ep.32 チョウトク(1)
蟲之区で「高位職能師の特権」に関する資料をかき集めて写した後、青は森の小屋へ来ていた。
「師匠、ただいま」
履物を手早く脱ぎ捨てて、鞄を置いて居間に上がり、任務用の外套を脱いで壁にかけ、覆面と額当てを取り外し、棚に立てかけた黒い面の前に向かう。
獅子の銀板が装着された手甲を、面の前に畳んで置いた。
森が運ぶ春風が戸口から流れてきて、黒い鬼豹の仮面を撫でていく。
青は一つ大きく息を吸って、吐き、気持ちを整えた。
「師匠。今日で二十歳を迎えました。それから…獅子の位を拝命いたしました」
いつもよりも畏まった、大人ぶった口ぶりで、格好をつけてみる。
蒔絵の獣模様が、心なしか微笑んでるように見えた。
「最近また、身長も伸びたんだ」
棚に近寄り、頭上に手をかざして、棚の何段目あたりの高さかを確認する。青の記憶にある藍鬼と、ほぼ変わらない目線になったはずだ。
「トウジュにはほぼ追いついたけど、峡谷上士にはどうしても負けるんだ。頭半分差くらいにはなったけど」
他愛もない事を語りかけながら、青は棚の資料を物色する。血液を用いた薬や術など、血判通行書の手がかりになりそうな記述を探すが、効力範囲に関する記述を見つける事はできなかった。
蟲之区の資料でも「術者の死亡により効力が失われる」との記載にとどまっていた。
「こればっかりは、実験のしようが無いしな」
青に出来る事は、事実を記録しておくくらいだ。小屋を引き継いだ時から書き溜めている控え帳に手早く書き記す。
それが終わると床に放ったままの鞄を手繰り寄せ、蟲之区で集めてきた資料の写しを文机に広げて整理を始めた。
森の小屋にしばしの間、紙が触れ合う音だけが流れる。
「ん…」
どれだけ時間が経過したか。
人里から森へ帰ったムクドリの声に混じり、青の聴覚が微かな異音をとらえた。
「何…?」
粗く文机上の紙をまとめて文箱へ突っ込んで、棚へ押し込む。鞄の側に置いた刃物差しと道具入れの革帯を掴み、手早に装着する。
小屋を出て森を見渡し、空を見上げる。日の入り間近の空が薄紅に暮れかけていた。
西の方角から流れる違和感を追って、進んだ。
「妖か」
久々に感じた、妖の気配。
だがこの一帯を縄張りにしている巨大猪とは異なる気と臭いが混在している。
「血…」
気配を追って進むうちに、人の気配と血の匂いが現れる。沢に近づくにつれ水音も大きくなるが、同時に獣臭も増した。
「!」
木々が途切れてぽっかりと森に開けた草地、青と反対側の木々の狭間から転がり出る人影。
そちらへ青が駆け寄ろうとした直後、逃げてきた人影の背後の木々が薙ぎ倒され、妖獣の巨体が出現した。
「妖獣…!」
背が灰、腹が白色、長い鍵爪を持った山犬。
南の森周辺では見かけないはずの種類だ。
「という事は」
縄張りからよそ者を排除しようとヌシが現れるはず。
青の予測は正しく、巨大山犬の横っ腹へ新たな巨影が突進した。南の森を縄張りとしている三つ目の巨大猪だ。
「きゃ!!」
二頭の巨獣の激突に巻き込まれた人影が、短い悲鳴をあげて倒れ、地に転がる。
「水神…長蛇」
駆け寄りながら、青の右手から術が発動。毒々しい濁った濃緑の水流が、二頭の獣の足元へ絡みつく。強粘着水が、妖獣らの重量のある体から動きを封じた。
「こちらへ」
生じた隙に、倒れた人物の体に手を回して抱き上げる。法軍の腕章を身に着けた、若い女だ。
「あ…ありが…」
妖獣らから十分に距離をとったところでいったん女の体を草地に横たえる。
女は疲労困憊な様子で、完全に脱力した体から辛うじて吐息のような声が絞り出された。
動きを封じられた妖獣らの元へ駆け戻り、
「…っふ」
青は腰の刃物差しから両手で針を引き抜いて握りこみ、獣に向けて放つ。
一本は猪の三つ目の中央へ、一本目は山犬の眉間に命中した。
『ギャォッ!』
『ブゴッ!』
二頭分の断末魔と共に白煙が立ち昇る。粘着質な泥水が撥ねる音をたてて、妖獣たちの体は毒水に沈んで動かなくなった。
「…よし、と」
すぐさま青は負傷者へ駆け寄る。
女は法軍の腕章を身に着けており、腕章の刻印から階級は中士と見られる。法軍の戦闘服と思われるいで立ちだが、あまり巷で目にする事のない、密着性の高い超軽装だ。一部の布地は迷彩色となっている。
「隠密任務用の戦闘服か…聞こえますか、分かりますか?」
声をかけて意識の有無を確認する。
反応はない。気を失っていた。
顔面は擦り傷や泥汚れで人相が判別できない。
全身数か所で布地や防具が破れ、覗く肌も血や泥で汚れていた。たった今、付着したものばかりではない。
「…仕方ない」
躊躇する時間は短かった。
青は怪我人の体をうつ伏せに半回転させ、両脇に手を差し入れ、抱き上げる。右腕を自分の首の後ろに回して上半身を肩に乗せて、担ぎ上げた。
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