竜興範義

 

 野球帽の男は座ったまま木に寄りかかる。

 もう完全に観念したのだろう。逃走を図ろうという意思は感じられない。烏丸は立ち上がると、眼前の男の話に耳を傾けることにした。

 依然、雨は降り続けている。傘が欲しいが、頭上には樹木の葉。穴だらけだが天然の傘で我慢することにする。


 無言の烏丸が顎で促すと、野球帽の男が訥々と喋りはじめた。


「さ、さっきも言ったが俺は、元々この洋館に住んでいた。といっても俺が所有していたわけじゃなく親父だがな。その親父は表向きは有能な会社経営者だったが、裏では熱心な悪魔崇拝者だった」


「なに? 悪魔崇拝者だと?」


「ああ。といっても悪魔サタン教会みたいな〝まとも〟なもんじゃない。悪魔の存在を信じ、心酔し、実際に召喚して他者に憑けるような、本物のサタニズムだ」


 悪魔教会は実のところ悪魔を崇拝せず、その存在すら信じていないと莉愛から聞いたことがある。人間の自然な欲求や合理主義を肯定しているだけの団体だとも。だから実際に悪魔を召喚する人間は、いつだって利己的で狂気的なサイコパスだけなのだ。


 ところで聞き捨てならないことを野球帽の男はつぶやいた。


「お前の父親は悪魔召喚をし、他人に憑けたと言ったな。一体、何人の人間を悪魔の餌食にした?」


「おそらく四人。仕事上で障害となる気にくわない人間に悪魔を憑けては排除していた。排除ってのはもちろん殺すって意味だ。だが、誰も悪魔の所為で死んだなんて思いやしない。完全殺人とはこういうものだと親父は嗤っていたよ」


 完全犯罪ではなく完全殺人。

 その表現の仕方に、微塵も抱かない罪悪の念を感じ取った。


「お前は父親が悪魔召喚をやっていたこと知っているが、ほかにも知っている人間はいたのか?」


「家族は全員知っていた。知っていながらなぜ止めなかったと責めるか? 存在しないと思いたかったからだよ。あんなにも人間を恐ろしいものに変えてしまう悪魔を信じたくなかったんだよっ」


 恐怖で表情を歪ませ、頭を抱える野球帽の男。

 その姿を見れば分かる。認めたくはないが認めざるをえない状況に置かれ続け、多大なストレスを浴びてきたことを。だからといって同情などできない。罪の見て見ぬふりは同じく罪だ。


「家族のほかには?」


「叔父さん――親父の弟が知っていた。いや、知られたといったほうが正しい。憑かれた人間の中に叔父さんの友人がいた。その友人の症状を見て、これは悪魔の仕業ではないかと疑念を抱いたんだ」


「常識を疑ったってわけか。なかなかできることじゃない」


「ああ。だが叔父さんは疑い、最終的に親父の悪魔召喚のせいだと知ることになった。決定打は、叔父さんが悪魔召喚を行った場所を見つけたことだ」


「洋館の中じゃないのか?」


「違う。外だ。洋館の裏の茂みの中にある、専用の地下空間だ。普段の生活とは完全に切り離したかったんだろうよ。実際にあそこは別世界だ。俺は二度と、足を踏み入れたくはない」


 怯えるような表情を見せる野球帽の男。

 そんな場所があったのか。そこに悪魔の名前のヒントもある予感がする。莉愛は見つけただろうか。まだなのなら早く教えなければならない。


 野球帽の男は、その叔父さんも父親によって悪魔に呪い殺されたといった。悪魔召喚による犠牲者は四人ではなく五人に訂正された。そして、もう一つの気になる情報を烏丸は知る。叔父さんによって悪魔祓いを依頼された神父がいたそうだが、いつのまにかいなくなっていたそうだ。


「叔父さんが死んだあと、事業が傾いた。実質、叔父さんが会社のキーマンだったからな。爺ちゃんの後を継いだだけの能無しにはどうしようもなかった。立ち行かなくなり打ちのめされた親父はほどなくして自殺し、この洋館も手放すことになった」


 そして春夏冬家に受け継がれた。

 悍ましくも忌まわしい地下空間と共に。


 父親の名前はと聞くと、野球帽の男は竜興範義たつおきのりよしと答える。オカルト雑誌編集者として、その竜興範義の仔細な人物像と五件の完全殺人の詳細な情報を欲している自分がいるが、耳を傾けている時間的余裕はない。


 ちなみに五人殺した悪魔が、今回の悪魔の可能性は非常に高い。以前、莉愛に聞いたことがある。悪魔には領域テリトリがあり、他の悪魔がその領域を侵すことはないと。


「分かった。もういい。だが、これには答えろ。お前は俺達が悪魔祓いにきたことを知っていた。それは、竜興家と繋がりのあるやつに聞いたからなんじゃないのか? つまり柚葉さんに悪魔を憑けたのはそいつだ。そいつは誰だ? 教えろ」


 春夏冬邸にいる誰か。それは間違いない。


 野球帽の男の視線が烏丸の後ろにいく。

 ガサリと音がして、誰かが背後に近づいたのが分かった。

 烏丸は後ろを振り向いた。



 ◇



 開いたページの空白部分が、手書きのラテン語で埋められている。

 近くにペンが落ちていたことから神父が書き残したのだろう。光源はライトのようだ。それは壁の奥に転がっていた。私は手書きの文章を読み始める。


『これを読むのは私と志を同じくするものだろうか。ラテン語を読めるあなたはおそらくそうなのだろう。知っての通り、私はすでに死んでいる。この洋館の主である竜興範義たつおきのりよしに殺されたのだ。


 竜興範義は悪魔崇拝者だった。彼はこの空間を作り、魔道具を使用して何人もの人間を悪魔の餌食にしてきた。見かねた弟、竜興範文のりふみが魔道具の処分を私に依頼したが、私を待っていたのは、すでに悪魔に魂を食われていた竜興範文の毒牙だった。背中と足をナイフで刺されたのだ。


 私は動けぬまま、ここに閉じ込められた。

 エクソシストになったときから死は受け入れている。死とは帰天であり永遠の祝福であり、何を恐れることがあろうか。しかし、悪魔を祓うことも叶わずこの世を去るのは無念でならない。


 これを読んでいるあなたにお願いがある。この先の未来、もしも竜興邸に悪魔憑きが現れるなら、それは竜興範文の自我を乗っ取った悪魔と同じだ。悪魔は世界のあらゆる場所に領域を創り、互いに領域干渉はしない。それはあなたも知っているはずだ。


 閉じ込められる前に私は竜興範文の中にいる悪魔と会話をした。名前こそ知ることは叶わなかったが、有益な情報を手に入れることができた。それは、悪魔がこの竜興邸で受肉したのは七年前ということ。


 今は西暦二〇〇〇年。あとはあなたに託す。どうか悪魔を祓い、私の無念を晴らしてほしい。父と子と聖霊の御名において、あなたに加護があらんことを。アーメン


 マルコ・サントラム』


 

 悪魔召喚専用に作られたかのような空間。レメゲトンに執着し、恐ろしく完璧に近い形で実行された悪魔召喚。とても、柚葉さんだけに悪魔を憑けたとは思えなかった。そういうことだったのか。


 春夏冬一家の前に住んでいた竜興家が諸悪の根源。

 今回、柚葉さんに悪魔を憑けた人間は、元々あった舞台装置を借りたに過ぎない。とはいえ、悪魔召喚そのものの罪は同等であり、決して許せるものではない。

 

 それにしても。

 

 私の全身を高揚感が駆け巡る。

 やっぱりあった。

 ここに悪魔の名前に通じる探し物が。


 受肉。すなわち、一度祓われてからの地上への復活。それが西暦二〇〇〇年の七年前の一九九三年だとすると、そこから更に六年と六六日前にこの悪魔は祓われていることになる。


 666。これは悪魔の数字であり、〈ヨハネの黙示録〉に登場する〈獣の数字〉として知られている。キリスト教で完全や神聖を露わす〝7〟に対して、不完全な〝6〟が三つ並んだ666は、悪魔の不完全さや邪悪さを表しているのだ。


 とはいえ、悪魔が好き好んで666という数字に執着しているとは思えない。ただ純然たる事実として、悪魔の受肉はその666という獣の数字に縛られ準拠している。つまりあの悪魔が前回、祓われたのは一九八七年ということになる。


 年代が判明したのは大きな前進だ。あとは〝カラフルな街並〟をいくつかピックアップし、年代と場所の両方のワードで〈聖撃の使徒の会〉データベースで検索。そうすれば、誰が柚葉さんに憑りついた悪魔を別の領域で祓ったのか知ることができる。

 

 私はスマートフォンで検索を試みる。だけど地下だからなのだろう、圏外になっていてダメだった。ここから出なければならない。時計の表示を見れば、聖檻の効果が最短で切れるまであと一〇分に迫っている。すでに悪魔が表に出ていてもおかしくはない。


 手錠をしているので移動される心配はないけれど、できるだけ早く戻ったほうがいい。悪魔に支配された時間が長ければ長い程、柚葉さんの心身へのダメージがそれだけ蓄積されていくのだから。


「マルコ・サントラム神父。あなたのおかげで悪魔を祓うことができます。あなたの信仰と知性に感謝いたします。アーメン」


 私は胸元で十字を切る。

 遠路はるばる日本まで来てくれたサントラム神父。

 全てが終わったら彼を丁重に葬ってあげなければならない。


 私は魔道具のある場所から離れ、梯子を上る。あとは扉を押し上げるだけなのだけど、全く上がらない。確かに扉は重かったけど、動かないということはないはずだ。私はもう一度トライする。でもやはり動かない。


「なんで開かないのよっ」


 私は声を張り上げ、扉を叩いた。

 誰かに聞いてほしかったわけじゃない。反応など求めてはいなかった。だから――、


「鍵を掛けさせてもらったよ。あんたをここから出すわけにはいかない」


 私は驚く。

 そしてその誰かの言葉の意味を知ったとき、不安の導火線に火がついた。

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