第2話 佐久、よむ
今、佐久を取り巻いている環境には、鉄のレールの歪みに倣った金属音だけが残っていた、レールの歪みに合わせて鉄の塊が人を乗せて刻むリズムだけがあった。そして彼は落ち着かないでいた、終電に揺られながら、地球の影に冷やされた空気に囲まれながら、疲労した身体を休息につけることに意識を集中させることができないでいた。
それは、一枚の封筒を鞄に秘めていたからであった。それはごく普通の封筒で、四つの鋭利な角を持っており、宛名が書かれておらず、さらにどんな景色にも溶け込んでしまいそうな、そんな薄茶色をして誰かの手に渡ることを待っていた。
その封筒は、部室の近くに小さくぽつんと飾ってある下駄箱にそっと存在していた。バスケットボールに空いた二三の薄い穴から空気塊がよっと漏れるみたいに、佐久の通う高校の敷地からも一つまた一つと人塊が漏れてゆく、そういう時間帯の下駄箱だった。佐久は封筒の口を閉じていた糊を丁寧に剥がしていった。そこには誰かを求める空気感と共に、一枚の白い用紙が畳まれてそれに入れてあったのだった。
佐久は、それを電車の中で鞄から取り出していた、そしてまずは一文読んでみようと思っていた。というのも、誰もいない最終電車には、パウダーが振られているように白い手紙と、
―――春が又一段と濃く色咲き、汗ばむ陽気を避けてしまおうと、近所の猫たちが日陰を探し歩いているような、そんな季節になりました―――
佐久はなるほど、ひょっとしたらどこか現実から遠いような空間を独り占めしている少女が、そして麦わら帽子を浅くかぶっているような少女が、これを書いているのかもしれないと思う。
―――私はこの手紙を、そういう季節に、落雷をため込んだ雲ような外壁しか眺めることのできない、そういうアパートの一室の、とある空間で書いております。私の心境をそのまま形容してしまえそうな、そんな不思議で悲しい空間です―――
すぐに自分の想像を一蹴され、だからこそ佐久は納得しながら次の一文へと時間を進めることができた。
それが数回続いていく。
―――ただ残っているものは、私の身体のみです、赤い血の流れた、白い骨の貫いている、肉で覆われた、そういう普通の身体のみです―――
佐久は右手に持った手紙を左手に持ち直す。そして自分の身体を、ゆっくりと水滴がなぞるみたいに、胸のあたりからへそのあたりまでを撫でてみた。キンと冷えた、それでいても生物的な温もりを感じることのできる人差し指は、数十秒を消費しておなかの体温をやや奪い、同時に爪で軌跡を作りながらおへそにすっぽりとはまる。
彼は、自分の心臓の営み、スースーした骨にしがみつく肉、そのみすぼらしさを外部に見せまいと尽力している一枚の皮膚を再認識した。自分も手紙の主と同じような身体を与えられているかもしれないことを確かめたのだった。
―――何かが伝われば良いのにと必死につらつら書いてみましたが、何かを伝える能力を欠如したような、寂しい文章になってしまった気がします―――
この一文を網膜に映し終えた後、口の中で6回だけ反芻する。最後に、佐久自身のことについてを求める声を手紙に読み取った。
そうして後、佐久が手紙を読むのを横で見ていたかのように、読み終えるのを待っていたみたいに、終電が最寄り駅に停まる。とても静かで、騒がしい23時13分だと佐久は思った。
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