魔法円


「この絨毯なのか?」


 私と烏丸さんの休憩場所として提供された洋室。その床に敷かれたペルシャ絨毯の裏側に、黒魔術に使用した魔法円があるという。


「うん。こっちの端っこのほうなのだけど――」


 和奏さんが左端、ボウウインドウがあるほうからペルシャ絨毯をめくり上げる。するとそこには、黒色で描かれた直径五〇センチほどの魔法円が確かにあった。かなり昔に作成したのか、ところどころ薄くなっている。


「本当にあったのか。し、しかし、こんなところになぜ……」


 輝彦さんが汚らわしいものを見るかのように眉間に皺を寄せる。


 私は悪魔の絡む黒魔術には詳しいつもりだ。とはいえ、黒魔術は太古の時代から存在し種類も膨大であり、当然私の知らない黒魔術だってある。例え、それが悪魔に関連しているとしても。


 私はこの、円形の中に四角の図形が重なった魔法円のことを知らない。つまり、私の知っている儀礼的魔術――悪魔召喚に使用する魔法円ではないのは確かだ。


 ただ、和奏さんがこの魔法円で悪魔を召喚したというのなら、私が知らないだけで、これもまた悪魔召喚の魔法円ということなのだろう。事実、悪魔は柚葉さんに憑いているのだから。


「過去の持ち主が何らかの理由で描いたのでしょう。ところで和奏さんはこの魔法円を前にして、どのように悪魔を召喚したのですか」


 和奏さんがおずおずと魔法円のほうに近づく。


「こ、この円の中に柚葉の髪の毛を置いて、その……悪魔に頼みました。ゆ、柚葉のことを……柚葉のことを……」


 和奏さんの顔が辛そうに歪む。


「分かった。それ以上は大丈夫」と私は制止する。

 柚葉さんの不幸を願った、のだろう。まさか本当に悪魔を召喚できるなどとは思わずに。


 魔法円から悪魔の名前に通じる何かを見出すことはできない。

 私は絨毯を元に戻すと立ち上がる。


「アルヴェーンさん。その魔法円は消さないのですか? 消せば柚葉に憑いた悪魔も消えるのでは?」


「それは無理です。黒魔術の魔法円は一方通行。邪悪な目的をなかったことにはできません」


「そうですか」


 無理だと思っていたのか、消沈するでもない輝彦さん。逆に和奏さんはその手があったかと期待していたのか、その落ち込みぶりは見ていて不憫に思うほどだった。


 話を変えよう。


「あの輝彦さん、お願いがあるのですが」


「はあ、何か?」


「大変ぶしつけなのですが、今日、この家に泊ることは可能でしょうか? 悪魔が聖檻から出てくるのは早くても八時半頃。但し、もっと早い時間の可能性もゼロではありません。なので万が一のとき、すぐに対処できるようにと思いまして」

 

 ホテルに帰ろうとは思った。でもその労力と即応性を考慮したとき、私の中にもう一つの選択肢が浮かび、それが最適解となっていた。


 輝彦さんの険しかった眉が解ける。


「それは嬉しい申し出です。実は私からもお願いするつもりだったのです。アルヴェーンさんがいてくれるだけで、こんなに心強いことはありませんから」


 父親の視線を受け止め、力強く首肯する和奏さん。

 良かった。烏丸さんにはあとで春夏冬邸に泊る旨を伝えよう。


「それでアルヴェーンさんの泊まる部屋なのですが……実はお願いするつもりだったと言っておきながら、人様に提供できる部屋がこことリビングしかないのです。絨毯のことを考えるとリビングがいいと思うのですが、どうしますか?」


「この洋室でいいですよ」


 えっ、と輝彦さんが驚く。


「本当にこの部屋でいいのですか? 悪魔召喚に使った絨毯ですよ? やはりリビングのほうが。それにベッドもないですし」


「お気遣いありがとうございます。ですが、この部屋で大丈夫です。絨毯そのものは呪物ではないですし、リビングは広すぎて落ち着かないですから。それにこのソファだったら足も伸ばせるので問題ありません」


「そうですか。ではこちらの部屋でゆっくり休んでください。洗面台やシャワーを使用したかったら、ドアの先にありますのでご自由にお使いください。もし何かありましたら、リビングを挟んだ向かいの部屋に私がいますので、遠慮なくノックしてください」


「分かりました。あの、すいません。もう一つ、お願いがあるのですが、宜しいですか」


「ええ、どうぞ」


 私は、もう一つのお願いを伝える。すると輝彦さんは、そういうことでしたら理解を示してくれた。


 輝彦さんが一礼して部屋を去っていく。

 会釈してその後ろをついていく和奏さんだったけど、途中で引き返してきた。


「アルヴェーンさん。私の愚かな行いのせいで迷惑かけてごめんなさい。ほかにも救うべき人がいたはずなのに、私が悪魔召喚なんてしたばっかりに」


「迷惑だなんて思ってないよ。そこにどんな背景があろうとも、祓魔師ふつましにとって悪魔祓いは使命だし、それに今、救うべき人は柚葉さん。だからももう謝ったりしないで。謝るのなら、それは――」


 全てが終わったあとに柚葉さんにだと思う。

 

 そう口にしようとしたけど、できなかった。

 頭の片隅に疑いのしこりがある。これが消えないことには、和奏さんに罪があるとは断定できないのだ。


「アルヴェーンさん?」


「ごめんなさい。えっと、柚葉さんは必ず私が救うから安心して」


「はい。お願いします。お休みなさい」


「うん。お休み」


 和奏さんは、もう一度私に深く頭を下げると洋室を出ていった。


 ところで、シャワーか。


 浴びれるのは嬉しいけれど、替えの下着も何もない。急遽の思い付きでそこまで頭が回らなかった。マンガ図書館を早めに切り上げて湯に浸かっていればよかったけれど、それだって結果論に過ぎない。


 全てが終わったら、ゆっくり浸かろう。


 幸い、お腹は満たしてある。あとは烏丸さんが了承すればだけど、彼が反対することはないだろう。とはいえ連絡は必要だ。私は烏丸さんに電話を掛ける。


 ……電話にでない。まだサウナにいるのだろうか。情弱ゆえの行動だったけれど、〝整う〟のであれば、それはそれでいいのかもしれない。メッセージで伝えておけば大丈夫だろう。

 

 私はソファに横になる。

 六時半に起きるとしても七時間半。それだけあれば十分に深い眠りにつける。仮に何かイレギュラーなことが発生したとしても、ここにいればすぐに駆け付けることもできる。


 あ、いけない。私ったら。


 私は腰を上げると、バッグからペンを取り出した。描く場所は決まっている。生活していく上で目につかないところ。例の魔法円を描いた人間も同じ思考だったのかもしれない。

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