ep. 36 鬼と獣(1)

 猪牙および峡谷隊が、翡翠ノ國より転送陣設置の約束をとりつける事に成功。

 凪から翡翠へ使者や転送術師や技術者が送られ、正式に両国間で協定が結ばれた。

 

 その後、翡翠国内において陣守村を拓く場所が決定し、凪と翡翠両国民の協力により、開村へと漕ぎつけるに至る。


 そこまでに、実に一年近くの月日が経っていた。


「見て下さい、一師」


 間もなく二十一歳の誕生日を迎える青――シユウは、翡翠への転送陣が開通した旨を記載した法軍の広報資料を、朱鷺に差し出した。


「この任務は峡谷上士にご指名を頂いて、僕も同行したんです」


 医院の中庭に植わる桜の木の下、ハクロが付き添う隣で籐椅子に腰かける朱鷺の、額から垂れる白布が花香の風に揺れる。


「凄い…あの森と連峰の向こうへ…、行けるようになっちゃうのね……」


 今日は体調が良いようで、広報資料に見入る朱鷺の声は、弾んでいた。聞けば朱鷺も、興味本位で露流河手前の森が見渡せる崖上まで足を伸ばした事があるのだという。


「聞かせて、翡翠ノ國のこと」


 朱鷺は藤椅子の背もたれから背を起こして、前のめりになっている。滑り落ちた肩掛けをハクロが拾い上げ、再び朱鷺の肩へ掛けた。


 対面する青からは、妖鳥の仮面に映る影が、どこか神妙な面持ちに見える。


「はい、もちろんです」


 目頭に熱が灯って、青は感情が溢れそうになるのを押さえ込んだ。

 この一年、ハクロに許可を得ながら何回か面会を果たしたが、調子の良い日が徐々に減っているのは明らかだった。


「国境に、露流河という大きな川があって――」


 朱鷺に応えて、青は任務で経験した出来事、翡翠ノ國について、思い出せる事を全て語った。


 白妙の村での不思議な体験、翡翠周辺で初めて目にした妖獣や妖魔、珍しい植物や虫、昔噺や伝承、神獣人や獣人、翡翠の街や村の様子など。


 いずれの話題にも朱鷺は深く興味を示して、多くの質問を投げかけてきた。

 青も有る限りの知識と情報で全力で応える。


 どれくらいの時間が経った頃か、


「そろそろ、お休みになりませんと」

 朱鷺の顔色の変化に気がついたハクロが、青と朱鷺の間へ、静かに分け入った。


「あ…つい長居を」

 立ち上がる青を、白布の下から見上げる朱鷺の視線が、少し名残惜しそうだ。


「また、新しい土産話を集めてきますね。ぜひ楽しみにして下さい」


 未知の世界の冒険譚は、朱鷺にとって好奇心をくすぐる話題のようだと分かった。

 転送陣が開通した暁には、二国目の転送陣設置を目指してさらに西への道を開きたいと、キョウから式鳥の便りも届いている。


「ええ…楽しみにしてる……がんばって…」

 腰掛けた藤椅子から見上げる朱鷺が、ゆるりと頷いた。白布が、ひとひらの花弁と共に揺れる。


「あ…それから、これを」

 最後に、思い出した、と青は鞄から冊子を取り出し、朱鷺の前の卓子へ置いた。

 表紙に「凪之国 法軍 毒物目録」と記されている。


「自作品の第一号が登録されたんです。次回ぜひ、ご感想を聞かせて下さい」

「――えっ!」

 朱鷺は慌てて冊子を手に取る。


「そんな大事な話……こっちが先だったでしょ…!」

 弱々しいながらも、久しぶりに飛んできた師匠の叱責。

「すみません!」と青は嬉しそうに一礼した。


「次回の楽しみにとっておきます。では、お邪魔いたしました!」

 外套の裾を翻し、青は中庭を抜けて医院玄関へ続く廊下へと足早に戻って行った。


 青の足音が完全に消え去るまで見送ってから、朱鷺はおもむろに手元の冊子を捲る。


「相変わらず…せわしないんだから…」

 そう言いながらもため息に揺れる白布に見え隠れする朱鷺の唇は、笑みを形作っていた。


「登録第一号とは、めでたい。どれどれ」

 ハクロも、朱鷺の隣から冊子を覗き込む。


「薬品名、六花(むつのはな)…」

「ずいぶんと、可愛らしい命名ですな。効能は病葉(わくらば)の改良品といったところですか」


 有機物を速やかに溶解する毒物で、主に始末した遺骸の処理に使用するが、罠や、妖獣や妖虫との戦闘に用いる事もある劇薬。


 六花は「雪」の異名。腐敗と融解の速さが消えゆく雪の結晶の如く――毒性の強さを誇る自信がうかがえる名付けだ。


 そして最も特異なのは、


「対となる解毒剤と…符も組になっている…」

「薬剤符を毒物にも応用するとは…、これは発明ですな。確かにこれで使用者の過失による事故は格段に減るでしょう」


 使用者の利便性と安全性および環境に配慮した点。


 こと毒性のみを突き詰める傾向にある毒術界隈において、利便性や汎用性は軽視されがちである中、シユウのような主義を持つ存在は希少だ。


「…あの子らしい」

 しみじみと、目録を眺める朱鷺の脇で、ハクロも仮面の下で深い息を吐いた。


「これが常であれば、彼は麒麟に手が届く逸材でしたな」

「あの子では禍地特師に勝てない……と仰りたい?」


 朱鷺は冊子の紙面に視線を落としたまま静かに応えた。


「私が毒術の麒麟であれば、彼のような人間を継承者として選びたいと思うでしょう。人柄も申し分ない。ただ……」


 麒麟が「常にあらず」な現況で、次に麒麟の座につく者は、長および管理官ら満場一致により適格者と認められた上で、国に背いた麒麟を屠らなければならない。


 その際、龍の適格者本人の手による誅殺が必須条件となり、戦いを得手とする他者による代理決闘は認められていないのだ。


「禍地特師…あれは、人ならざる「何か」だ。為す術もなかった私には、他に持てる言葉がありません」


 低い声が、妖鳥の仮面の下で暗く曇る。


 藍鬼の麒麟奪還任務の旅に同行したハクロは、同時に見届け人としての責も負っていた。友の最期を文字通り見届けるしかできなかった己を今も悔い、傷として記憶に刻んでいる。


「……」

 朱鷺は頬にあたる微風を感じながら、静かにハクロの声に耳を傾けていた。


「あぁ、失礼」

 中庭にそよいだ風が桜の枝を揺らして、さらさらと音を立てる。我に返ったように、ハクロはゆるゆると首を横に振った。


「風が冷たくなってきましたな。そろそろ中へ戻りましょう」

 ハクロの手が朱鷺の肩から落ちかけた肩掛けを直す。立ち上がるために介助しようと、肉付きが薄く骨ばった朱鷺の背に、ハクロの手が添えられた。


「ハクロ特師」

「はい」

「私の見間違いでなければ」


 朱鷺の細い指が、目録の冊子を静かに閉じた。小動物に触れるような柔さで持ち上げ、胸元に抱く。


「可能性はあるかも…しれません」

「……」


 微風が揺らす白布の隙間から見えた薄く小さな唇が笑っているのを、妖鳥の目は見ていた。

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