武器


「今度は私から聞いていい? 柚葉さん」


「はい。いいですよ。なんですか?」


 ビー玉のように輝く瞳が私の質問を待ち構える。

 

「どうして私に電話してくるのがこんなにも遅かったの?」


「え?」


 そのビー玉に亀裂が入った。


「悪魔憑きであるかどうか分かるのは私以外には柚葉さんだけ。そしてあなたは自分が悪魔憑きであると知っている。だから本当に悪魔を祓ってほしいと思うなら、すぐにでも電話を掛けてくると思った。でもあなたが掛けてきたのは、私達が去ってから四時間近くもあとだった。


 思えば柚葉さんはあまり悪魔祓いに乗り気な感じじゃなかった気がする。最初にあなたと話したとき、〝この悪夢だけを見ないようにすることはできますか〟と訊いてきたよね。妙な質問だとは思ったけど、あのときはその意味を考えることまではしなかった。


 でも、例え遅くても電話を掛けてきた今なら分かる。柚葉さんは、のね。では、祓ってほしくないというその理由はなに? 良かったら教えて欲しいな」


 俯き、ブランコチェーンから離した手を膝に置く柚葉さん。その震える両手は落ち着きなく互いの手をまさぐるように動く。やがて彼女は緩慢な所作で顔を上げた。


「お兄ちゃんとお姉ちゃんが優しいんです。私が悪魔憑きになってから、二人が私にとても優しくて、だから、だから……ずっと優しくしてほしいから、だから――」


 柚葉さんの両の瞳に涙が浮かび、それは瞬く間に頬を伝い流れ落ちていく。


「柚葉さん……」


「お母さんが死んだのが私のせいだって知ってる。だからお兄ちゃんやお姉ちゃんが私につらく当たってもしょうがないと思ってた。ただでさえ私、どんくさいし、要領も悪いし……。でも、やっぱりどこかで、そんなの嫌だって思っていて。だから今のお兄ちゃんとお姉ちゃんの優しさが嬉しくて、手放したくなくて、もう戻りたくなくて……っ」


 栓が外れたように感情が溢れ、柚葉さんの袖を濡らす。

 私はハンカチと取り出すと「使って」と彼女に渡した。


「ありがとう……ござい、ます」ハンカチで目元をおさえる柚葉さんがぎこちなく笑う。「ごめんなさい。こんなに泣いて恥ずかしい」


「ううん。いいの。抑圧するほうがよくないから」


「……でも、そんなの違うって気づきました。例え戻りたくなくても悪魔をそのままにしていいはずがないって。今日、莉愛さん達がいなくなってから、本当に怖い思いをしたから。このままじゃ大変なことになるかもしれないって」


 大変なこと。

 悪魔はウィルスと同じ。宿主である柚葉さんへの攻撃を続けて心身ともに弱らせ、最後には完全に乗っ取ってしまう。乗っ取られたまま時間が過ぎるとどうなるか。それは魂の破壊であり、死そのものである。


 柚葉さんがそこまで考えているか分からないけれど、深刻に捉えてくれているようだ。


「絶対、大変なことにならないようにするから安心して。私を信じてほしい」


 私は柚葉さんの両手に右手を重ねる。


「はい。信じています。あ、それで文字の変わった痣なんですけど、なんて書いてあるか分かりますか?」


 柚葉さんがパジャマのボタンを外しに掛かる。

 そういえば、痣でできたラテン語の文言が変わったと言っていた。今度は何と書かれているのだろうか。


 柚葉さんが立ち上がると私の前にきて、お腹を見せた。

 私は目を凝らす。

 ぞわりと全身に悪寒が走った。



 Tu in via es Tu sordida serunt

 (お前は邪魔だ。薄汚い雌豚め)



 顔を上げる。

 柚葉さんの口角が歪に吊り上がり、彼女とは似ても似つかない重くざらついた男性の声がその口から吐き出された。


『やぁ、アルヴェェン、莉愛。来ると思っていたよ』


 視界が激しくぶれる。

 体がブランコから離れ、引っ張られるように後ろに吹き飛ぶ。

 地面を何度か転がったあと、何かがクッションになり私の動きは止まった。


 「う、うぅ」


 公園の周囲にある低木だ。壁や縁石でないのが幸いした。

 大丈夫。多少の痛みはあるけれど問題ない。

 

 今のは明らかに念動力サイコキネシスによる攻撃。油断はしていないつもりだった。ただ柚葉さんと話をするにつれ、警戒心が薄れていたのかもしれない。だからなのだろう、私は痣を見る瞬間まで気づけなかった。

 

 ずっと潜んでいたのだ。柚葉さんの自我の裏側の更に遠くで。双眼鏡で覗くかのようにして機を狙っていたのだ。


『お母さんが死んだのはわたしのせい。お兄ちゃんとお姉ちゃんに嫌われているのもわたしのせい。お父さんを困らせているのもわたしのせい。庭師のじじいと家政婦のばばあに気を遣わせているのもわたしのせい。わたしが悪魔に憑りつかれているのもわたしのせい。ぜぇんぶこの娘のせいだ。そう思わないか? アルヴェェン』


 柚葉さんがブランコを漕いでいる。

 対話のときには垣間見ることもできなかった、醜悪な顔そのもので。

 充血とは違う灼熱の黒目が、線形動物のように蠢く宿魔眼しゅくまがんが私を捉えて離さない。


 私は立ち上がる素振りを見せながら、右手でウエストポーチのチャックを開けた。


「だからお前に憑りつかれたまま死んでもいいと? そんなことはさせない」


『そんなことはさせない? おまえが祓うのか? この娘が望んでいないのにか?』

 

 ぴたっとブランコが止まり、柚葉さんが首を傾げる。

 その様はあまりにも滑稽で肌が泡立つほどだ。


「柚葉さんは望んでいる。それはお前も聞いたはず」


『違う。おれはこの娘の中にいるから分かる。春夏冬柚葉の本心は、ずっとこのままおれに身を委ねたい、だ。快感なんだろ。おれに優しく精神を撫でまわされ愛撫されるのが。分かるんだよ、おれは。この娘はおれに犯されたくてしょうがないんだ』


 柚葉さんの左手が乳房を揉みしだき、右手が下腹部に伸びる。

 不快極まりない。反吐がでる。

 

「嘘は悪魔の得意分野。お前の言うことなど誰が信じると? もう一度言う。私に祓われたくないのであれば、今すぐ彼女の体から消え去りなさいっ」


『ほかの悪魔は知らんが、おれは嘘は言わない』柚葉さんが再度ブランコを漕ぎ、人間離れした跳躍で私の目の前に着地する。『イエス・キリストに誓ってな、くく』


 私はフタを開けていた瓶の中身を柚葉さんにぶちまける。

 次の瞬間、横に飛び、すんでのところで、伸ばされた右手を回避する。


『ぐ、おぉぉ、女ぁ、おれに汚ぇ水をかけやがってぇっ』


 顔をおさえ、もだえ苦しむ柚葉さん。


 掛けたのは汚ぇ水ではなく聖水。

 司教により祝福され、穢れを祓う聖なる水だ。

 エクソシストにとっては、十字架と並ぶ悪魔と対峙したときのポビュラーな武器であり、その効果はどこで誰に祝福されたかによって変わってくる。


 その点で言えば、私の所有する聖水はとても品質がいい。

 バチカンの部局の一つ、悪魔祓いに於ける全てを管轄する〈聖撃の使徒の会〉の会長、ドナーティス大司教が祝福した最高級品なのだから。


『ちがう、この汚ねぇ水は、今までのとはちがう! お前はなんだ? アルヴェェェェンッ!』


 柚葉さんの顔で、殺意と敵意をむき出しにする悪魔。


 そう、こいつは紛うことなき悪魔だ。

 宿魔眼、念動力、超人的な跳躍力、聖水への拒否反応――。これだけ条件が揃っていればもはや疑う余地もない。第六感でほぼ分かっていたことだけど、今をもって確定した。


 その悪魔の左手が横に伸ばされる。何かを引き寄せるような動き。見ると、ブランコの一つが自ら鎖を引きちぎるかのようにして、あるべき場所から離れた。


 鎖を握る悪魔がブランコを振り回そうとする。

 悪魔の念動力には耐えられても、物理的な攻撃は無理だ。そっちの攻撃は烏丸さんにしてと言っても悪魔が首肯するわけもないし、そもそもこの場に彼はいない。


 ――避けるしかない。

 ただ、このチャンスを逃す気もない。

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