ep.1 出会い(1)
気がついたら、母親の姿は消えていた。
星の瞬きや月明かりも届かない夜の森を、幼い少年が独り、彷徨っている。
「はっ……はっ……」
とうに方向感覚は失われていた。
草に触れる手と、土を踏む足の感触と、獣の遠吠えをとらえる聴覚だけを手がかりに、少年はただ闇に藻掻いている。
「わっ」
蹴躓いて、前方へ体が投げ出された。背丈の二倍ほどもある生い茂った草が、少年の小さい体を抱きとめる。
うつ伏せたまま息を整え、獣の唸り声が遠ざかるのを辛抱強く待った。
「もう……大丈夫、かな……」
気配が消えたかに思えて、少年は草むらから体を起こす。夜の森と同化する闇色の髪と瞳が、巣から出てきた幼獣のように辺りを見回した。
風でなびく枝々の隙間から僅かな月明かりが差して、少年と森の輪郭を浮かび上がらせる。
少年の年の頃は、四つか五つ。麻の上下、薄い浅葱色の装束の手首にサラシを巻き、首と肩を覆う襟巻きを身に着け、足首には脚絆、肩から斜めに小さな道具袋を下げている。
一見して旅装束と分かる出で立ちだ。
「母さま……?」
森へ逃げ込んでしばらくは一緒にいたはずの母親が、見当たらない。近くに気配を感じられないが、大声を出すわけにも行かなかった。
少年は立ち上がると、自らの体を撫で回して草を払い落とした。月明かりに腕や脚を照らし、怪我の有無を確認する。
左足首の脚絆が破けていて、赤黒い染みが浮かんでいた。枝で切ったばかりなのであろうか、新しく生々しい汚れが徐々に面積を広げている。
「血、止めないと……走れなくなっちゃう……」
母から教わっていた手当の方法を思い出しながら、少年は月明かりを頼りに足元を探り羽状に裂けた草を見つけてむしり取る。
小さな手で掴めた分だけの草をまな板のような平石に置くと、道具袋から小刀を取り出し、柄の底で草をすり潰す。
汁が滴るほどまですり潰した草を足首の傷に乗せ、サラシをきつく巻き直して脚絆を被せた。
「母さまどこだろう」
手当を終えた少年は、改めて夜の森を見渡す。
いつの間にか風が止み、再び厚い枝葉が月明かりを遮ってしまった。
静かだ。
獣の遠吠えどころか鳥や虫、小動物が枝葉や草花を揺らす音もしない。
森の息吹が消えていた。
聞こえるのは自らの心音と呼吸だけ。
静かすぎる。
「な、に……?」
少年は小刀を鞘から抜いて立ち上がる。
強烈な違和感が背筋を走った。
それはそこにいた――あった。
視界を塞ぐ灰色の小丘。足音も気配も息遣いもなく、まるで最初からそこに「あった」かのように。
森の深い暗闇で何故かそれは、鮮明に映る。
小丘はもじゃもじゃの灰色の毛に覆われていて、見上げれば二本の長く鋭利な牙が目に入った。
少年の浅い知識を元に表現すれば、巨大な猪。
それが、森の獣と性質が異なる存在である事は明白だった。
「よ、妖獣……!」
縄張りに踏み入ってしまった。
理解するより早く本能的な恐怖が少年の体を突き動かした。
一歩、二歩と後ずさりする。
灰色猪の丸太のような鼻先が揺れたかと思うと、横に薙いだ。
「うわ!」
脇腹に衝撃が走り少年の体は横に飛ばされた。
左半身から土に叩きつけられて呼吸が止まりかける。右手で地を押して上半身を持ち上げ、猪を振り向く。
目を離してはいけないと思った。
灰色の小丘は悠々と少年へ向きを変えようとしていた。
二本の牙の上に赤く光る目が三つ。
「ご、ごめ……ごめんなさい!」
体の痛みよりも畏れが勝っていた。
獣のように少年は手足で土を掻いて走り出した。
『ゴォオオオオォオオオオ』
地鳴りとも突風ともしれない咆哮をあげ、三ツ目の猪は鼻と尾を振った。少年の頭上を掠めた尾が、周辺一帯の樹木をなぎ倒す。足をもつれさせ少年は再び土に転がった。
空に穴が穿たれ、月が姿を現す。
月光の紗幕が下りて、森と猪の姿が明らかになった。
尻もちをついた少年が見上げると、毛を逆立てた針鼠のごとく硬質な毛を纏った巨大猪が、紅い眼光を据えていた。
「あ……」
少年の目が猪の頭上、針の毛に引っかかっている何かをとらえる。
薄い浅葱色の布地がはためいていた。
あれは――
「おまえ母さまを!」
瞬間、怒りが恐怖を凌駕した。
少年は立ち上がりざま、がむしゃらに掴んだ石を投げつける。
石は猪の牙先に当たり乾いた音をたてた。
幼い憎悪に呼応して、三ツ目猪が再び鼻先を振るう。少年は転げそうになりながら鼻先を避けて石を拾いあげ、また投げる。石の尖先が猪の三角に並んだ三ツ目の中央に当たった。
『ブルゥオオオオオオオオ』
猪が憤怒の雄叫びを上げた。
少年は持っていた抜き身の小刀を逆手に持ち替え振りかぶり、
「母さまを喰ったのか!!」
渾身の力で振り抜く。
少年の手から放たれた小刀が三ツ目の中央に突き立った。
ブォオッ
と短い嘶きを漏らし、猪は首を激しく振る。
鼻先が鞭のようにしなり、暴れ、土を抉って木々を倒した。
くすんだ灰色であった牙が、みるみる充血したかのように紅色に染まる。
全身が怒髪天を衝いて、小刻みな震えを起こし始めていた。
妖獣を怒らせた。
少年の瞳に僅かな後悔の色が灯った時には既に遅く、
『ブゴォアァアアアアアアア』
妖獣は森一帯に轟くほどの咆吼を放った。
その声は風をおこし、衝撃波となる。
「ぃっ……!」
咄嗟に少年は顔をかばい、体を丸めた。
衝撃波が袖や背中や脇腹の衣服ごと、肌を切り裂く。
殺される。
固く瞑った瞼の裏に、母の顔が浮かんだ。
瞬間、
「エンシン・ヘキ」
人の声がした。
直後に爆音が轟いた。
うぶ毛を焦がすほどの熱。
「――え?」
顔を上げると目の前に炎の壁。
その向こうで、三ツ目猪が地団駄を踏んでいた。
「サン」
短い声と共に炎の壁が消え失せ、少年の前に人影が降り立った。
「下がっていろ」
低い男の声。
少年を庇い、妖獣と対峙する背中がそこにある。
体の横に掲げた左手に、炎をまとわせていた。
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