第6話 絆
夜には薫子の顔色もよくなり、食卓は二人で囲った。
翌日の昼には父が帰ってきて、力強く抱き合った。
長い間、父の大きな背中を見て育ったが、彼もまた少しだけ小さくなった気がした。
「アイスクリーム美味しかったよ」
「そうか。頻繁には食べられないが、そのうちまた買ってこよう」
「なんで買ってきてくれたの?」
「薫子が少しでも良くなるように、それとお前が帰ってくるからな」
「それは薫子には秘密にした方がいい。体調が悪くなったらまたアイスクリームを請求される」
「全くだ」
二人で大いに笑い、数か月間の話に花を咲かせた。
テストの話にもなり、林田に宣戦布告をされた件も話題にした。
「林田か……。もしかしたら林田さんとこの息子さんかもしれんな」
「有名な人?」
「医学関連の学会で名前を耳にしたことがある」
「立派な人なんだね。けど勝手に好敵手扱いするのは勘弁してほしいよ」
「競い合う人がいるからこそ成長できるものだ。そうだ、お前の学校で八重澤さんの息子さんがいるって聞いたんだが会ったか?」
紅茶を飲む手が止まった。
落ち着かなくなり、近くに置いてある砂糖を少しだけ入れてみる。
「同じクラスだよ」
「そうだったのか。久しぶりで彼も成長していただろう。薫子にもぜひ会わせてやりたい」
「っ……薫子とはそれほど仲が良いわけじゃないのに、無理やり会わせるような真似は可哀想だ」
つい厳しい口調になってしまい、後悔した。
案の定、父は瞬きすら忘れている。
「そろそろお前は独り立ちをするべきだな」
「僕は別にっ……」
「薫子だっていずれは嫁に行く。妹離れをしなくてはいずれ泣くはめになるぞ」
父の勘違いにより、心の中でほっとしている自分がいた。
大人になりきれていない心は、いつも見えない壁と戦っている。
「……そうだね」
そう短く返すしかなかった。
夏休みに入って二日経つと、旅行へ行っていた継母の紅緒が帰ってきた。
薫子ばかり可愛がるのはもう慣れているが、労いの言葉一つすらないといてもいなくても同じようなものだ。
「坊ちゃん、手紙が届いてますよ」
重苦しい空気に耐えきれず席を立とうとしたとき、タエが手紙を持ってきた。
「ありがとう、タエ」
「やあね……まだあの子供とやりとりしているの? 何度も何度も送ってきたりして……男色の気があるんじゃない?」
虎臣はゆっくりと顔を上げ、紅緒を見つめる。
彼女の悪態はいつものことで、素知らぬ顔のまま水菓子を頬張っている。
虎臣は自室に戻り、ベッドに腰掛ける。幸一からの手紙を開けた。ほのかに油絵の香りがし、彼が目の前にいなくてもそっと寄り添っている気がした。
中身は現状報告だ。夏休み中は宿題を終えて絵をずっと描いていること。兄と一緒に買い物へ出かけたことなどが書いてある。
──湘南へ行ったんだ。お前がいなくて寂しいよ。
別荘は湘南にあり、そこで幸一と出会った。ずっとずっと一緒だった。その後は離れ離れになったが、離れていた期間が長いのに、一度知ったふたりでいることの意味は、どうしたって心の隙間を埋められない。
「僕も……寂しいよ」
虎臣はすぐに筆を取り、返事を書いた。
同じように現状報告と、素直な気持ちを記した。
──いつかまた、湘南でも会おう。
気づいたら四枚にも及ぶ枚数になっていた。書き直すのは難しい。読み直しても、綴った気持ちを消すなどできなかった。
扉の叩く音が聞こえ、虎臣は紙を机の中へしまった。
扉の前には、薫子がいる。
「どうした?」
「明日、お母様からディナーに誘われたの……」
「良かったじゃないか。どうしてそんな悲しそうな顔をするんだ?」
「だってだって……」
「二人で行ってきたらいい。僕のことは気にする必要はない」
「お母様はお兄様に対してちっとも優しくないもの」
「でも薫子には優しいだろ? 僕はのんびり家にいたいから、気にしなくていい。それにまだ帰らないよ。明後日もここにいる。予定がないなら、明後日は丸一日遊ぼうか」
「本当に? 約束よ」
「ああ、約束だ」
小指を絡め、いつもの歌を口ずさんだ。
薫子には後ろめたいが、またとない機会だ。できれば紅緒を外へ連れ出してほしかった。
翌日は夕方まで机に向かい、紅緒と薫子が外出するのを待った。
車の灯りが外へ向かい、虎臣は部屋を出る。
「今日は坊ちゃんの好きなビーフステーキを作りますからね」
「いつもありがとう。タエのご飯はとても好きだよ」
血の繋がらない息子に対する紅緒の態度は、タエは知っている。タエなりの気遣いだろう。
自室に向かうふりをして、紅緒の部屋の前で止まった。
一度も入ったことがなく、開けてはならないパンドラの箱。
扉を開けた瞬間、香水の香りが鼻についた。
顔をしかめながら中へ入り、彼女の箪笥を一段、また一段と開けていく。奇抜な洋服が大量に収められている。
隠し場所といえば、あとは化粧台だ。一番下の棚を開けたとき、見覚えのない封筒が数枚入っていた。「本田虎臣様」と書いていて、差出人の名前は「八重澤幸一」。
全身から血の気が引く。指先が氷のように冷たく、足元がふらついた。
真っ白になった頭は次第に怒りへと変わっていく。中身が開けられていたのだ。多少の意地悪は水に流そうと決めていたが、これは許されない行為である。
「どなたかいらっしゃるのですか?」
扉の隙間からタエが覗いていた。彼女は驚き、取っ手に手をかけた。
「虎臣坊ちゃま、いかがなさいましたか」
「タエ……」
虎臣が持つ数枚の手紙を見ては、固まっている。
「これは小学生、中学生のときに文通をしていた八重澤との手紙だ。高校で久しぶりに会って、返事をなぜくれなかったんだと言われたんだ。おかしいと思っていたら、母が『何度も何度も送ってきたりして』と言った。それを知っているのは、送った本人の八重澤と聞いた僕だけのはずなんだよ」
「まあ、まあ……なんてこと……」
「開けられた跡もある。彼女は勝手に読んだんだ」
「いくら奥様でもそれは許し難いことです。本日、旦那様が戻られましたら報告致しましょう」
父が帰ってくるまで、開けられた手紙を読んだ。
読むのがとても怖かった。彼が示した想いを知られ、それを知ることはつらくてたまらない。
──洞窟で交わしたあの日のこと、俺はずっと忘れない。
最後の一文を読むと、紙に皺が寄った。
もしかしたら誰かに読まれたときのことを考えて、言葉を濁したのかもしれない。
男同士の文通であり、どうしたってそういう方面に聞こえるからだ。
「タエ、紅緒さんには報告しなくていい。この件はこっそり僕から父に言う」
「大丈夫ですか? もしお辛いなら私も側におりますよ」
「ありがとう。でも大丈夫。これは僕の問題だから」
紅緒にもいずれ知られるだろう。きっと彼女は手紙を盗んだことを謝罪するより、部屋に入ったことを激怒する。
ふと、箪笥の上の写真立てが目に入った。
同じ写真は虎臣も持っている。決定的に異なるのは、虎臣の写る部分だけを切り取られていたことだ。
母には黙っていてほしいと告げた上で、破かれた手紙を見せた。
「僕も母の部屋に勝手に入ってしまった。だからこの件は母に告げないでほしい。父さんさえ判ってくれればいいから」
「ああ」
苦虫を潰したような顔で、秀道は息子の肩に手を置いた。
顔や置いた手が微かに震えていた。
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