第5話 ある少女、瀧春菜の変わり始める日常 1

今朝の春菜は高い杉の木の上で逆立ちをしていた。

ミニスカートだが全く気にしていない。誰も気にしていないから。

その下でシンマはサンドウィッチを食べていた。

「…惜しかったです…」「うん、今まででいっちゃんよかったわ」春菜の残念そうな言葉にシンマはサンドウィッチをぱくついて答えた。

「なんかつかんだかね?」「…何というか、周りから色々知りたいことが聞こえると言うか…」「ほほう」春菜の言葉にシンマは興味を持ったようだった。

「そういうのをもう少し掴むとええ感じになるんじゃあにゃあかね?」「そうですね」


朝の鍛錬が終わった春菜は学校へと自転車を走らせる。

いつもの交差点に着くと妹たちが手を振って歩いてきた。

自転車を降りて妹たちに手を振る。

「わっ!」突然、何かが体にぶつかった。見ると小学校低学年の男の子二人が走りながらぶつかったようだが、春菜にぶつかったのに気づいて「ヤベ!」と叫んで全速力で走った。

春菜はそれを見て道路寄りの男の子がバランスを崩しそうになることに気づいた。そして、正面から白色の自動車が来る。春菜は自転車を放り出して動き出した。

二歩走ったところで男の子が車道に転びかける、次の瞬間には春菜は男の子を抱えて背中を車に向けた。

酷くゆっくりと時間が流れる感覚があった。妹たちの叫び声、車の急ブレーキ音、背中のすぐそばに車が迫ってくる。

春菜は目をしっかりと見開き車を見る。ここからどうにか衝突を回避する方法は無いかと考える。

左足首だけの跳躍でその場からは逃げられるが、脚が車に当たると判断したが、子供と自分の命を考えて跳躍。

と、その時、春菜の耳に歌声が聴こえた。

澄み切ったような、だけど慌てて歌ってるような。

そこに突風が春菜を押し出した、いや弾き飛ばした。

春菜は風に押されて吹き飛ばされた。

低くても宙に浮いていたので勢いは凄まじかった。

咄嗟に男の子を力一杯抱きしめて、身を丸くする。

突風は春菜を翻弄し、空中で二回、三回と回らせる。

地面が迫る、身体を縮める、男の子を腕の中で守る。

背中から地面に落ちた。

勢いを殺すように地面に転がる。

車から七〜八メートル先で止まった。丁度民家の庭先だったので障害物が無かったのが幸いだっただろう。

悲鳴、ざわめき、鳴き声が聞こえた。

「春ねえ!」「はるなちゃん!」晃と季璃の声。

「君!大丈夫か!」男性の声。

「うわあああああん!」腕の中の男の子の泣き声。

「…うっ…」身体を動かすとあちこちが痛かった。

見れば男の子が大きな声で泣いていた。「大丈夫…大丈夫だから…」

正直身体のあちこちが痛かったが、シンマに教わった緊急自己診断法で深呼吸する。

肺が膨らみ横隔膜が問題無く機能する、背中が痛いが打ち身、擦過傷くらい、腕、脚にも打ち身や擦過傷くらい、頭…大丈夫。「姉さん」そう言って雪が春菜を起こしてくれた。

そのまま男の子も引き寄せる。男の子はまだワンワン泣いていた。

見れば晃と季璃もわんわん泣いてた。「何であなたたちも泣くのよ…」春菜は思わず苦笑し、妹二人に「大丈夫だから」と言って微笑んだ。

「大丈夫か⁉︎君!」車を運転していた男性も血相を変えて走り寄った。

「あ、はい、大丈夫です」完全に刎ねただろうと思った少女があちこちに傷があるものの大丈夫そうな表情をして息を吐いた。その後男性は救急車を呼ぶからここにいなさいと言った。

雪は泣いている男の子を見ている。「…大丈夫、擦り傷があるくらい。多分ランドセルが守ってくれたと思う」「…そう」春菜は安心して息を吐いたが気が緩んであちこちが痛くなってきた。

「あらあら、お姉ちゃん想いの妹さんたちねー」癖毛にネコのような目つき、服装の柄のセンスが微妙に外れて派手な少女、奈美が突然現れて話しかけた。

「取り敢えず学校にはアタシから言っておくから。あ、妹ちゃん?お家にも連絡しときな」奈美はそれだけ言うと手をひらひらさせて学校へ向かった。

「確かに…春菜姉さん、お母さんに連絡する」「あ、うん」雪の落ち着きっぷりに春菜はそう返すしかなかった。

やがて近所の人や登校中の生徒たちが遠巻きに野次馬し始める中、サイレン音を鳴らして救急車がやって来た。

「救急車…車かあ…」近くに停まった救急車を見て春菜は憂鬱になった。

「…ねえ、雪、救急車にボク乗らないとダメ?」「ダメ」男の子の傷に簡単に手当てしながら雪はダメ出しした。

やがてストレッチャーを降ろした救急隊員がやって来た。

男の子と晃、季璃の鳴き声を聞きながら春菜はため息を吐き、背中の打ち身に顔を顰めた。


「大丈夫みたいよ。まあ、これくらいでどうこうなるとは思えないけどな」奈美は交差点から学校へ向かうあたりで立ち止まってそう言った。

「…」「あの娘、狙ってるんでしょ?」奈美は電柱の影に隠れていた女子生徒に木の上からニヤニヤ笑う猫のような表情でそう言った。

「『商人』…だっけ…。取引き?」「あらぁ、知ってたのね?」「…態とらしい…あなたの手下が接触して来たわ」「だけど貴女は聖女神には知らせてない。ここは取り引きといきましょ♪」「わたしに出せるものは無い」「大丈夫♪それでも互いに利益出る方法はあるから♪」「……」奈美は布に包まれた物を取り出した。



県営空港の西側、大きな格納庫に張り付くようにある事務所を持つ会社、因幡航空輸送。

軍用機としてベストセラーと言われるC−一三〇輸送機の民間型、LM―一〇〇Jを所持するが小さな航空会社である。

業務は会社の記載として、離島や不整地滑走路しかない僻地への荷物輸送業務と通常の貨物輸送としている。

意外にそこそこ需要があり、一部在日米軍の輸送も請け負うことがあった。

その事務所には社長である佐倉嶺と秘書である冷泉エリカが主に事務面で会社を運営していた。

佐倉は緩いウェーブのかかった黒髪を肩まで伸ばしている。細い顔に鋭い黒い目を持つ。肌はやや色が濃いめの男である。

百八十センチ超えの身体も細いが、所謂細マッチョ体系であった。

黒いワイシャツに黒いズボンに黒い革靴だが水色の業務ジャケットをキッチリと身につけていた。

エリカは癖のある金髪を肩下まで伸ばし、前髪は目にかかるほどである。

丸い顔にトパーズ色の瞳だが、薄く開けているので、目が開いてるか開いてないか見えにくい。

小ぢんまりと整った顔はいつも微笑を浮かべている女だった。

クリーム色のブラウスに包まれた身体は身長が百五九センチほどで、痩せ型、胸も細やかだった。

水色のスカーフを首に巻き、薄黄色のタイトスカートにパンプスを履いている清楚な女性である。


書類を読み判子を押す佐倉に、白魚のような指でノートパソコンで業務を素早く進めるあエリカというのがこの会社で何時も見られる光景だった。

エリカのデスクにある電話が鳴りすぐに取る。「はい、因幡航空…秋華さま。…はい…はい、分かりました」受話器を持ったまま佐倉の方に向く。

「嶺様、春菜様が事故に遭われそうになりましたが、晃様のおかげで擦り傷と打ち身で済んだそうです」「事故の原因は?」「小学生の男の子を助けたそうで」それを聞いた佐倉は大きなため息を吐いた。

「念の為検査をするように…いや、舞に言っておいてくれ」「かしこまりました」エリカは二言、三言話して受話器を置き、電話をかけて色々説明して受話器を置いた。

「…晃様が咄嗟に力をつかってしまったそうですが、慌てたのでうまくできなかったとか。春菜様は体中に傷や打ち身があるそうですが今日中に退院できるそうです。舞様は明日にでも春菜様を観るそうです」「仕方ない。まだまだこれからだろう…春菜も大したことなくて良かったが…エリカ、コーヒーを頼む」「かしこまりました。本当、春菜様が無事で何よりです」エリカはそう言いながら事務所の冷蔵庫を開け、口に手を当てる。

「申し訳ございません。氷がまだ出来てません…」「…仕方ない、ホットでもいい」「…直ぐに買ってきますが…」エリカは心配そうな顔で佐倉を見る。

「…コーヒーをくれ」佐倉が厳しい目でエリカを見ると、エリカは仕方ないという感じでマグカップをコーヒーサーバーにセットしてコーヒーを淹れる。

「…気をつけてください…」不安そうな顔で佐倉の前にエリカは湯気をたてるコーヒーを置いた。

佐倉は慎重にカップを持ち、ゆっくりと口元に近づけるが、直ぐに遠ざけ、また近づけて…を繰り返す。

彼は重度の猫舌だったのだが、コーヒー中毒でコーヒーが嗜好品だった。

見かねたエリカは佐倉に一礼し、財布を持って会社を出て、入り口脇に停めてあるママチャリに乗って大急ぎで近くのスーパーまで走って行った。


春菜が目を覚ますと白い天井が見えた。

腕に違和感があり横を見ると点滴を受けているようだった。

「目が覚めた?」声のした方を見ると母が優しく微笑んでいた。

「…母さん?ボク…ここは?」「隣の市民病院。大変だったのよ?」ニッコリと微笑んで母が説明してくれた。

身体中包帯やガーゼ、湿布などで覆われ、身体を動かすと少し痛かった。

記憶の中では救急車に乗せられたまでは覚えていたが。

母の説明によるとこうだった。

救急車に乗るまでの春菜は細かい怪我や打ち身以外は正常だったが救急車が走り出した途端に異常が起こった。

念のためにつけられた心拍計と血圧計が乱高下し始め、顔色は真っ青になり、呼吸は乱れて唸り始めたのだった。

救急隊員はその状況に慌てるが、妹二人〜〜一人は見た目は姉に見えた〜〜と便乗した男の子がワンワン泣いているのでただ事ではないと思い、酸素マスクがつけられたが容体はドンドン悪化していき、病院へ緊急事態を連絡する状況になった。

青色のショートカットの妹の一人が救急隊員に心配無いと冷静に教えたがそんな根拠はどう見ても無い状況であり、兎に角救急指定の市民病院へと急いだ。

病院に到着し、即座に救急外来医師に引き継ぐと救急隊員から聞かされた生体モニターに仰天した医師は即座に各種検査を行うために患者の春菜に鎮静剤を投与し、レントゲン、MRIなどを行ったが異常が見当たらず、しかもみるみる血圧や心拍数が安定し鎮静剤で眠っているようにしか見えない状況になった。

医師達がぐっすり寝てる春菜の横で首を捻っていると保護者である母が来て、春菜の車酔い体質を説明すると全員脱力したのだった。



母の説明を聞いた春菜は恥ずかしくなり掛け布団で顔を思わず隠した。

「というわけだから、一応夕方までは様子見でそのままいる事」母が優しくそう言うと、春菜は「学校は?」と聞いた。

「いけるわけ無いじゃない…」母は苦笑した。

「それに服もボロボロだし」そう言って母が春菜の着ていた服を掲げる。確かにあちこち破れ、血がついていたりしていた。

今、春菜は病院着で寝かされていたのだった。

「ロビーに雪達がいるから学校に送っていくわ。あの娘たち春菜を心配してたのよ?」春菜の破れた服をバッグに仕舞いつつ母が立ち上がった。

「…ボクは大丈夫だって皆んなに伝えて…男の子は?」「擦り傷が少しだけ。無事で良かった」「…心配かけてごめんなさい」それを聞いた母は少し驚いた顔をして、優しく春菜の怪我をしていない方の頬を撫でた。

「…親御さんが感謝してたわ。さ、まだ薬が効いてると思うから寝ておきなさい。春菜の着替えを用意してくるから」



ロビーでは雪、晃。季璃が並んで座っていた。

晃と季璃はまだグスグス泣いていた。

「…あたし…上手く唄えなかった…春ねぇ…怪我させちゃった…」「…きりちゃん…きりちゃんなんて…なにも…何もできなかったヨォ…」二人の泣き言を聞いている雪は少しため息を吐いた。


(アキラちゃんの呼んだのすごかったわねえ)(だが咄嗟の事で制御が上手くいかなかった)(でもわたしたちで修正出来たのは僥倖)( そうしないとハルねえさんさらにふっとばされかねなかったわよ)(我々は三人いるのだ。そのくらいの判断はせねば)


「お待たせ。あらあら、晃、季璃、大丈夫だからね?雪もよくやったわ」「おがあざん!」「おがあぢゃん!」秋華が三人の元に行くとすぐに晃と季璃がしがみついてきた。

少々困った顔をして二人を撫でてあげた。

「男の子のお母さんが来てた。よろしくって」雪は母にそう報告した。

「分かったわ。さ、学校まで送ってくわ」「…休みに…」「事故の当事者じゃあないからね?」「はあい…」雪は母の笑顔の圧力に首をすくめたのだった。



「瀧さーん。起きれる?」うとうと寝ていたら看護師さんが春菜の病室に入ってきた。

薄目を開けて頷くと看護師さんに支えられて上半身を起こされる。

点滴が終わるようで、テキパキと腕の処置をしてくれる。

「食欲ありそうですか?」「…はい…」質問されてお腹具合を確認したらお腹が空いていた。

「じゃあもうすぐお昼ですからご飯持ってきますね。午後には帰れると思います」看護師さんはそう言って点滴の後片付けを終えて病室を出ていった。

春菜はもう一度ベッドに横になった。

薬が効いてるせいか少し眠いが、痛みはほとんどなかった。

ボンヤリと天井を見る。

あの時聞こえた唄は何だったのだろう?

その後、子供を抱えたまま吹っ飛ばされる突風が起こった。

春菜はハッキリと覚えている。

あの突風が無ければ最悪車に跳ね飛ばされていたのだから。

無我夢中で子供を、男の子を助けたいと思って身体が動いた。

自分の身体能力は毎朝鍛えられているので把握していた。

間に合わないかもと思ったが、それでも動いてしまった。

だが、自分の住む町であれほどの突風が吹くとは思っていない。

余りにも不自然だと思った。

「あの突風…唄…なんだろ?」

そうつぶやいたとき、配色のおばさんがお昼ご飯を持ってきてくれたので春菜はベッドから身を起こした。



「春菜、新しい服を買ってきたわ」お昼ご飯を食べて人心地ついていたら退院手続きを終えた母が戻ってきた。

量販店の袋からスカートとシャツ、パーカーを出す。

「…ありがとう…」あからさまにガッカリしたような声で春菜はお礼を言った。

母の手製の服じゃ無い事に気を少し落とした。

とりあえず病院着を脱ぎ、母が買ってきた服を着ていく。

「さ、帰ろうか」「うん」

着替えた春菜は母と病室を出てロビーに行くと、助けた男の子とそのお母さんがいてしきりにお礼を言われた。

あらあら、どうもどうもと挨拶をして、男の子にお礼を言われた。

「春菜、よくやったわね」母が駅まで向かう道で春菜にそう言った。

「正直言うと、あなたが危ない目に遭ったのは驚いたけど人を助けたのは凄いわ」母を見ていた春菜はそう言われて顔を少し赤くした。

「…その…ほんと、ごめんなさい…」そう言って俯いた春菜に母はニコリと笑って頭を抱えてあげた。


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