束の間の休息
眼前のテーブルから漂ってくる、ピッツァとパスタの濃密で香ばしい匂い。
食欲をそそる匂いは数あるけれど、これ以上に摂食中枢を刺激する垂涎ものは他にはない。匂いではなく香りだったら花のそれが大好きだけど、やはり料理はイタリアンに軍配が上がるのだった。
「よっしゃ、食べるとするか。しかしうまそうなピザとスパゲティだな」
さすがに聞き捨てならない。僅かだけど、イラっとするほどだ。
「ピザじゃなくてピッツァですし、スパゲティじゃなくてパスタですよ。両方間違える人、初めて見ました。メニューにも書いてあるのに」
「あ? 違いなんか名前だけだろ。これはピザで」と、マルゲリータピッツァに食らいつく烏丸さん。三回程の咀嚼で食道に流し込むと「で、これがスパゲティだ」と、フォークで丸めたプッタネスカのパスタを口に放り込んだ。
「いえ、名前だけではありません。ピザとピッツァは焼き方や製法が違いますし、食べ方やマナーだって違います。そしてもう一方の誤りですが、スパゲティはパスタの種類の一つであり、マカロニやヌードル、バーミセリと同じカテゴリなんです。分かっていただけましたか」
私はペスカトーレのピッツァを手に取り、口に運ぶ。イカ、エビ、ムール貝など海の幸が舌を喜ばせる。絶品すぎて早くも頬が落ちそうだ。
「分かったところで味が変わるもんでもねえ。まあ、ここではその洒落た名前で呼んでもいいかもな。配膳ロボットで雰囲気ぶち壊してくることもないしな」
その後、黙々と料理を堪能する私と烏丸さん。店内に流れるイタリア音楽を聴きながら、至福の時が流れていく。やがて料理がすべてなくなり、店員に空いたお皿を片付けてもらったところで烏丸さんが「そういえば名前と言えばよ」とつぶやく。
名前と言えば。
どうやらピザとピッツァ、パスタとスパゲティの話からつながるらしい。
「はい」
「柚葉さんに憑りついている悪魔の名前を、どうやって知るつもりだ?」
「悪魔の名前――。悪魔を祓うには避けて通れない重要事項ですね」
悪魔とは総称であり、その時点では曖昧模糊とした空想の産物に近い。駄天した悪魔の行先がこの地上であっても、私達がその真の姿を見ることができないからだ。人間に見せる姿は偽りであり、描かれた絵は全てその偽りから生まれた創作にすぎない。
偽りから個は認識できない。個を認識できない以上、個を重んじ個の世界で生きる私達人間には太刀打ちできない。だけど、悪魔には名前があった。天が居場所であったときに神に付けられた名前が。その名前こそが個として認識できる唯一であり、悪魔を祓うために絶対に必要なファクターだった。
「伝家の宝刀、イエス・キリスト様の御名を使うか? それで吐露してくれれば、重要事項の一つはクリアできちまうんだがなぁ」
「そう簡単にはいかないでしょうね。対話のとき、私はずっと柚葉さんに向かってこの十字架のペンダントを向けていました。でも柚葉さんの中にいる悪魔は嫌がる素振りを見せませんでした。我慢するにしても、それなりの力がなければ無理でしょう」
「そういやそうだったな。虚偽じゃないとなると、中位の悪魔以上ってことになるか」
ポケットから煙草を取り出す烏丸さん。
でもここじゃ吸えないことに気づいてすぐに仕舞った。
「そうですね。だとすると難儀な仕事になりそうです」
「難儀といえば、証拠もそうだな。柚葉さんが悪魔に憑りつかれている証拠がなきゃ、バチカンが悪魔祓いを許しちゃくれない。こっちもどうにかしないとな」
病気でも虚偽でもないと分かっている。悪魔が憑依していることも分かっている。それでも許可が必要なのが悪魔祓いというものだ。特に私は神学校にも通っていない女であり、カトリック教の一信徒に過ぎない。いい顔をしないエクソシストだっている。だからこそ規律は順守しなければならない。
◇
美味しい食事のあと、五階に上がり506号室へ入室する。
どこにでもあるビジネスホテルの一室といった感じであり、取り立ててこれといったものはない。私はベッドに倒れ込む。強めの弾力で体が跳ねてバッグからスマートフォンが落ちた。
落ちたスマートフォンを拾い上げ、ロック画面の写真を眺める。
私のとなりにはお母さん。シスターを目指していたけれどお父さんに出会って恋をした彼女は、終生誓願直前にその道を自ら閉ざした。お父さんとは幸せそうだったけれど、時折お母さんから感じた哀愁の念はずっと引っかかっていて、でも結局、訊くことは叶わなかった。
お母さん。
私もお母さんと一緒で多分シスターにはならない。
だってお母さんのようにいつか素敵な男性と結婚したいから。
それでいいよね? いいならそう言ってほしいな、お母さん――。
~~~♪
スマートフォンから着信音が聞こえる。
知らない番号。だけど誰であるかは確信できた。
私は目元から零れ落ちそうな涙を拭うと、電話に出る。
「はい。アルヴェーンです」
「……あ、あの、私、柚葉です。その…………」長い沈黙。私は待つ。「り、莉愛さんに、悪魔祓いをお願いしたくて電話しました」
「うん。待ってたよ」
「莉愛さん、私、怖いです。対話をしてからなんかおかしいんです。鏡に私じゃない私が映ったり、大きな物が勝手に動いたり。それにお腹の痣が別の文字に変わっているんです。なんて書いてあるのか分かりませんが、全て、私を怖がらせるためにしているような気がして――。何が起きてるんでしょうか? すごく、怖いです」
悪魔が活発化している。
私という敵が去ったのをいいことに、柚葉さんの心身もろとも完全に乗っ取ろうとしているのだろう。このまま放っておけば、数日で大事に至る可能性も充分にある。
「今すぐ、そちらに向かいます。それでご家族の方達は?」
「お父さんとお姉ちゃんは家にいますが、お兄ちゃんは仕事の都合で一旦、自分の家に帰りました。あと根津さんと内藤さんも勤務時間が終わったので帰宅しました」
「そうですか。私が向かうことを輝彦さんと和奏さんには伝えおいてください。そちらのほうが事がスムーズに進むでしょうから」
琉翔さんがいなくて良かったと安堵する。
輝彦さんは大丈夫だろう。虚偽の可能性に言及した私に腹を立てたものの、そこに惑いがあったのを見て取れたから。
私は通話を終了させると、となりの505号室へ。ノックして声を掛けると烏丸さんが出てきた。片手にビールの缶を持って。
「おう、どうかしたか?」
「それ、飲んじゃったんですか?」
「あ? まあ、ついさっき飲み始めたところだが……。ん? どうした?」
はぁ、と私は首を横に振る。
「悪魔祓いをしてほしいと柚葉さんから電話がありました。なので私は今からタクシーで向かいます。烏丸さんはアルコールが完全に分解されてから車できてください」
「な……なにぃぃぃぃっ!」烏丸さんが缶を握り潰し、中身が床にぶちまけられる。「ま、待て、全部吐き出すからっ。な? ちょっと待ってろ」
「吐き出すって、もう胃と小腸で吸収されちゃってます」
「じゃあ、今から大量に水を飲むっ」
「情弱ですか? 水なんてたくさん飲んでも分解速度は早まりませんよ。だいたい、柚葉さんから電話が来て、今日中にまた春夏冬邸に向かうことは予想できたはずです。にも拘わらずアルコールを摂取するなんてやっぱり相棒失格でしょうか」
「うっ!」
この世の終わりのような顔の烏丸さん。
少し言い過ぎたかもしれない。でも謝るのも違うような気がした。
「では私は行きます」
「ち、ちょっと待て。俺もタクシーに乗ればいいだけの話じゃないのか」
「私は烏丸さんの仕事に対する姿勢にノーを突き付けてるんです。それにアルコールが入った状態で、相棒の務めを果たせるとは思えません。反省の意味も込めて烏丸さんは絶対、アルコールが分解されてからきてくださいね。あと床の掃除もちゃんとしてくさだいね」
「……分かった。――莉愛」
「なんですか?」
「無茶はするなよ。やばいと思ったら俺を待て」
「はい。では行ってきます」
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