第7話 文

 夏期休暇が終える二週間と少し前、虎臣は寮へ戻った。

 手紙の件を彼に告げて謝罪をした。

「ああ、それは間違いなく俺が出した手紙だ。遅くなったが無事に届いて良かったよ」

「何で彼女がこんなことをしたのか判らない」

「理由なんてないさ。嫌がらせが趣味の人もいる。あまり難しく考えないでくれ。心が病になる」

「そうだな……そうする」

「それと手紙の返事、ありがとう。来るとは思わなかった」

「そりゃあ出すよ。あの日の夏で止まってしまったし……その、」

「ずっと心残りだった?」

「……僕からすれば返事が来なくてずっと待ってたから。お前の手紙を開けたとき、油絵の匂いがしたんだ。八重澤が側にいなくても、ちゃんと居るって感じられたよ」

 幸一の顔が近づく。必然的に目を瞑った。

 廊下で暴れ馬が暴走し出したような足音がし、虎臣は彼の肩を押す。

 壊れんばかりの勢いで扉が開け放たれた。

「ああっ、ごめん!」

「柏尾、もう少し丁寧に扱えよ。お前はなんでも力任せなところがある」

 幸一はため息をつき、扉が壊れていないか確認した。

「そんな柔じゃないって。それよりさ、お前ら銀ブラしようぜ! どうせ今日は暇なんだろ?」

「銀座に行ってなにをするんだ?」

「そりゃあ決まってるだろ。女に声をかけるんだよ。な?」

 もじもじと背後で丸まっていたのは松岡だ。夏期休暇で彼も実家へ帰ったが、早めに戻ってきたらしい。

「どうする?」

「まあ……一日くらいなら」

「綺麗どころがいないと女も寄ってこないからな。準備ができ次第行くぞ」

 そう言いつつ、柏尾は虎臣を見やる。

「なんだよ綺麗どころって」

「聞いたぞ。中学の頃、女たちから大量に恋文をもらってたんだろ」

「大量は言いすぎた。それに僕は誰とも付き合っていない」

 ついむきになってしまった。隣にいる幸一からの視線が熱い。

「お前みたいな面構えで女に興味がないとか、ほしい人に与えられんもんだな」

「柏尾には野球の才があるだろ。人それぞれだ」

 肩を並べて歩くと、彼の身長に驚かされる。

 十二歳の頃は身長差などほぼなかった。なのに今は彼の肩が上にある。

 もう少し上を向くと、唇がよく動いていた。彼は冗談もよく言うし、クラスの人気者だ。おまけに人をまとめる才もある。

 虎臣は人の陰に隠れているタイプで、あまり目立つのを好まない。対照的だからこそ、気が合うのかもしれない。

「いつか遊廓に行ってみたいよなあ」

「お金を稼げるようになったら行ってみたらいいさ」

「俺みたいな気の弱い人でも、遊廓の人は遊んでくれるのかなあ……」

 松岡は大きな身体を小さくさせた。

「金払いがよければそんなの関係ないだろ。むしろ酒飲んでわめき散らす男より、おとなしく居座ってる男の方が扱いやすいもんだ」

「そうなの?」

「うちの家族を見れば判る。女はしたたかで強い」

「柏尾の家庭環境はあえて聞かないでおこう。さあ、見えてきたぞ」

 バスから降りれば、もう銀座だ。空高くそびえるビルが並び、車や路面電車が通る。

「うおおおお、あれが噂のモダンガールだぜ。色っぺえ」

「声かけてこいよ。ここからは別行動だ」

「は?」

 唖然とする柏尾を尻目に、幸一は虎臣の腕を掴んだ。

「俺たちは買い物があるんだよ」

「お前らがいないと声かけても成功しないだろ」

「人は顔じゃない、性格と誠実さだ」

「自分が顔が良いみたいな言い方しやがって!」

「じゃあ三時間後にまたここで」

 幸一に手を引かれるまま百貨店の中へ入った。

「こういうところに来た経験はあるか?」

「あるよ。妹の薫子の付き合いとかで。それより買い物ってなんだよ。何か買いたいものがあったのか?」

「柏尾組が良かったか?」

「まさか」

 虎臣は頭を振った。

「ちょうど画材が欲しかったんだよ。もう無くなりそうで」

「なんだ、そうだったのか」

「新しく買ったら、お前を描かせてくれ」

「僕でいいのか?」

「お前を描きたい」

 耳元で囁かれ、ふたりで布団を被ったときのことを思い出した。

 ストームから逃げた緊張とふたりきりの空間におかしな居心地となり、唇がつきそうなほど寄り添った。

 あの後は眠ってしまったが、幸一が何か話していた気もする。

「画材は上の階に売っている。エレベーターに乗ろう」

 幸一に腕を掴まれていると、横切る女性たちと目が合った。繋がれた腕と交互に見られ、しかめっ面をしている。

「気になる?」

 彼女たちの視線に気づいていた幸一は、おかしそうに笑う。

「お前は気にならないのか?」

「全然。お前とふたりきりになれて嬉しい」

「っ……平気でそんなことをよく言えるな」

「言えるさ、もちろん。画材はここの階だ」

 エレベーターを降りたときには、さすがに手は離されていた。

 寂しくもあり、画材に目を輝かせている彼を見ると仕方がないと諦めもつく。

 彼の邪魔にならないように隣の本屋で過ごしていると、彼はすでに画材を購入していた。

「もういいのか?」

「買うものは決まっていたからな。浮き世に興味があったのか?」

 虎臣が手に取っていたのは、主に浮き世絵がまとめられている本だ。

「いや、初めて見た。八重澤はこういう絵はあまり描かないよな」

「見せたことがないだけだ。日本画専門だが、浮き世絵の一つでもある春画には興味がある」

 春画とは性風俗の一種だ。男女や同性同士の交合などを描いたものである。

「人間の身体を描くのに、とても勉強になるんだ」

「俺には理解できないが、そういうものか」

「そろそろ行こう。まだ時間には早いから上の階へ行ってお茶でもどうだ」

「そうしようか」

 喫茶店はいくつか連なっており、そのうちの一つに目を奪われる。

 前に家族で入ったことのある店だ。薫子の希望が叶ったが、虎臣は隣の喫茶店に入りたかったのだ。長男として当たり前に譲ったが、今も心残りはある。

「珈琲が飲みたいのか?」

「湘南の八重澤の別荘で初めて飲ませてくれただろう。あれ以来飲んでいないんだ」

「そうか。本田の家は紅茶派だったな」

「外国かぶれだからね」

「いいよ、入ろう。俺も久しく飲んでいないな」

「実家に帰ったとき、飲まなかったのか?」

「身近にあれば案外飲まないものだ」

 ふたりは珈琲を二つ頼み、餡蜜も注文した。寮にいれば甘いものは食べる機会が少なくなる。

「カステラがあれば良かったな。八重澤の別荘で食べたあのカステラは特別に美味しかった」

「よく覚えているな」

「そりゃあ……忘れないよ」

 もしかして、彼は忘れていただろうか。

 不安に思考が遮られ、つい幸一を責めるような目で見てしまった。

「……お前としたことは覚えているよ。洞窟でのことも」

 女々しく責めてしまったのに、彼はなんのことはないという優しい目をしていた。

「あ、あのときもらった有平糖、美味しかった」

「帰りに買っていくか? わりとどこでもあるぞ」

「余計な私物の持ち込み禁止だろ」

「それを言うなら俺も画材は必要以上に持ち込んでいるぞ」

「お前は将来のためだろ。俺は駄目だ」

「頑なだな。そこが本田の長所でもある」

「八重澤といると、僕が小さな人間に思えるときがあるよ」

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