ep.25 蟲之勉強会(2)

「や。ケガはもう平気?」

「おかげさまでもう大丈夫です」


 高いところにある端整な顔へ、青は笑みを向けた。


「良かった。本、他には?」


 天色の視線が棚の上部を示す。

 体躯の造りの差に同じ男として嫉妬を抱きつつ、


「では、その両隣の本と、右端の三冊と…あとこの上下巻もついでにお願いします」


 親切に甘える事にした。


「助かりました、ここに来るといつも脚立が必要だから」

「大月君、昔は体より本の方が大きかったよね」


 懐かしいなあと好青年の笑みを浮かべ、キョウは軽々と大判の図鑑を片手に重ねていく。


「ハハハ」

 青は乾いた笑いで応えた。


「身長の割に手と足が大きいって三葉先生にも言われたので五、六年後には追いつく予定です」

「っははは」


 青の児戯のような負け惜しみに、キョウは笑いを声にした。


「それって犬とか猫の話なんじゃないの」

「僕のささやかな希望を打ち砕かないで下さい」

「ゴメンね」


 資料室に二人分の失笑が重なる。

 お互いに、冗談なんて久しぶりに口にした。


 笑った事で頭や肩を締め付けていたような緊張感が解れた気がする。


「ここ良いかな。相談したい事があって」


 ここ、でキョウの指先が、本を積んだ青の席の向かいを指した。


「僕に…ですか?もちろんです」


 ふと辺りに目をやると、遠巻きに幾人かの士官がこちらの様子を気にしていた。十中八九、キョウを見ている。


 法軍内において、天才と名高い彼を知る者は、多い。だが外野の気配を気にもとめずキョウの視線は、机に積まれた本にあった。


「資料の顔ぶれを見ると、世界地理とか、外つ国について調べようとしてる?」

「はい」


 図星だった。


「凪の外について知りたくなって」

「俺も」


 キョウは青の向かいの席に腰を下ろし「ただ」と机に積まれた本の一冊を手に取った。


「俺あまり学校に行かなかったから、勉強のしかたが分かんなくて」


 適当に頁をめくって、文字の羅列を指で辿る。


「任務の資料とか、地図とか、覚えろと言われたら記憶術で叩き込めるけど。知りたいと思った事を、どう調べたり勉強して良いか迷ってたんだよね。大月君に会えたらいいなと思ってここに来たら、本当にいたからさ」


「僕に…」


 意外な申し出に青は目を丸くする。


 七歳からすでに下士として身を立てていたキョウにとって、学校教育を経験した年月は二年に満たなかったのだ。


「昔、大月君がおっきな図鑑を抱えて、食らいつくように文字を読んでた姿が印象に残ってる」


 頁の文字を辿っていたキョウの指が、止まる。


「この子は戦ってるんだなって思った」


 向かいの席から天色の瞳が、まっすぐに青を見据えていた。


「戦ってる…?」


 青は黒曜の目を瞬かせた。そんな事を言われたのは初めてであったが、妙に腑に落ちる表現でもある。知識の吸収に貪欲で、追い立てられるように毎日、本を読んでいた。


「さっきも、果し状でも書いてるのかなって勢いで書き物してたから、いつ声をかけようか待ってたんだよね」


 射抜くようなキョウの目が、ふっと笑みの形に細められた。張り詰めかけた空気が、緩む。


「い、いつでも声をかけて下されば良かったのに」


 無意識に止まっていた息を、再び吐き出す。青も席について本の一つを手にとった。


「俺が声をかけると、いつも驚かしちゃうでしょ」

「あ~…」


 初めて蟲之区で出逢った時、薬包作業中に至近距離からキョウに声をかけられた事を思い出す。


 あの瞬間にキョウを「きれいなお姉さん」だと思いこんだのだ。


「集中するといつも周りが見えなくなってしまって…それにしても、峡谷上士はどうして外つ国について学ぼうと?」


 苦い思い出を押しのけて、青は強引に本題を切り出す。


「凪の外での任務が増えてきたからってのが第一かな」

「国外任務…」


 法軍人が国外へ出向く任務には、いくつか種類がある。


 要人や商人の護衛。

 国抜けをした者の追跡、抹殺。

 軍事力を持たない国への戦闘能力の提供、例えば他国間の戦への部隊派遣。

 などなど。


 国内問題から外交的要件まで幅広く、共通して言える事は難易度が高く、長期任務である事が多い。


「……」

 青の胸をよぎるのは、藍鬼。


 長い任務に出る事になった。

 そう言い残し、彼は戻らなかった。


「大月君?」

「あ…すみません」


 キョウの声で我にかえる。


 誤魔化すように手元の本の表紙を開いた。本の題名は「世界地理概要」。巻頭に世界地図が折り込まれていた。


「勉強のやりかたといっても僕も、特にコツがあるわけではないのですが」


 青の勉強法は「とにかく頭に詰め込む」この一言に尽きた。取捨選択に悩む暇があれば、とにかく片っ端から本を読み、頭に入れる。その時は理解できなくてもいい。後々の経験が、頭に詰めたただの「情報」を「知識」へ熟成させてくれるのだ。


「初等学校の恩師が教えて下さったのは、一緒に話し合ったり、教え合ったりした事は、興味が広がるし、記憶に残りやすいんですよ」


 小松先生の指導方針だ。


 ひたすら詰め込む勉強以外に、学校ではトウジュとつゆりの三人で宿題や試験勉強をした思い出が色濃い。


 会話の中から新しい興味が生まれてよく脱線する事もあって、勉強法としての効率は落ちるかもしれないが、大好きな時間だった。


「へぇ、一緒に、ね」


 まだピンときていない様子のキョウとの間に、青は世界地図を広げた。


 世界地図といっても不完全で、一部の辺境や国交が皆無な国や地域は白紙状態だ。


 諜報部が作成した軍用地図であれば詳細の記載があるが、今の段階ではこの情報量で十分であろうと判断する。


「例えば…いま興味のある国名や地名って、この中から見あたりますか?」

「んー、そうだな…」


 会話のきっかけはこうだ。


 そこからお互いに地図を指しながら、話題に出た地域に関して本や資料を紐解いて深堀りし、会話の中で生じた疑問や不明点を書きとめ、さらにまた別の書籍や資料を引いてくる―それをひたすら繰り返した。

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