聖ビルギッタ


 タクシーのロードノイズが、今日はやけに不快に感じる。

 不安から神経が過敏になっているのかもしれない。窓から見える黒々とした森もまた、心許なさを助長させる。拒絶しておきながら、となりに烏丸さんがいてくれればと思う。彼の大きな体は、防波堤のように不要な感情の流入をも防いでくれたはずだろうから。


「お客さん、あの家の人間じゃないよね?」


 ルームミラーを見ると、年配の運転手と目が合った。

 ようやく訊けた。そんな空気感を感じる。おしゃべりをするつもりはないけれど、つれない態度を取るのも気が引ける。受け答えくらいはしてもいいだろう。但し、極力こちらに踏み込ませないように。


「ええ。運転手さんは春夏冬邸の誰かと知り合いなのですか?」


「いや、そういうわけじゃないけどね。ただほら、あの家って大きくて豪華で、その、なんというか異質でしょ? 家の人間じゃないなら、何をしに行くのかなって」


「ちょっとした要件です。ところで今、異質と言いましたが、家のことでいいんですよね? それとも人のことですか?」


「そりゃ、もちろん家のほうだよ」


「家、ですか?」


「うん。だって、人はほら、今は違うだろ? だから家。あ、でもそう見えるだけかもしれないね。家は誰が住もうが同じなんだから」


 全くもって要領を得ない返答だと思った。

 自分の中で消化してしまい、何が異質なのか簡潔に伝えるつもりもないようだ。今の会話で満足したのか、運転手は本来の業務に意識を集中させるように私から目をそらした。

 

 しばらくすると、春夏冬邸が視界に入ってきた。

 夜の闇に囲まれているからだろうか、外界から閉ざされた孤島の屋敷のようにも見える。我ながら嫌な表現だと思った。でも何かが起きる予感はしている。だから私はきたのだ。その予感に対処するために。


 タクシーが春夏冬邸の門扉の前で止まる。

 運転手が、料金を支払い降りた私に、


「その十字架のネックレス。あなた、クリスチャンだったのか」


「え? はい」


 単にファッションで身に着けている人もいるけど、実際に私はクリスチャンである。この運転手もクリスチャンなのだろうか。


「そういえば、それで思い出したんだけど、かなり昔にさ、神父さんっていうの? その神父さんをこの家に連れてきたことあったな。外人なんだけどね、タクシー降りるときに、御加護があらんことをアーメンって言われてなんか感動しちゃったな」


 

 ◇



 時刻は二〇時二四分。門扉の鍵は掛かっていなかった。私は開けて中に入る。

 庭園の其処此処に仄かに明かりが灯っている。昼に見たときは気づかなかったけど、トーチ型のLEDライトが地面に設置されているようだ。

 

 ライトの光に下から照らされる薔薇が幻想的で目を奪われる。ここに来た目的がもっと大したことのないものであれば、このまま空想の世界に身を委ねたいところだ。あと五秒と言い聞かせ、目の保養を続けていると、光が妙な形に途切れているところがあった。

 

〝何か〟が光の前にあって、それで途切れて見えるようだ。〝何か〟である黒い影がゆらりと動く。それは左右に揺れながら、徐々に鮮明さを増しつつこちらに近づいてきた。


「莉愛さん」


 柚葉さんだ。

 彼女は、その顔に安堵の色を浮かべる。でも抱いていたと思われる不安感を拭いきれないのか、どこかぎこちなかった。

 

 皮肉なことに、柚葉さんのその不安の現れが私の中に雨雲のように広がっていた影を霧散させた。私まで心の平静を失ってはいけない。


「柚葉さん。家の中にいても良かったのに」


「居ても立っても居られなくて、それで……」


「そう。あ」私は謝らなくてはならない。「柚葉さん。輝彦さんから聞いていると思うけど、私、あなたの虚偽を疑いました。悪魔憑きはあなたが注目を浴びたいがための嘘であると。ごめんなさい」


「ううん。いいんです。だってそれも手順ですもんね。私は自分が嘘をついていないことを知っているし、莉愛さんもこうして来てくれた。だからもういいんです」


 敏い子だと思う。

 だからこそなぜ? と私は訝ってしまう。


「ありがとう。輝彦さんと和奏さんは家にいるのですよね? 私がくることは伝えてくれましたか?」


「はい」


「とりあえず、家の中に入りましょう。悪魔祓いをするにしても屋内のほうがいいですから」


「その前に、二人で少しお話がしたいです」


「でも、家に戻らないと輝彦さん達が心配するのでは?」


「大丈夫です。私が庭にいることは知らないですし、部屋で休んでいると思っていますから。それに今、私とても調子がいいんです。夜風が気持ちいいからかもしれません。だから、ね? 少し、お話しましょう。あっちに公園があるんですけど、そこで」


 電話のときの切迫感は感じ取れない。実際に調子は良さそうに見える。悪魔が一旦、奥に引っ込んだのかもしれない。私は柚葉さんのお願いを了承した。もちろん、警戒は解かずに。


 公園の四隅に置かれたトーチ型LEDライトの光。とても頼りないけれど、無ければこの公園も真っ暗だろう。公園を囲む樹木の枝が風に揺れ、葉擦れの音が不規則で無味な調べを奏でる。


「私、つい最近までこの公園で遊んでいたんですよ。ふふ、おかしいですよね、もう一七なのに、公園で遊ぶなんて」


 ブランコに座り、足をぶらぶらとさせる柚葉さん。

 私がどう返そうか考えあぐねていると、


「そういえば、莉愛さんはどうしてエクソシスト――祓魔師ふつましになろうと思ったんですか?」


 どうして祓魔師になったか。

 お母さんの顔が過り、胸をチクリと刺した。


「聖ビルギッタの恩恵を受けているから。それは誰でもじゃなくて、素質を持った人間に与えられるもの。だから私は祓魔師になったの」


「えっと、聖ビルギッタってなんですか? それに恩恵って……」


「あ、ごめんなさい。そこの説明を端折っちゃダメだよね。聖ビルギッタとは――」


 聖ビルギッタ。あるいはスウェーデンのビルギッタ。

 一三〇三年に生誕し一三七三年に没したスウェーデンの聖職者であり、彼女は死後に聖別され聖性が確認されたのち、一九九九年に守護聖人となった。今でもスウェーデンで最も崇敬の対象となっている人物であり、私はその恩恵を受けていた。


 恩恵とは幼い頃からの幻視であり、私は週に一度は必ず、お祈りのあとに聖ビルギッタの後ろ姿を目にしていた。光溢れる世界の中で、彼女は唯一の個でありながら、まるで森羅万象のように存在していた。


 聖ビルギッタは話さず、動かず、ただずっとそこにいた。それでも私はいつも感じていた。神に対するあまりにも深く強く穢れのない、彼女の信仰心を。

 聖ビルギッタの後ろ姿だと教えてくれたお母さんは云った。その信仰心を浴び続けることによって、私の中に悪魔と戦える力が備わったのだと。


「特別にエクソシストを名乗ることを許されているって言ってましたけど、そういうことだったんですね。でもなんで、選ばれたのが莉愛さんだったんでしょうね」


「それは聖ビルギッタのみぞ知るかな。私も母も選ばれたことを考えると、代々続く血筋なんだと思う」


 それ以上の説明は不要だと思った。


「お母さんも祓魔師だったんですか?」


「うん。でも今はもう違うけどね。別の道に進んだんだ」


 私は嘘を吐いた。

 自分の罪から逃れるように。


「でも、つ……あ、いえ」


 柚葉さんが何か訊こうとして、飲み込む。


「何? いいよ」


 私は促す。

 すると柚葉さんは、遠慮がちに続けた。


「辛くないですか? 悪魔と戦うのが仕事って。心が安らげるときもないんじゃないかって思っちゃって」


 そういうことね。


「それは大丈夫。悪魔祓いの仕事は要請があったら行くのだけど、その頻度も二ヵ月に一回あるかないか。それに私の本職は花屋だから」


「え? 花屋さんなんですか? わぁ、似合ってます。そっかぁ、花屋さんなんだぁ」


「うん。似合ってるかな。そういってもらえると嬉しい」


「正直、莉愛さんはエクソシストのイメージとはかけ離れていていると思ってましたし、花屋さんと聞いて、なんかストンと腑に落ちました。花を売ってる莉愛さんは簡単に想像できちゃいます」


 声のトーンが明らかに高くなった柚葉さん。

 エクソシストは、アンダーグランドの枠からも大きくかけ離れた特殊な職業だ。私が女性であっても、どこか隔たりを感じていたのだろう。それが、花屋という身近な職業が本職と聞いて、一気に距離が縮まったようだ。


 庭園に咲いているバラの名前は知っているかと聞かれて、私は知識にある限りを羅列する。柚葉さんはすごいすごいと表情に花を咲かせる。本当に悪魔憑きなのかと思えるくらいに瑞々しい生気に満ちていて、私が元気をもらえるほどだった。


「来月、お母さんのお墓参りに行くんです。お母さんが好きだった花があるんですけど、それを莉愛さんのお店に買いにいっていいですか?」


 わずかの逡巡のあと、柚葉さんはそう口にした。

 私はもちろんと頷いた。花の名前は聞かない。そのときの楽しみにとっておこうと思った。 

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