞さん」自転車を降りると母の古くからの友人、緋弥舞が近寄ってハグしてきた。
たまにシンマと来て家でお酒を飲みに来るのだが、春菜たち子供には優しい。
かなりの酒豪で両親と楽しそうにお酒を飲みながら話すが、酔ってる風には一切見えない。
車で来て夜中に帰ってくが、どうやって帰っていくか、お酒が入ってるのにどうしてるのかは春菜は知らない。
「怪我したと聞いたからね、心配になったから来た」「みゃあ、大丈夫だとは思っとったがね」舞の言葉にシンマは腕を組んでそう言った。
「あたし一応医師免許持ってるからね。ちょっと見せて」何気に初耳のことを言って春菜の身体を触っていく。
腕から脚、身体、背中、頭を触る「…ちょい向こうまで軽く走って戻ってみて」神社の鳥居の方を親指で指す。
春菜は頷いて軽く走って戻ってきた。「次は全力で神社一周。行ける?」「えっ…と…大丈夫だと思います」春菜は脚を踏み込んで全力で駆けて行った。
一分足らずで戻ってきたらまた舞が春菜の身体中を触る。
「…うん全く問題無いね」「…ねえ舞さん。ボク結構あちこちに怪我だったんだけど、一晩で治るものなの?」「春菜の怪我を治したいと思ったのがいたんじゃない?」「……」母と同じような事を言った。
「みゃあ、今日はまあええわ。学校へいきん」相変わらず怪しい方言でシンマが言った。面白そうな顔をしている。
「はあ…」春菜は曖昧に頷いた。
春菜が学校へ向かったのを見た二人は視線を合わせなかった。
「ったく…雪たちが動くとは思わなかったわ」「しゃあないわ。春菜の怪我が自分たちのせいだと思っとるし。それよりどえりゃあ良くなっとるわ」「ねえ、ほんと。あの二人の、娘だわ」「…あいつももうちょいだわ」「ごめんねえ、嫌な役押し付けて」「みやあ、気にすんな。あいつもわしを慕ってくれてるで」
シンマはもう一人、春菜とは別の弟子を思った。
神社を後にして学校へ向かう途中、何故母の友人である舞がいたのかとぼんやりと考えた。
自分の身体を労ってくれたのはありがたいが。
それに結構あちこち怪我をしていたのに何故一晩で治ってしまったのか?
両親も、シンマと舞も気にしていなかった。
「そういえば、今朝は姉さん居なかったなぁ…」何時も早起きして仕事の準備をする姉が不在だったのが気になった。
何か自分だけ仲間はずれにされているという、そんな気持ちになった。
昨日の現場付近に行くと妹たちが待っていた。
「おはよー。どうしたの…」「はるなちゃん!」「ふぁ?!」首を傾げながら妹たちに近づくと季璃がいきなり抱きついてきた。
春菜より身長が高いので、その豊満なバストに顔が埋もれてしまった。
「よかった!よかったよぉ!はるなちゃん!」季璃が春菜を思いっきり嬉しそうに抱きしめているが、春菜の両手は苦しげにもがいていた。
「季璃!季璃ったら!春ねえが息できない!」晃の慌てた声を聞いてキョトンとした季璃は自分の胸に顔を埋めてもがいてる春菜を見てあわあわした。
「ただ手を離せば良いと思う」雪の冷静な言葉に真顔でそうかと気づいた季璃が両手を広げるように離すと春菜は何度も呼吸した。
「…あー季璃に埋もれて気を失うかと思った…」「ゴメン!ごめんねぇ!はるなちゃん!」あたふたと両手を振りながら謝る大きな妹を見て、春菜は微笑んでしまった。
「おはよう、姉さん」「うん。おはよう。なんかね、怪我が治っちゃってさ…」「…あー…良かった」春菜の言葉に晃が安堵の息を吐いた。
「…どうしたの?晃」「あ、いや、春ねえの、怪我、大した事無くて、よかったなあ、って、あはは」これまた両手をあたふたと振って苦笑する晃に意外に器用だなと春菜は思った。
「姉さん、もう大丈夫なんだね」雪がそう言って怪我があったはずの右腕を優しく摩った。何やら口が小さく動いている。
「…うん、本当に怪我が治っちゃったんだ」「…そうみたい…」雪が太股や背中を優しく摩ったが妙に艶かしいと思った。
「あ、ありがとう。もう本当に大丈夫だから」少し後ざすると雪がちょっと不満そうな顔をした気がした。紅い目が少し薄くなってたことには気づかなかった。
その後、あちこち絆創膏を貼った昨日の男の子が来て、頭を下げてお礼を言っていった。
春菜は少し面映かった。
給食後の昼休み、春菜は校庭の隅にある木の下に居た。
そこで春菜はイヤホンを着けて音楽プレイヤーを再生してお気に入りになった曲を聴いていた。
目を閉じ、曲を反芻するように聴き入る。
このプレイヤーに入っている曲を聴くと心が落ち着くようだった。ふと目を開ける。
そこに一人の女子生徒が春菜に近づいてきた。春菜はその生徒を見る。
真っ直ぐにこちらに近づいてくる女子生徒は、清潔感があるが至って普通の容姿だった。
黒髪、黒目、シャツにジャケット、スラックス。
特徴が無い女子生徒だった。
春菜を見ながら近づいてくるので、春菜はイヤホンを外した。
「…瀧さん…だっけ?」「‥あなたは?」問いかけられて春菜は頷きながら聞いた。
「…まあ…知らないよね…同じ二年の黒井って言います」「黒井さん、ボクに何か?」苗字を聞き、春菜は声に出して聞いた。
「いえ、ね、…昨日の事故見てたの…大丈夫だったみたいでよかったわ」「え、あ、うん。ありがとう」「うんそれだけ。気をつけて…」黒井はそう言って踵を返して校舎へ向かった。
春菜は首を傾げた。「…なんだろう…何か…」少し違和感を感じた春菜は黒井の後ろ姿を暫く見ていた。
「…縁は出来た…」黒井真穂はそう呟くと微笑した。
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