鶯祈里にはなれないけれど


 ※


 莉愛と烏丸が車で去っていく。

 二階の自室にいた柚葉は、それを複雑な心境で眺めていた。

 

 先ほど和奏から事の次第を聞いた。どうやら悪魔との対話を試みた莉愛が、悪魔の声と表情が柚葉の演技ではないかと疑ったらしい。それを聞いた父は立腹し、琉翔に至っては激高して莉愛と烏丸を家の敷地から追い出すほどだった。


 和奏と内藤は疑念を払拭できればいいとの考えだったが、琉翔の怒りは凄まじかったようで止めようがなかったという。短絡的な兄に苛立ちを隠せない和奏は「ごめんね」と何度も口にすると、さきほど部屋から出ていった。彼女はほかに悪魔を祓える人を探さなくてはと、とても焦っていた。まるで自分のことのように。


 あの日を境に、琉翔と和奏の柚葉への態度に棘がなくなった。なくなったどころかこちらが驚くほどに優しくなり、和奏に至っては人が変わったかのようだった。

 

 柚葉は窓から離れるとベッドに横になった。

 自分は悪魔に憑りつかれている。莉愛との対話は間違いなく悪魔がしたことだ。それは誰よりも自分が一番分かっている。莉愛も同じだと思っていたのだが、買い被りだったのだろうか。聡明で実質を兼ね備えていると感じ取れたのだが。


「はぁ」


 今日の夜もまた症状が出るだろう。それも、もっとひどい状態で。なぜだかそれは確信できて柚葉は今や、目を瞑って休むことさえ怖くなっていた。


 ふと視線を感じて、そちらに視線を向ける。

スタンドミラーに自分が映っている。自分は座っているのに鏡の柚葉は立っていた。鼓動がひと際大きく胸を殴打する。鏡の柚葉の口角が徐々に吊り上がり、下卑た笑みが形成される。その口が動く。


『ぉ前が望んダんだ。俺は優しィだろ? 柚葉、ゆずは、ユづハ』


 鏡の柚葉が名前を呼びながら近づいてくる。わぁっと、柚葉は枕を鏡に投げつけた。鏡の柚葉が消える。今のは間違いなく悪魔の仕業だろう。心臓が未だ激しく早鐘を打っている。


 どうしたらいいのだろうか。どうしたら、どうしたら――。


 ドアを叩くノックの音。ひっと声が出る。


「柚葉ちゃん、内藤です。入ってもいい?」


 悪魔の仕業ではなく内藤だった。

 良かった。私はベッドから降りるとドアを開けた。

 

「どうぞ、入ってください」


「失礼しますね。体の調子はどう? 何か食べたい物があったら持ってくるけど」 


 内藤のその柔和な表情に緊張の糸が切れ、多大な安堵感が溢れる。柚葉は内藤の体を抱きしめると温もりを求めた。


「いきなりごめんなさい。ただ、ちょっと怖くて。来てくれてありがとう」


「あらあら、何かあったのかしら。大丈夫だからね、大丈夫、大丈夫」


 背中を優しくなでてくれる内藤。母がいたらこんな感じなのだろうか。

 好きという感情さえ湧かせてもらえなかった母を、愛情を夢想するだけしかできなかった母を、こんなにも愛おしく思ったのは初めてだった。


 数秒、あるいは数分経っただろうか、柚葉は落ち着いた心音を感じつつ内藤からそっと離れる。


「ごめんなさい。もう、大丈夫です」


「そう。ならいいのだけど。そういえば、これ、根津からあなたへって」


 内藤から便箋を受け取る。

 そこには電話番号が書かれていた。


「これは?」


「アルヴェーンさんのスマホの番号みたい。根津はそれだけしか言わなかったわね。友達になったのかしら? じゃあ、渡しておくわね」


 便箋には電話番号以外は何も書かれていない。しかし柚葉はそれだけで理解した。やはり莉愛は知っていたのだ。

 天秤が片方に傾く。しかしまだ答えを出せない柚葉だった。



 ◇



 陽光を浴びた山肌が橙色に染まり、その稜線を眩く光らせている。

 山には神が宿っているというけれど、確かにそこには単なる山岳信仰では済まされない神々しさがあった。


 自分の住んでいる町では決して味わうことのできない光景に、暫し見惚れ、ここに来た理由を忘却の彼方へ追いやりそうになる。罪悪感がチクリと胸を刺し、再び訪れるときは観光旅行で来ようと私は決めるのだった。


「着くぞ。あのビジネスホテルがそうだ」


 愛車のSUVを操る烏丸さんが、フロントガラスに指を向ける。その先には看板に『ナガノシティホ停めるル』と書かれたビジネスホテルがあった。老舗のビジネスホテルだからなのか、外観は至ってシンプル且つ無骨で余計な装飾がない。人間だったら、上っ面で勝負しない職人気質、そんな感じだ。


 ホテルの駐車場は地下のようだ。てっきりそこに入るのかと思ったのだけど、烏丸さんは通り過ぎた。


「烏丸さん、駐車場に停めないんですか?」


「ちょっと待て。確かめたいことがあってな」


 烏丸さんがルームミラーに目を向ける。その仕草は単に後ろを確認するというよりかは、後続車の動向を気にするかのようだった。


「後ろの車がどうかしましたか?」


「どうやら付けられているらしい」


「付けられている? どこからですか?」


「おそらく春夏冬邸を出てからずっとだ。あと三つほど道を左に曲がってみる。それでも付いてくるなら確定だ」


 サイドミラーを見ると、白いワンボックスカーが後ろに付いている。フロントガラス越しに見える運転席には、赤い野球帽をかぶった男性が乗っている。輝彦さんでも琉翔さんでもないように見えるけど、一体誰だろうか。


 烏丸さんのSUVが三回、道を左に曲がる。元の大通りに戻るように。すると白いワンボックスカーはトレースするように付いてきた。間違いない。確定だ。


 道の途中でブレーキを踏み、車を止める烏丸さん。「さぁて、何者か確かめてやるか」と彼は降車すると、全く臆することなく後ろの白いワンボックスカーに近づいていった。


 私も車から降りる。ちゃんと野球帽の男の顔を確認したほうがいいと思った。


 烏丸さんが運転席の窓をノックする。


「こんにちはー。さっきからずっと付いてきているみたいなんですが、どういうことですかねぇ。答えてもらえます?」


 烏丸さんの口調は優しい。顔も満面の笑みを携えている。

 わざとらしくて、あまりにも不自然だけれど。


 私はドライバーを確認する。面長でこけた頬。その顔の中にある細い目が右へ左へと忙しなく揺動している。激しい動揺の表れだ。まさか道路で車を止められて、追っていた車のドライバーに声を掛けられるとは思ってもみなかったのだろう。しかも相手が規格外の大男となれば、その及び腰の態度も頷ける。

 

 そのとき、ワンボックスカーが勢いよくバックする。

 縁石を派手に擦る音が響く。


「あ、待てこらっ。逃げんじゃねぇ!」


 本性を現した烏丸さんが追いかける。でも深追いは相手の運転を誤らせる恐れがあると判断したのか、途中で止めた。

 白いワンボックスカーはT字路で切り返すと、右方向へと走り去っていった。


「くそ、何者なんだ、あいつは」


 苦々しげに顔を歪めながら戻ってくる烏丸さん。


「ナンバーは覚えています。危険運転で警察に通報しますか?」


「いや、それはいい。ただ、次に会ったときはただじゃおかねぇ」


 拳を手の平に叩きつける烏丸さん。


 春夏冬邸からの帰りに付けられていたという事実。今回の悪魔祓いの一件に、少なからず関与しているのかもしれない。

 


 ◇


 

 車を地下駐車場へ止めて、ホテルの中へ。やや薄暗いロビーにはソファが二つ。コーヒーが無料らしく、年配の男性が雑誌を片手にソファに座って飲んでいた。

 烏丸さんがフロントで鍵を二つ受け取る。烏丸さんが505号室で私が506号室のようだ。


「早く切り上げ過ぎちまったから晩飯まで時間があるな。俺は部屋で記事を書くが、莉愛はどうする?」


「ここ、マンガ図書館っていうのが一階にあるみたいですね。なので部屋には行かずにそこで時間を潰そうかと思います」


「そうか。じゃあ、一九時に二階にある『星屑のパスタ』に来てくれ」


 烏丸さんがエレベーターに乗って上がっていく。

 どこで晩御飯を食べるのか今になって知る私。まさか私がイタリアンが好きだから『星屑のパスタ』なる店を選んでくれたのだろうか。と思ったのだけど、どうやらこのビジネスホテル内にはその店しかないようだった。


 マンガ図書館に移動すると、お目当てのマンガを数冊手にして空いている席に座る。経年劣化した一人用のソファ座椅子だけど、座り心地は思いのほかいい。これはまったりとマンガを楽しめそうだ。無料のコーヒーを持ってくればよかったなと思ったけれど、戻るのが億劫なので止めた。


 マンガのタイトルは『シスターの除霊はワンパンで』。

 基本的なストーリーの流れとしては、ダウナー系で無感情なシスター鶯祈里うぐいすいのりが依頼を受けて悪魔退治に赴くのだけど、実は彼女には悪魔祓いの能力は全くない。ではどう悪魔を祓うのかといえばそれは拳であり、彼女は憑依している人間越しに悪魔を殴って倒すのだった。


 ホラー要素はあるものの根っこは秀逸なコメディであり、何度読んでも面白い。

 最初は、同じ女性で尚且つ特別にエクソシストに任命されているという設定が自分と重なり、読み始めた。だけど彼女の性格も祓い方も私と全然違くて、それがとにかく新鮮で爽快ですぐに単なる一ファンと化していた。


 ……いえ、全然違うわけじゃない。

 たった一つだけ同じところがあった。それは悪魔との向き合い方。

 彼女は人間に害を与える悪魔は絶対に許さないし逃さない。悪魔を祓うのが彼女の使命であり、必ずやり遂げた。


 だから私も必ず――。

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