合戦話や武将の話が取り込まれている狸

〇六右衛門 「四国奇談 実説古狸合戦 第一回」(三ページ、他)と淡州千山の芝右衛門 「古狸奇談 津田浦大決戦 第八回」(一四二ページ、他)


 六右衛門と淡州千山の芝右衛門との関係は阿波の領主蜂須賀氏と淡路の家老稲田氏を思い起こさせますが、「阿波国徴古雑抄 巻八 阿州古戦記」(八七〇ページ)の「細川奮臣謀實休「此段全く三好記を取」には「淡州に使いを遣して安宅野口」とあります。


 また、明治三年(一八七〇年)には稲田騒動(庚午事変)が起きていますので、こちらとも関連づけられている可能性もあります。


 その一方で、六右衛門のモデルは「寺沢六右衛門」という人物だという説や論文もあるようですので、これらの話が組み合わされて六右衛門と芝右衛門という狸が創作されたのだと考えたほうが良いように思えます。


 芝右衛門については、「民族と歴史 第八巻 第一號」の解説では、「阿波の狸合戦に来て働らいた」後に「京都へ上つて伏見の狐に出遭ひ、其處で種々の腕自慢をする」と、この講談とは違った話になっています。


 これ以外にも別の話があるのかも知れません。



〇隠神刑部 「四国奇談 実説古狸合戦 第一回」(九ページ、他)


 文中に「松山狸問答」とあり、話の時期が天保十年であることから享保の大飢饉と改革、天保の飢饉と改革を重ね合わせているように読めます。


 その一方で、「四国奇談 実説古狸合戦 第一回」(一〇ページ、他)では隠神刑部を「中国の総大将」で「六百年から棲息」し、「松平隠岐守様御料地を騒がした」と説明しています。

 ここで「御料地」とあるのは伊予国松平藩のことで、天保十一年と同じ干支(庚子)の慶長五年には三津浜夜襲で毛利勢と加藤勢が戦っていることから、隠神刑部を晩年の毛利元就と結びつけていると考えることもできそうです。


 また、「松山騒動八百八狸」などに隠神刑部とともに登場する(話によっては登場しないこともある)飛騨高山出身の後藤小源太正信に注目すると、毛利輝元、加藤嘉明、後藤基次(又兵衛)、金森長近らの逸話が取り入れられているとも考えられます。


 さらに「四国奇談 実説古狸合戦 第四回」(七八ページ)には稲生武太夫の名が出ていることから、「稲生物怪録」も取り入れられていると考えられます。


 当時講談を聞いていた人は、稲生武太夫が浅野家に仕えていたと知っていたならば、実際の赤穂事件よりも「仮名手本忠臣蔵」をはじめとする数々の話のほうを連想したのではないでしょうか。



〇衛門三郎 「四国奇談 実説古狸合戦 第二回」(四四ページ、他)


 衛門三郎という人物の名前は、弘法大師の伝説に登場しています。

 伝説上の人物なので、実在したかどうかはわかりませんが、この衛門三郎をモデルにして創作された狸だと思われます。


 「四国奇談 実説古狸合戦 第二回」(二六ページ)には長宗我部信親が焼山に立てこもったとあります。


 焼山というのは四国霊場第一二番札所のある焼山寺山のことだと思いますが、語られている内容は徳島の一宮城を巡る攻防(天正五年~天正十三年、一五七七年~一五八五年)の他、中富川の戦い(天正十年、一五八二年)と戸次川の戦い(天正十四年、一五八七年)などを元にして創作されているように思えます。


 「三好記」の他、「長元物語」、「土佐物語」、「元親記」に同時期の記述があるようです。


 これらの中に長宗我部信親が焼山寺にこもったと書かれていなければ、焼山寺が衛門三郎と縁があることから、講談にするにあたって衛門三郎狸と長宗我部信親を結びつけたのではないでしょうか。


 次のページで長宗我部信親が加藤清正と一騎討ちの勝負をしたと語られているのは、「浮世絵 四国攻加藤清正長宗我部信親勇戦一騎討之図」、あるいはそのような内容の講談や言い伝えが元になっているように思えます。



〇川島葭右衛門 「古狸奇談 日開野弔合戦 第四回」(九三ページ、他)


 六右衛門の四天王、川島九右衛門と、その弟の作右衛門の親で、若いころには六右衛門を色々と手伝っていたということになっています。


 「古狸奇談 日開野弔合戦 第五回」(九五ページ)によると、徳島の川島大神宮裏手の森にある穴を棲み処にしていたとのことですが、この周辺には複数の神社があります。

 その中に稲荷神社がありますが、四国では狸が狐の役割をしているので、あるいはここがそうなのでしょうか。


 川島葭右衛門という狸については、細川家の家臣が挙兵したのを見たという話が何かに載っていて、それを確認したところ「阿波国徴古雑抄 巻八 阿州古戦記」(八七〇ページ)の「細川奮臣謀實休「此段全く三好記を取」に書かれている内容に該当しているようだということはわかりました。


 ただ、この話はこれより先に書かれている合戦話と結びつけるために、後づけで創作されたのかも知れません。


 「古狸奇談 日開野弔合戦 第五回」(九六ページ)では、川島葭右衛門は中国地方、北国、奥州に旅行していたことになっています。


 文政十三年(一八三〇年)に阿波でお蔭参りが流行した際に、半田村(現・つるぎ町)の酒井弥蔵が伊勢神宮に参拝した記録を残していますが、弥蔵は石鎚や出雲にも旅をして多くの俳諧と交流しているようです。


 川島葭右衛門を最初の合戦に加えることなく登場させるためにこうした出来事が結びつけられたのだと思いますが、その出来事の中には酒井弥蔵を始めとする俳諧たちや松尾芭蕉の旅の内容が含まれているのかも知れません。



〇三ッ合井戸之助 「古狸奇談 日開野弔合戦 第五回」(一〇四ページ、他)


 三ッ合井戸之助の「三ッ合」を「みっつのあおい」と読み取れば徳川家と関係づけることができるかと思います。


 徳島市内にある三ッ合橋は、架設されたのが昭和八年(一九三三年)とのことですので、この話の元になる「古狸奇談 日開野弔合戦」が談じられた当時の「三ッ合」とは関係づけないほうがいいように思います。



〇赤池鯡鯉之助 「古狸奇談 日開野弔合戦 第六回」(一一九ページ、他)


 「ひごい」で検索すると「緋鯉」という漢字が出てくると思いますが、室町時代の節用集では「鰊」とともに「にしん」の漢字として使われていたらしく、泉鏡花や中村地平のように「鯡」の漢字を使用した作家もいました。


 理由はよくわかりませんが、食卓に上っていた身欠きニシンのような色合いに近かったからでしょうか。

 速記した後に文字を更正したのであれば、誰がどういう理由で「鯡」を使うと決めたのかが気になるところです。


 「古狸奇談 日開野弔合戦 第七回」(一三八ページ)では、赤池鯡鯉之助のことを斎藤立本(斎藤利宗)のようだと書かれています。


 「古狸奇談 日開野弔合戦 第七回」(一三六ページ)では、川に飛び込んだ赤池鯡鯉之助が、追ってきた三ッ合井戸之助の足を捕まえて深みへと引っ張っています。


 その様子は武将というよりも民話に登場する河童のようですが、「阿州奇事雑話 二」(0175右側)、あるいは「日本傳説叢書 阿波の巻」の「赤池河太郎」についての話が出典になっているのかも知れません。


 そして、上野にある不忍池などのように、名所となる池には鯉が泳いでいることが多く、鯉の種類の中に緋鯉があることから鯡鯉之助と名づけられたように思えます。


 また、「古狸奇談 日開野弔合戦 第七回」(一三五ページ)では、赤池鯡鯉之助と三ッ合井戸之助は江田川の蛇籠というところにたどり着いています。


 蛇籠というのは河川や海岸の工事に使われる道具の一つで、円筒状の籠の中に石などを詰めて岸の補強、水を止めるといった用途に使われます。


 江田川の堤防が切れやすいところを「蛇篭のあるところ」と言っていたのかも知れません。


 その一方で、蛇籠という地名は細川忠興が隠居した熊本県八代市にもあります。


 鯡鯉の「ひご」は肥後(熊本の旧国名)に関連づけることができますし、さらに鯡鯉の赤い模様を赤色の衣装をまとっていると見れば、細川家が肥後熊本に移封したのは細川忠興が還暦を迎えてからのことであるので、赤池鯡鯉之助を赤いちゃんちゃんこを着た細川忠興にあてはめることができると思います。


 あるいは、赤い模様をした鯡鯉が泳いでいる様子は水に落葉樹の葉が浮いているようであり、その落葉樹の葉が赤く染まるのは秋であることから、細川興秋と関連づけることができるかも知れません。


 ですが、これについては自分でもさすがに強引すぎるのではないかとも考えています。

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