悪魔を憑けたのは


「こ、こんなところにいたのか」


 短距離走を終えたかのように息も絶え絶えで、膝に手を置いているこの男は確か、春夏冬琉翔。春夏冬家の長男が、疲労の色をかき消すほどに青ざめた顔を烏丸に向ける。


「琉翔さん、どうかしましたか」


「ど、どうもこうもあるか」琉翔が二の句を告げようとして、飲み込んだ。「おい、その男はなんだ? あんたの知り合いか?」


 野球帽の男に気づいた琉翔。

 その仕草と言動に、繋がりを隠すような作為めいたものはない。琉翔が野球帽の男を知ったのは今このときのようだ。つまり、柚葉に悪魔を憑けたのは琉翔ではない。


「この洋館の前の持ち主の息子らしいですね。ストーキング行為されたもんで、とっつかまえたらそう吐きました。こいつのことはいいんで、何の用か仰ってください」


。ベッドの上ならまだしも、そうじゃない。拘束が解かれて家の中を歩いているんだよっ」


 落ち着きを欠いたその態度から悪魔の目覚めだとは思っていた。しかし、事はそれ以上に深刻だった。最早、おざなりの敬語も出ない。


「なんだとっ? 拘束していたはずだろ。誰か解いたのかっ?」


「し、知らない。気づいたときには柚葉が廊下を歩いていて、和奏が、和奏が……」琉翔が弾かれたように顔を上げ、誰かを探すような所作を見せる。「アルヴェーンさんはいないのかっ? 早く彼女に対処してもらわないと……っ。彼女はどこにいるっ?」


「莉愛がいない? いや、ここにはいないぞ。あいつは洋館の中じゃないのか?」


「いないから探しに来てんだろっ!」


 差し迫った状況に感情が制御できないのか、怒鳴り声を上げる琉翔。

 莉愛は聖檻の拘束時間を気にかけてはいるものの、いたずらに縛られたりはしない。拘束具さえ付けてあれば、対象が自由に動き回るのはほぼ不可能だからだ。


 莉愛ならその自由に使える時間を最大限、悪魔祓いの成功率を上げるために使うだろう。今回でいえば悪魔の名前を突き止めるために。まだどこかで探しているのだろうか。手錠が何者かに外されたことも知らずに。


「家の中にいないのなら、地下空間かもしれない」


 野球帽の男が告げてくる。

 地下空間とはなんだと琉翔が烏丸に問う。烏丸が簡潔に伝えると、琉翔は「そんな場所があるのかっ!」と心底驚く素振りを見せた。


 地下空間。

 莉愛は自力で見つけ、そこへと向かった。――間違いない。


「おい、その地下空間に案内しろ」


 烏丸は野球帽の男を半ば強引に立たせ、その尻を蹴った。


「分かったって、くそ」


「それと早く教えろ。柚葉さんに悪魔を憑けた奴を。何度も言わせるんじゃねえ」


 言うタイミングで……などと、もごもごとつぶやく野球帽の男はやがて、その名前を明らかにした。



 ◇



 今の声は……。

 でもそんなまさか。

 彼女が私にこんなことをしてなんの意味があるの?


「一体、何の冗談ですか? 。私は柚葉さんの元に行かなければならないんです。早くそこをどいてください」


 はぁ、という大きな、それでいてこれ見よがしな溜息が聞こえる。


「冗談なもんかい。あんたに悪魔祓いなんてしてもらっては困るからねぇ。ずっとここにいてもらうよ」


 理解が追い付かない。


「悪魔祓いをしてもらっては困るって、それはなぜですか? なんのためにそんな妨害をするのですか? まさかあなたが柚葉さんに悪魔を憑けたのですか?」


「ふん、質問が多いね。答えは一つだよ。春夏冬家の連中に死んでもらうためさ。一人づつ悪魔を憑け、いずれあいつら全員に死んでもらい、この家を取り戻す。それが私の、竜興範義の妻としてのやるべきことなんだよ」


 竜興範義の名前がここで出るとは思わなかった。

 サントラム神父の手記には、弟の範文以外の家族のことには触れていなかったけれど、妻がいたようだ。――それが内藤さん。


「竜興範義のことについては知っています。悪魔崇拝者であり、何人もの人間を悪魔召喚によって殺してきたようですね。その範義さんの妻があなたであると」


「驚いたね。どこで知ったんだが。夫はね、悪魔召喚に反対する弟の範文に悪魔を憑けて殺したあと、自殺したんだ。罪の意識に苛まされてじゃないよ。会社が傾き、重圧に耐えきれなくなったからさ。私達のことを考えずに一人で逝っちまったのさ。本当に勝手な人だよ、まったく」


 ただでさえ思い扉。上に乗られては、どうやっても開かないだろう。

 スマートフォンを見れば、扉の近くだというのに電波状況が悪く圏外の表示。通話で烏丸さんに救助を求めるという最善の策は早くも潰えた。メッセージも同様に無理だろう。


「おかげで、立ち行かなくなった私達はこの家を失うことになった。これはきつかったよ、本当にね。私はこの家が大好きだったからさ。愛着ってやつだね。いざ、手放す段になって私は夫を心底憎んださ。でもね、夫だって、この家が誰かの手に渡るだなんて思ってもみなかったはずだよ。残された私達が守っていくと思っていたはずなんだよ。だから私は決めたんだよ。この家を奪った春夏冬家から絶対に取り戻してやるってね」


 輝彦さんは、売りに出ていたこの洋館を正式な手続きを踏んで購入したにすぎない。それを奪ったと表現するとは、見当違いも甚だしい被害妄想だ。


「この家の家政婦になって、十何年もの間、ずっと機を窺っていたのですか? やけに気が長いですね。おそらくこの場所のことはあなたしか知らないのでしょう。だとすれば、いつだって悪魔を召喚することは可能だった。なのになぜ、一カ月前なのですか?」


 長く一緒にいる内に情が湧き、良心の呵責が邪魔をした。

 どこかでそういった答えを期待していたのかもしれない。

 でも、違った。


「何を勘違いしてるんだい。私が家政婦になったのはその一カ月前だよ。前にいた家政婦が辞めたタイミングで応募したのさ。……長かった。本当に長かったよ。でも苦じゃなかった。家はそのままの状態であるんだ。いずれ取り戻しゃいいと思っていたからね。


 あの日、輝彦のやつは満面の笑みであたしを歓迎してくれたよ。これから家族全員、悪魔に憑りつかれるってことも知らずにね。初仕事の日に準備を整えて、次の日にはさっそく柚葉に悪魔を憑けてやったのさ。あの娘っ子がタイミングよく指を怪我して血を入手できたこともあってね。いひゃひゃ」


 内藤さんは、凝縮された十何年分の憎悪を即座に解き放すほどの悪意を纏っていた。なんの罪もない柚葉さんに悪魔を憑けるという最悪の暴力を、躊躇なく実行したのだ。

 

 狂ってる。

 安易な表現だけど、それ以外の言葉が見つからなかった。


「仮に春夏冬家の人間が全ていなくなったとしても、あなたの家になるわけではありません。だからもう止めませんか。今からでも間に合います。私をここから出し、悪魔祓いに協力してください」


「うるさいっ。こいつめがっ」ドンドンッと扉がなる。内藤さんが扉を足で強く踏みつけているようだ。「悪魔祓いなんてさせないよ。ったく、いんちき霊媒師みたいなのが来たとほっとしていたら、本物とはね。あのとき帰ってりゃ良かったのに。なんだって戻ってきたかね」


〝あのとき〟とは、柚葉さんの虚偽を疑い、家を追い出されたときだろう。


「本物だから戻ってきたんですよ。存在を確認した悪魔をそのままになんてできません。私は必ず悪魔を祓い柚葉さんを救います。あなたの思い通りにはさせません」


「いひゃひゃひゃっ。ここに閉じ込められて何ができるっていうんだい。ああ、そうだ、いいことを教えてあげる。可愛い柚葉ちゃんが可哀そうだからねぇ、手錠は外しておいたよ。工具でバチンッってね」

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