ep.15 選択(2)

 青が退院を許されたのは、目を覚ましてから五日後だった。

 失踪していた日数も加えると、霽月院や学校へ戻るのは十日以上ぶりとなる。


「学校に行ったら、先生やみんなにちゃんと謝らないとな」

 退院の手続きをしてくれた霽月院のおばあちゃん職員と、帰宅の途につく。霽月院までの道のりを歩く間、青はやらなければならない事を頭の中で整理していた。


 小松先生、トウジュ、つゆりに謝ること。

 霽月院の職員に謝ること。

 キョウに会えたらお礼を言うこと。

 小屋に行って藍鬼の手紙や箱の中身を持ち出すこと。ついでに掃除もすること。

 遅れた勉強や練習をどう取り戻すか計画を立てること。


 やらなければならない事が、次々と思い浮かんでくる。


「……消えてない」

 また、左腕の痕を見る。

 退院前と様子に変化は見られない。


 あれから青は、毎日こうして左腕を確認するようになった。そして毎回、消えていないことに安堵する。


 気になるあまり頻繁に観察しているうちに、その時の体調や気分によって色が変化する事が分かってきた。気持ちが高ぶれば仄かに赤くなり、気分が沈んだ時には黒茶けた色になる。まるで体の一部のように。


「着いたらおやつにしましょうね」

 おばあちゃん職員の声。

 気がつけば、霽月院は目の前だ。


「うん、ありがとう」

 そっと左腕を袖に隠して、青は前を向いた。

 その時だった。


「ボウズ」


 後ろから知った声に呼び止められた。

 振り向くと、そこには妖鳥の仮面。


「ハクロさ――」

「ひぃぇえっ!」


 傍らのおばあちゃん職員の、引きつった声。

 無理もない。


 そこに立っていたのは、任務出立時と同じ、旅装束の外套を羽織ったハクロ。外套は酷く汚れ、破け、血痕が目立っていた。


「う、う、うちの子に、ど、どのようなご用件がっ?!」

 声をひっくり返しながら、おばあちゃん職員は懸命に青を庇い立てる。


「おばちゃん、この方は薬術師さんだよ」

「あら……まあ……薬術の先生がこの子にどのようなご用件で……」


 ハクロの用件。

 青には一つしか思いつかない。


 藍鬼の手紙に書いてあった約束を、果たしに来たのだ。


「これは……失礼した」

 疲労しきったハクロの声は、弱々しく掠れていた。


 往来の視線が遠巻きに、異形を見るような視線を残して通り過ぎる。白を基調とした区画の中で、血と土で汚れた仮面の男は異質でしかなかった。


「法軍所属の薬術師、ハクロと申す。大月青君と、話をさせてもらえないだろうか」

 外套に隠れていたハクロの片手が持ち上がり、甲当が二人へ向く。


 銀盤に彫られた獅子。


 紋章を見留めて安堵したおばあちゃん職員の様子を確認して、ハクロは再び手を外套の中へ隠した。


 往来の目を逃れ、おばあちゃん職員の案内で霽月院の応接の間へ場所を移す。青の帰りを待っていた他の職員たちも、妖鳥の仮面の登場に面食らった様子だった。


 院長室と襖で仕切られた八畳ほどの、簡素だが中庭からの光を取り込んだ応接の間は、埃やチリ一つ無い清廉な空間だ。


「汚れているので玄関先で」と固辞しようとするハクロを、院長は丁重に歓迎した。

 茶などのもてなしの一切を断り、ハクロは部屋の中央へ歩みを進める。


「「箱」はもう、開けたのか」

 血や泥で汚れた外套の背中が、問う。


「は、はい」

「手紙は」

「読みました」


 青の正面に向き直るや否や、ハクロはその場に膝と手をついた。


「え」

 止める間も無かった。


「お救いすることができなかった」

 目の前には、額を床へ擦るほど低く上背を沈める男の姿。


「え……あ……」

 青は状況の把握に一息ほどの間を要してしまった。


 先に動いたのは同席した初老の好々爺である院長で、ハクロの傍らに腰を屈め「お顔を上げて下さい」と何度も声をかけるもハクロは動かず、

「子どもが驚いてしまいます」

 と言われてようやく頭を上げる。


 ああ、この人は本当に「善い人」なのだ。

 混乱する頭の片隅で、青は藍鬼の言葉を思い出す。


「あの、ハクロさん……」

 戸惑いながら青もハクロの側に正座した。


「師匠は、その、本当に」

「……」

 二拍ほどの沈黙の後、ハクロは懐から布に包まれた何かを取り出す。


 青の前に差し出した片手のひらに乗せ布を開くと、そこにあるのは擦り切れた銀盤。

 龍が彫られている。


「何とかこれだけは、持ち帰ることができた。軍に返還しなければならないので渡すことはできないが……」

 藍鬼の甲当に嵌められていた、龍の紋章だ。


「師匠の……」

 青は頭の奥で、何かがぷつりぷつりと切れていく音を聞いた。


 こうして時間の流れと大人たちは、藍鬼の死を現実のものにしてしまう。


 再び丁寧な手つきで布に包まれた紋章は、ハクロの懐へと仕舞われた。


「大月青」

「?」


 ボウズ、ではない。

 唐突に改まって名前を呼ばれ、青は顔を上げる。


「は、はい……」

 背を正したハクロに合わせ、自然と青の背筋も伸びた。


「法軍薬術師、獅子の位、ハクロ。君を正弟子に迎える用意がある」

「え……」


 正弟子。

 これは法軍において技能職位独自の特徴的な制度の一つだ。


 師以上の技能師は、甲以下の弟子を指名することができるというもの。藍鬼と青のような個人間の師弟関係と異なり、法軍へ正式な届け出をすることで、任務への帯同はじめ、師の権限の元に綿密な弟子の育成と教育を遂行することが可能となる。


「如何」


 本来、指名された弟子側に拒否権はない。それでもハクロが青の意志を確認するのは、罪悪感によるものだろうか。


 黒曜の瞳を丸く見開き動かない青を、霽月院院長は静かに見守る。様々な事情を持つ子どもたちを預かる霽月院で、数多くの「転機」を見届けてきた。


 今がその時であると、分かっていた。


「ハクロ……二師」

 膝の上に置かれていた青の手が、畳へ降りた。


「よろしくお願いします」

 膝の前に手をつき頭を下げる青の返答へ、妖鳥の仮面は静かに頷いた。



 藍鬼との訣別。


 青は頭の中で、最後の糸が切れる音を、聞いた。

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