悪魔


 柚葉さんが、さきほど和奏さんが座っていた椅子に私を促す。私が着座すると、彼女もベッドに腰を下ろした。

 

 ベッドの後ろの棚にケージが見える。中にいるのはチンチラのようだ。私の視線に気づいたのか、柚葉さんはそれがシルバーパイドという種であり名前はメルメル、愛するペットだと教えてくれた。


「莉愛さんってその、ハーフですか。苗字がアルヴェーンだし顔も少し外国っぽいから。ごめんなさい、こういうの訊くのって失礼ですよね」


「全然。私の場合は、父が日本人で母がスウェーデン人のハーフなの。父には悪いけど母の血が色濃く出ちゃってるみたい」


「そうなんですか。でもいいなぁ。ハーフって。私もハーフだったら、莉愛さんのように美人でスタイルもよくなれたのかな」


 私の容姿と体型についてはさておき、表面的なメリットとして確かにそういった面もある。ただ同時に深刻なデメリットもあるのだけど、今ここで柚葉さんに告げる必要もない。どう話を繋げようかと迷っていると、彼女から話題を変えてくれた。


「そういえば莉愛さんって教会の司祭様とかなんですか? エクソシストってそういったイメージがあるから思ったんですけど」


「ううん。私はカトリックの信徒だけど司祭じゃないよ。司祭というのは――……」


 役職名であり、カトリック教会では呼称として〝神父〟が使われる。

 神父は男性しかなれない。そしてカトリック教会の悪魔祓いエクソシズムは叙階の秘跡により、その神父に与えられた権能である。よって神父でもない女性にエクソシズムを行うことは本来、許されていない。


 というところまでを説明した。すると柚葉さんが「じゃあ、莉愛さんはシスターさんですか? 特別にエクソシストになることを許されたシスターさんとか?」と続けた。そういった映画は確かにある。だけど私は違う。


「ううん。シスターでもないの。シスターとは修道誓願を立てた修道士のことだから。私は、さっきも言ったように一介の信徒に過ぎないの。ただ、特別にエクソシストを名乗ることを許されているのは事実よ。ただ日本ではエクソシストよりも祓魔師ふつましって呼ぶのが一般的かな」


 実際に日本のカトリック教会では、悪魔祓いは祓魔と呼ばれ、悪魔祓い師は祓魔師と呼ばれている。とはいえ、日本のカトリックの神父が祓魔をしたことは今まで一度もない。


 理由は土壌や文化の違いに尽きる。キリスト教が国家的な宗教になっていない日本では、悪魔憑きの背後にある神と悪魔という二項対立の概念が一般的ではないのだ。でも私は知っている。悪魔は場所など選ばない。奴らは人間がいる限りどこにだって現れる。


「やっぱり特別なんですね。でもなんかカッコいいですね。そういった、正規ではないけれど例外的に認められている立場。……ちゃんと私の中にいる悪魔も祓ってくれそう、です」


 柚葉さんの、感情を置いてきたような態度に妙な違和感を覚えた。

 本当に悪魔を祓ってくれるのかという、私への疑念ならまだ分かる。でも今のはそれとは違うものを感じた。なんだろうか。


「柚葉さんが悪魔に憑りつかれたのはいつ? 分かるなら教えて欲しい」


 「それは、先月の六日の夜だったと思う」


 若干の逡巡を見せたあと、彼女は答えた。


「ほぼ、一カ月前ね」


「はい。あ、こんなにもはっきりと覚えているのは、その日、お父さんが購入した家具が大量に家に納品された日だったからです。わざわざ、イタリアから輸入した家具なんですけど、本当にたくさんで――……」



 ※

 

 

 薔薇の花にバラゾウムシが付いている。

 庭師の根津が言っていた。この虫は新芽やつぼみなどの若くて柔らかいところを狙って産卵する。産卵しなくても薔薇のいたるところを傷つけることもある。傷つけられた新芽は枯れてしまい、新芽が伸びることも蕾が開くこともなくなってしまうと。


 根津が定期的に殺虫剤を撒いているが、中には殺虫剤の恩恵を受けれていない薔薇もあるようだ。


 こういうときは確か――と柚葉は薔薇の下にハンカチを広げると、薔薇の枝をたたいて揺らした。ハンカチの上にぽとぽとと落ちてくるバラゾウムシ。柚葉はバラゾウムシをハンカチで包み込むようにすると立ち上がった。


「ちょっと柚葉、何、さぼってるの? あんたも手伝いなさいよっ」


 突と、背中にぶつけられる怒声。

 振り返れば姉の和奏が立腹顔を浮かべて立っていた。


「ご、ごめんなさい。このバラゾウムシを庭の外に逃がしたらすぐに戻るね」


「はあ? そんなのいいから早く来てよ。やらなきゃいけないことたくさんあるんだから」


「でも……」


「早く来てっ」


「……分かった」


 柚葉はその場でハンカチを広げると、バラゾウムシを地面に落とした。すぐに薔薇に付いてしまうが、しょうがない。またあとで戻ってこようと決めた。


 父がイタリアから輸入した家具は思いのほか、たくさんあった。

 キッチンボード、ダイニングテーブル、ダイニングチェア、ソファ、ベッド、安楽椅子、絨毯、カーテン、その他インテリアなど。ほとんどの家具が元々揃っているものだ。それなのになぜ買い替えるのかと父に聞いたところ、父はこう答えた。


 イタリアの歴史ある邸宅が売りに出された。邸宅とは別に家具も売却するとの話を聞いて、購入することを決めた。この洋館に相応しい本場の、それも価値のある家具を置きたい。


 父なりのこだわりなのだろう。お金も相当使うこともあり、柚葉には理解のできない感覚だったが、反対することもなく受け入れた。ただ、付随するデメリットまで考えが及ばなかった。とにかく掃除が大変で、柚葉はその掃除が苦手だった。


「柚葉。そのソファ、ちゃんと拭いたのか。まだ汚れているぞ」


 床を掃除していると、兄の琉翔りゅうと睥睨へいげいするように見下ろしている。


「あ、ごめんなさい。すぐに拭くね」


 柚葉はソファへ行くと、手に持っていた雑巾をソファに近づける。その腕を琉翔がつかんだ。


「さきまで床を拭いていた雑巾を使う奴があるか。汚いだろ。もう少し考えろ」


「ご、ごめんなさい。別ので拭きます」


 ふん、と柚葉の手を離す琉翔。琉翔が遠ざかりながら「使えない奴だな」と呟いたのを柚葉はちゃんと聞いていた。


 自分が兄姉である琉翔と和奏に疎まれていることは、物心が付いたときから知っている。そんなに露骨ではなくても、険のある言葉はことあるごとに飛んできた。その一言一言はちくりとした痛みに過ぎないが、確実に傷口を大きなものにしていった。


 柚葉、ここは掃除したの? あんたの担当箇所でしょっ。

 柚葉、キッチンボードに入れる皿の場所が違うぞ。

 柚葉、また休んでるの。さっきも休んでたくせに。

 柚葉、何度同じことを言わせるんだ。だからそれはそこじゃないっ。

 

 柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉、柚葉――っ。


 掃除が終わり、気まずい思いのまま夕食を食べ、今は電気も付けずにベッドに横になっていた。


 今日はとにかく二人に怒られた。いつもは父が柚葉をかばってくれるが、今日はあまりの柚葉の体たらくさに呆れていた。家政婦の内藤だけが柚葉に優しくて、それがどれだけ柚葉の心を支えてくれただろうか。内藤はもう帰っているだろうから、明日ちゃんと感謝を伝えようと思った。


 そういえば、部屋の印象が変わったことを思い出す。でも今はそんなことはどうでもよくて、ただただ一人でゆっくりしていたかった。シャワーもあとでいい。


 ぼんやりと天井を眺めていると、ギィ……と音がする。ドアが開いたようだ。ノックもせずに開けるのは和奏だけ。掃除についての説教でもしにきたのだろうか。気が滅入る柚葉。だが待てども和奏が部屋に入ってくることはなかった。


「お姉ちゃん?」


 返事はない。怪訝に思いつつベッドから立ち上がり、ドアの元へ。電気の付いている廊下にも誰もいなかった。ドアを閉めると再びベッドへ戻る。

 

 すると、ギィ……とまたドアが開く音がした。振り向く柚葉。さきと同じように誰もいない。柚葉のポンコツぶりに未だ憤りを覚えている和奏の嫌がらせだろうか。ドアを開いてすぐに階段の方に行けば、柚葉の部屋からは見えない。そこに隠れているのだろうか。


 いや、和奏はそんな陰湿なことはしない。彼女なら部屋に入ってきて、面と向かって言葉で伝えるはずだ。かなり古い建物ということもあり、ドアの建付けが悪くなったのかもしれない。おそらくそうなのだろうと納得させてドアを閉める。ベッドに戻ろうと振り向く。柚葉は思わず息を飲んだ。


 奥のボウウインドウのスペースの中央に、黒いもやのような何かが立っている。電気が消えているだけなら、その場所もほかと同様に薄闇のはず。なのに明らかに濃淡に差があった。よく見れば、黒い靄の床に近い部分は二本の足のように見える。


 窓から誰かが入ってきたのだろうか。そんな物音は一切しなかったのに。恐ろしさで体が竦むその寸前。反射的に部屋の電気のスイッチに手を伸ばす柚葉。部屋が明るくなる。誰もいない。


 ホッと胸をなでおろす柚葉。なのに電気を再び消したのは、〝別の何かの可能性〟を完全に払しょくしたかったからだ。

 ――良かった。さきほどまであった黒い靄は見当たらない。おそらく疲労からくる目の錯覚だったのだろう。湯に浸かって体を休めたほうがいいかもしれない。


 柚葉は再び、電気を付ける。

 すぐ目の前に人がいた。男とも女ともつかない黒い靄に覆われた人。やたらと背の高いその黒い靄人間が、首を曲げるようにして柚葉を見下ろしている。本来、目のある部分に厚みのある黒い靄が渦巻いていた。


『やあ、ゆずは』


 くぐもった、それでいて脳に直接干渉するような不快感極まりない声。これは人ではない。人を模した何か。それが現実として眼前に存在する。その認識がようやく追いついてきたとき、かつてない恐怖が柚葉の体を侵食した。


「ひっ、ひっ……」


『ひっ、ひっ?』


 首を傾げるような靄の化け物。

 その滑稽さが、全身に更なる怖気を走らせる。


「柚葉、そこにいる? ちょっと話があるんだけど」


 ドアの向こうから聞こえる和奏の声。その瞬間、金縛りのような状態から解放され、柚葉はドアノブを思い切りひねった。


「お姉ちゃんっ、助けて、お姉ちゃんっ、お姉ちゃんッ!!」


 ドアが開かない。なぜという疑問を抱く柚葉の体が宙に浮き、反対側の壁に叩きつけられた。


「柚葉っ!? どうしたのっ? ねえ、ドア開かないんだけどっ」


背中を強か打ち、呼吸ができない。そんな柚葉の目の前には依然として靄の化け物。この靄の化け物が自分を投げたのだろうか。靄の化け物の顔が鼻先まで近づく。


『お前は、選ばれた。この選択は避けられない。人間の中が心地いいのは知っている。さて、お前を味わうとしよう。逃れられない死の直前までな』


 靄の化け物が柚葉の口、鼻、耳の中に入ってくる。表現することのできない体内の異常、異変、異質。一切、抗うことのできない地獄の責め苦が終わったとき、靄の化け物は消えた。柚葉は自分の中で何者かが蠢くのを感じた。

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