ラテン語
◇
「――靄の化け物」
悪魔はその姿を定義しない。あらゆる姿でもって現世に現れる。階級の高い悪魔などは、その造形がイラストや絵として一般に認知されてたりするけれど、あれも〝あらゆる姿の一つ〟にすぎない。
そう、姿に関しては。
「その靄の化け物に憑りつかれたあと、私は明らかにおかしくなったようです。客観的な言いかたなのは私自身は覚えていなくて、家族、それに根津さんや内藤さんが知っているからです」
「おかしくなったとは?」
「主に奇行ですね。最初は、そこの壁の前に立って何かぶつぶつと呟いていたそうです。お姉ちゃんに頬を叩かれて、ようやく我を取り戻したんですけど、とても怖い顔をしていたそうです。部屋のドアに頭を打ち付けていたこともありました。幸いにもドアが開いて頭が割れなくてすみましたけど、石頭で良かったです」
ふふ、と笑う柚葉さんは先を続ける。
「あとは、目が覚めたらとんでもないところにいたこともありました。ベッドの下なんて序の口で、バルコニーやクローゼット、キッチンの狭い戸棚、それに庭園でバラに囲まれていたときもありました。あ、これはあまり言いたくないんですけど、裸で外に出ようとしたこともありました。内藤さんが気づいてくれなければ、町まで下りていたかもしれません」
どれもこれも悪魔憑きの症状かと問われればそうだと答えられる。今まで私が事実として知り得た症状の
「あとは、夢」
「夢?」
「はい。とても怖い夢。ここではないどこかで私は木に縛り付けられて、周りには多くの人間。逃げたくても逃げられなくて、そのうち松明を持った人間がやってきて、私の足元に火を付けるんです。その火が徐々に近づいてきて、私を燃やし始めて、熱くて、熱くて、本当に熱くて……ッ」
柚葉さんが両手で顔をおさえる。震える指の間から見える彼女の表情は恐怖に引き攣っていて、まるで実際にその体験をしたかのようだ。
「柚葉さん、大丈夫?」
「ごめんなさい。取り乱しちゃって」柚葉さんはぎこちなく笑う。「ほかにも夢はあるんです。でもそのほとんどが私――正確には、誰かの意識に乗り移ったような状態で囚われている身で、最終的には……。また今日も見るのかなって思うととても怖いです」
さきほどの症状と夢のせいでしっかり睡眠をとれていないのだろう。どこかやつれた印象を抱いていたけれど、原因はそこにあったようだ。
「大丈夫。大丈夫よ、柚葉さん」
私は柚葉さんの手を握る。
今はそれしかできない、もどかしさ。一刻も早くはっきりとさせないといけない。いつもの流れであれば、おそらく烏丸さんが柚葉さんの家族に聞いてくれているだろう。
「そんな悪夢を見るようになったのも、あの靄の化け物に憑りつかれたあとなんです。……あの、莉愛さん」
「はい」
ためらいがちに開口する柚葉さん。
「この悪夢だけを見ないようにすることはできますか?」
妙な質問だと思った。
「仮にその悪夢が悪魔のせいだとするならば、悪魔祓いをしないと不可能よ。でもなんで夢だけを?」
「それは……」
私の視界から逃れるように、自らの足に視線を落とす柚葉さん。気まずい沈黙だと自覚しているのか、瞬きが多い。柚葉さんは胸の内に何か隠している。それが何かは分からないけれど。
私は椅子から立ち上がる。
「柚葉さん、話してくれてありがとう。私は一旦、下に戻るね」
「まだ信じてはいないんですね」
「え?」
「さっき、莉愛さんは〝仮に〟って言いました。それって、私が本当に悪魔に憑りつかれているのか疑ってるってことですよね」
「それは……」
私が最適な説明を脳内で組み立てていると、柚葉さんがおもむろにパジャマのボタンを外しにかかる。何事かと戸惑っていると、「これなら信じてもらえますか?」と彼女はお腹をこちらに見せた。
私は息を飲む。
柚葉さんのお腹には、まるで焼きごてを当てたかのように惨たらしい赤黒い痣が浮き出ていた。それはラテン語でこう読むことができた。
意味は、〝お前は俺のもの〟
◇
階段を降りると、烏丸さんが待っていた。
輝彦さんと和奏さんはいない。どこか別の部屋にいるのだろうか。
「おう、莉愛。で、どうだった?」
「ええ。症状と悪魔に憑りつかれた日の詳細を教えてもらうことができました。症状ですが、睡眠障害と精神疾患で説明できてしまいますね」
無意識に歩き回って奇行に走るのは、睡眠障害の一種である夢遊病の症状に当てはまる。ドアに頭をぶつけたり裸になって外に出ようとする事例も過去にないわけではない。つまり、症状に関しては夢遊病だけで事足りてしまう。
その夢遊病は、発症の原因として精神的なストレスがある。悪夢も同様に。
一方、精神疾患で説明できるものは、そもそもの発端である〝悪魔の目撃から憑りつかれるまでの一部始終〟である。つまり幻覚と妄想。それらは統合失調症の陽性症状でもあった。
これらを烏丸さんに伝えると彼は、それだがな――とリビングのほうに目を向けた。
「輝彦さんに確認したんだが、病気ではないと否定された。どうやらネットで調べて、まずは病気を疑えという知識は持っていたようだ」
それは当然だ。最初から、悪魔などという超自然的存在の所為にする人などいない。
「医者には見せたのね」
「ああ。その結果、症状を全てひっくるめてしまうと、病気とは考えづらいと結論づけられた。夢遊病で統合失調症の症状はでないし、統合失調症で夢遊病の症状はでないってわけだ」
病気とは考えづらい。
それでも悪魔憑きという突拍子もない話よりかは、よほど現実味があるのは確かだ。事実、悪魔憑きと疑われる事例の九七パーセントは精神疾患で片づけられていた。あるいは片づけざるを得なかった。
私達が生きる世界はフィクションじゃない。徹底的に現代医学を駆使して調べ上げ、それでも解決しなかったら悪魔祓い、などということにはならない。分からないから悪魔のせいだと匙を投げる医者など、医者とはいえない。
「それでもどちらかの疾患だと判断されたのでしょう?」
「とりあえず、夢遊病ってことで治療をしていくことになったらしい。主に子供に見られる現象で、家族にも目撃されて確度が高いからな。ただ、その家族は納得していない。だからこそ悪魔憑きと判断したわけだが、その根拠はなんだと聞いたらなんと答えたと思うよ?」
「
「あ? なんだって?」
「柚葉さんのお腹にラテン語に酷似した痣があったのですが、そう読めたんです。それが根拠なのでしょう」
〝悪魔はラテン語を嫌っている。〟
これはあらゆるエクソシストに周知されている事実だ。よってエクソシストは悪魔祓いの祈祷の際、母国語にラテン語を織り交ぜて行う。そちらのほうが効果的だからだ。
なぜ悪魔がラテン語を嫌うか?
それは、ラテン語が敵対するカトリック教会の公用語であるからにほかならない。ラテン語を悪魔が敢えて用いたのなら、それは敵対者に対する警告、あるいは宣戦布告と捉えることもできる。悪魔は事実、過去に何度もそのようなことを行ってきた。
柚葉さんに悪魔が本当に憑りついているのならば、その悪魔はいずれ、私のようなキリストの
烏丸さんが目を見張る。
「本当にあったのかっ。ああ、その通りだ。悪霊じゃねぇ、悪魔だからこそのラテン語。だからその痣が根拠だってな」
「あの痣は医者には見せたのでしょうか?」
「いや、見せてないそうだ。虐待を疑われる可能性もあるってことでな。そこは柚葉さんも同じ考えらしい」
「それが賢明な判断でしょうね」
どうして輝彦さんに和奏さんが、彼らにとっても荒唐無稽な存在であるはずの悪魔を受け入れているのか合点がいった。あのような残忍な仕打ちを誰もしていないと知っているからだ。
ただ、おそらく彼らはもう一つの可能性に気づいていない。
悪魔憑きであるという先入観の後ろに完全に隠れてしまったのだろう。いや、無意識的に考えることを放棄したのかもしれない。
「それで痣の写真は撮ったのか?」
「いえ、まだ」
「そうか。頃合いを見計らって写真を撮っておけ。バチカンを納得させる材料の一つにはなる」
「おや、柚葉との話は終わったのですか?」
輝彦さんがリビングから出てくる。虐待という言葉を聞いた直後ということもあり、若干の色眼鏡で見てしまう。でもやはりこの物腰の柔らかい主は、虐待とは無縁のように思えた。
「ええ。柚葉さんのラテン語のような痣も見せてもらいました」
「見たのですね。では柚葉が悪魔憑きであると認めた上で、祓ってもらえるということで宜しいですか」
私は首を振る。
「いえ。残念ながらあの痣だけでは、悪魔憑きと認めるには不十分です。悪魔憑きと断定するには、主に四つの症状を確認する必要があります」
「四つの症状、ですか。それは一体どのようなものなのですか?」
一)人間の能力をはるかに超えた力を発揮する。
二)本人が持っている本来の声とまったく違った声で話す。
三)遠い場所で起きていることや、本人には知り得ない事実を知っている。
四)聖なるシンボルに対して冒瀆的な怒りや嫌悪を感じる。
これが四つの症状であり、このチェック内容は中世の時代から大枠で変わっていない。
特に重要なのは、一)の〝人間の能力をはるかに超えた力を発揮する〟だろう。
悪魔に憑依された人間は平坦な壁をよじ登る。それは常識の外であるからこそ可能な悪魔の児戯。だからこちらも常識を捨てなければならないときがある。悪魔憑きとの疑いがあれば病気の可能性を排除する柔軟さが必要なのだ。
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