第5話 惑

「な、なに馬鹿なことを言ってるんだよ。それより質問の答えは? なんで美術部に入らなかったんだ」

「意外と自由がないもんさ。それに画家になりたいって誰も知らない」

「もしかして……親にも言ってないのか?」

「ああ。知ってるのは本田だけだ」

「将来のことは……ちゃんと親に……」

 胸元を強く掴むと皺が寄る。寝間着は新しいせいかまだ硬く、手を放すとすぐに元通りになった。

「高校を卒業して大学へ行っていきなり画家になろうなんて思わないさ。他の仕事をしながらでもできる。親は趣味程度だと思っているからな。お前はゆっくり探せばいい。そのための高校三年間だ」

 慰められてしまった。不思議と心が軽くなる。目的もなしに家を出るのはどうなのか、と訝しむ父親が浮かんだが、今なら間違っていないと思える。

「ありがとう」

「ありがとう? 何に対して?」

「俺が家を出たがったのは、継母の紅緒さんと離れたかったのも大きいんだ。それが理由で……逃げているみたいで、後ろ髪を引かれる思いだった」

「最初はどんな理由がきっかけだったにせよ、どこの高校へ入っても本田は一生懸命やってたと思うぞ。成績は一位だし」

「ああ。これからは自分の人生とも向き合う」

「それで、俺の質問にも答えてよ」

 虎臣は小首を傾けた。

「嫁になるって話」

「またその冗談か……柏尾にもねんごろの仲だとか言っただろ」

「違うのか?」

 幸一は肩を震わせている。

「手紙を送ったっきり、返事がないから嫌われたのかと思った。数回連続で送ったのに」

「え?」

 突然、廊下で大きな物音と声が聞こえた。

「なんだ?」

「ストームだ。蛮行ってやつだ。先輩方が一年の部屋に入ってきて、さらっていく。外でどんちゃん騒ぎをするんだ」

「い、いやだ」

 蛮行と聞いただけでも身の毛がよだつ。粗暴なことは、今までの育ちから縁の遠かった虎臣にとって耐え難いものだ。

「電気を消すぞ」

 有無を言わせず、幸一は部屋の明かりをすべて消した。

 突然腕を引っ張られる。布団がかけられた。先輩の足音が徐々に近づいてくる。

 布団の隙間に月明かりが差し込んだ。幸一の髪を照らし、淡い光が顔にも当たる。顔の凹凸によってひび割れた月光は、幸一を照らした。

「きれい…………」

 ふと漏らした声を合図に、唇が迫ってくる。厚みはない、整った唇だ。感触は知っている。

 あと数ミリといったところで、扉が破壊するほど音が鳴った。

「なんだ、寝ているのか?」

「寝るには早いぞ」

「起こすか、どうする?」

 虎臣は強くまぶたを閉じた。指が絡め取られる。藁にもすがる思いで、指を絡める。汗の匂いがしても、指先は氷のようだった。

「いや、人数は揃ったんだ。早く外へ行こうぜ」

 足音が遠のいていく。まったく聞こえなくなっても、息を潜めてまだそこにいるのではないかと想像し、息をするのもやっとだ。

 唇に柔らかな感触が当たった。温かくて安心できて、穏やかな時間が流れる。

 角度を変えて何度も押された気がした。

 急に眠気が襲ってきてその後のことは覚えていない。




 初めての夏の長期休暇まで、あと一週間と迫っていた。

 廊下に張り出されたテスト結果は一位に『本田虎臣』と堂々と書かれ、近くに八重澤幸一の名前もある。

「おめでとう」

 嫌みもなくそう告げる幸一は清々しい。

「僕からしたらお前のテスト結果がおかしく見える。あれだけ絵を描いて、いつ勉強しているんだ?」

「してるさ。授業中に復習も済ませている」

「本田君」

 話に割り込んできたのは、丸眼鏡をかける男だ。同じクラスではなく、虎臣には見覚えがない。

「隣のクラス」

 幸一が耳元で囁いた。体育は合同で行われるが、彼に関する記憶が曖昧だったのは、体育の授業中は丸眼鏡をかけていないからだ。

「夏期休暇の後のテストはもお互いに頑張ろう。次こそは負けないぞ」

「はあ…………」

 彼は言いたいことだけを言い残し、自分のクラスへ戻っていった。

「林田。医者を目指しているらしい」

 林田林田……と壁に貼られた紙を目で追っていくと、すぐに名前があった。

 八重澤幸一の一つ下にある。

「ところでさ、休暇の間は家に戻るんだろ?」

「戻るよ。ちょっと憂鬱」

「紅緒さんか」

「ああ。でも薫子には会いたいよ」

 薫子の名前を出すと、幸一の眉間に薄い皺が寄る。

 彼は十二歳だった頃、薫子と対面している。たまたま会ったわけではなく、親同士が婚約相手にと引き合わせたのだ。

「すぐ帰ってきたらどうだ? 俺は二週間くらい家にいたら、寮に戻ってくる予定だ」

「僕もそうしようかな。家にいれば薫子が遊ぼうと誘ってくる。それは楽しいけど、勉強する時間が減りそうだ」

 理屈など何でも良かったのだ。紅緒が苦手というのも、理由の一つ。気づかないふりをした感情は、虎臣自身いまだによく理解しきれていない。

「たった二週間だけど、手紙出していいか?」

「その手紙のことなんだけど、本当に数回送ってくれたのか? この前はストームがあったりして聞きそびれたけど」

 ストーム、は声を潜めた。寝たふりをしてやり過ごしたため、なんとなく回りに聞かれたくなかった。

「送ったさ。間違いなく。俺の家に戻ってくることもなかったから、そっちの住所に届いていると思う」

「そうか……父に聞いてみるよ」


 夏の長期休暇に入ると、皆がそれぞれ帰路に就いた。

 虎臣は迎えの車に乗り、懐かしい路地を見ては感傷に浸る。たった数か月であるのに、家が懐かしく思えた。

「まあ、坊ちゃま。少し背が伸びましたね」

 出迎えのタエと抱き合う。彼女の頭部がいつもより下にあった。

「タエが少し小さく思えたよ」

「成長した証拠ですよ。数か月見ない間に大きくなられました」

「薫子は?」

「お嬢様は熱が出て休んでいらっしゃいます」

「なんだって?」

「ここのところ暑さが続きましたからね。昨日も体調が優れないと医者に診て頂いたのですよ。さあ、中へお入り下さい」

 使用人たちと挨拶を交わしていると、タエはお盆に二つのアイスクリームを持って渡してきた。

「旦那様からです。本日仕事でお帰りになれないとのことで、二人で食べなさいとおっしゃっていました」

 なかなか食べられない高級品だ。

「ありがとう。薫子もこれを食べたら元気になれると思う」

 滅多に食べられない代物に心が躍る。

 落とさないように気をつけながら、薫子の部屋の扉を叩いた。

「はあい」

「薫子、開けるぞ」

 開けた途端、薫子の笑顔に迎えられた。

「大人になったな。髪も伸びた」

「兄様だって髪伸びたわよ」

「体調悪いんだって? 熱はどうだ?」

「どうもこうも、すっかり良くなったのよ。大事をとって今日は寝てなさいって父様もタエもうるさくって」

 憎まれ口を叩きつつ彼女の目はアイスクリームに向いている。

「父さんからだ。ふたりで食べなさいだってさ」

「やった! 嬉しいわ」

 ふたりでアイスクリームを堪能して、もう一度薫子を布団に寝かせた。

「いつまでいられるの?」

「二週間くらいかな」

「たったそれだけ?」

「勉強があるんだ。終わりまでずっとはいられないよ」

「ならその間は一緒に遊んでくれる?」

「もちろんだ。薫子がよくなったらね」

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