ep.17 初任務

 裏山で術の練習をしていた少女の名は、日野あさぎといった。年齢は九歳。

 念のためにと保健室へ連れて行ったものの、到着する頃には傷が全て完治してしまっていた。

 気になる事は山ほどあるが、下手に質問攻めにして赴任初日から女子生徒に怪しまれるのは不本意だ。昨日は好奇心を必死に抑え込んだのは言うまでもない。

「日野あさぎちゃん?ああ、双子のお兄ちゃんが有名なのよね」

 翌日の昼休み。青とつゆりの元同級生二人は中庭で弁当を食べている。保健士としてのお仕事第一号になった記念すべき生徒、という糸口で青が少女の名前を出したところ。

「双子なんだ?」

 つゆりの情報通ぶりは今も健在なようだ。

「日野家って歴代の上士や特士をたくさん輩出した名家なの。そういう意味でトウジュの家も同じね」

 ちなみにトウジュは中等課程の途中で飛び級し、青たちより一年早く下士になっている。季節の便りによると、日々任務に忙しいらしい。

「あさぎちゃんの双子のお兄ちゃんのよぎり君は有名よ。何回か飛び級していて、近々また飛び級して下士になるんじゃないかって噂」

「そのあさぎって子は?」

 あの特異な体質は周知の事実なのだろうか、という趣旨での問いであったが、

「あさぎちゃんは、普通の子よ。飛び級とかはないけど、元気で、ハキハキした子」

 つゆりの回答に青が期待した事実は無かった。

 あさぎ本人に関するそれ以上の情報はなく、つゆりの話題は他の子どもへと移っていった。


 つゆりと昼食を摂った二日目の保健士勤務の後、青は軍が提供する寮へいったん帰宅した後、蟲之区へ出向いた。

 ただし「大月青」としてではなく「シユウ」として。

 医療従事者用の制服を脱ぎ、法軍人が一般的に着用する支給の黒服に腕章だけ装着した軽装に、鼻から顔の下半分を隠す覆面―これも軍支給の一般的なもの―を着け、ついでに目許を少し隠すためにこれも軍支給の額当てつきの鉢巻を目深に結んだ。

 そして最後に、狼の甲当てを装着する。

「…暑い」

 顔を隠す若干の不快感は否めないが、仕方ない。慣れない格好故に自分が不審者になったような気恥ずかしさもあって足早に蟲之区へ駆け込んだが、着いてみれば自分と似たような事を考えている顔がちらほらと見受けられる。さりげなく手元を盗み見れば、いずれも真新しい狼の紋章が光っていた。

 青は辺りを見渡し、自分と年齢が近そうな背格好の狼を探す。

 工房へ移動してみると、端の作業台に並ぶ十代と思わしき二人組を発見した。手元を見ると、黒い布に何かを縫い付ける作業をしている。

「あの、作業中すみません」

 声をかけると二人は同時に顔を上げた。

 一人は体格と身長から女で、青と同じ格好に淡い山吹色の首巻を足している。長い黒髪を頭の低い位置で結っており、その留め紐の色も山吹色だった。目許を完全に隠しており表情は確認できない。露出した唇は薄く紅が引いてあった。

 もう一人、縫い物作業をしていたのは男で、露出した目許は切れ長で、鼻と口元は覆面で隠されている。青よりも若干、年が上のようだ。

「どうしたの」

 女の方が応えた。柔らかい声音。青を年下と判断しているようだ。

「僕、シユウと言います。まだ新米で。皆さん、顔どうやって隠しているのか聞きたくて」

「え」

 男女が顔を見合わせ、青を見て、

「あははははは」

 笑い出す。他の工房利用者がいない事をいいことに、二人はしばらく腹を笑い続けた。

「あの」

 戸惑う青。

「わ、悪い、悪い」

 ようやく息が整った男の方が手を伸ばしてきて、青の肩を叩いた。

「俺たちもちょうどその話をしてたんだ」

 男は縫い物作業中だった手元の布を持ちあげる。

「初任務の前に何とかしないとってここに来て作業してたら、こいつが声かけてきてさ」

「こいつ」で、男の指が女を示した。

「そうしてたら、君が来たってわけ」

「君」で、女の指が青を示した。

 男の務め名は庵(いおり)。武具工の狼。

 女の務め名は要(かなめ)。幻術の狼。

 年齢はお互いに暗黙の了解で濁したが、雰囲気や体格でそれとなく年上順に庵、要、青の順番で落ち着いた。

「シユウ君、毒術なの?珍しいんじゃない?」

 青が名乗ると要は同意を求めるように庵へ目配せするが、

「そうなのか?」

 庵は手元で縫い物を進めている。

「だってほら、毒は麒麟が不在だし」

 困難が目に見えている道を選ぶ人間は少ない、と要は言う。

「麒麟がいない?なんで??」

 驚いた様子で顔を上げても、庵の作業の手は止まっていない。なんで知らないのよ、と要の唇が尖る。

「時々いるわよね。自分の事しか見えてない人って」

 呆れながらも要が事情を説明すると、庵は心底から驚いたようで「知らなかった」と切れ長な瞳を丸めていた。

「大変だな。なんか困ったら相談しろよ?」

 庵の反応が、青には逆に新鮮だった。この八年間、技能資格界隈で青が耳にしてきた事の多くは、毒術師の悪評ばかりだったからだ。

「だから顔をどうやって隠すかで困ってるって言ってたじゃない」

「そうだった」と切れ長の瞳を細めて、庵は持っていた布を広げた。

「要と、幻術を仕込んだらどうかって話をしてたんだ」

「幻術を仕込む?」

 言葉の意味が理解できず青が首を傾げると、「見てな」と庵は広げた布を頭に被った。額に当たる部分の裏側に板が貼り付けてあるようで、そこだけ質感が固い様子が分かる。

「俺の顔、どう見える?」

「どうって」

 目深に被った布がつくる影が庵の目を隠しており、鼻と口を隠す覆面もあいまって、ほぼ顔全体が隠れている状態だ。それを伝えると、

「その影が幻術なんだ。俺からは視界良好なんだけどな」

「え!?」

 左右どちらから見ても、屈んで下から覗き込んでも、どうやっても庵の目は影に隠れている。庵自身も首を動かすが、影が動く事はない。

「で、外すと普通に」

 額の布に指をかけて持ち上げると、涼やかな瞳が現れた。

「要が板の部分に幻術を封じたんだ。体に触れている事で自然と気を板に伝えて幻術が発動して、影を創り出す」

「なるほど!」

「上位の技能師になると、仮面全体を幻術で作り出した状態が維持できる人もいるって聞いたんだ。少ない気でどうにかならないか考えたら、これで十分だろってな」

「すごい…大発明じゃないですか!」

「だろ?」

 目を輝かせて興奮する青の反応は、庵にとって悪い気がしないようだ。

「もっと研究してみて、使いやすく改良してこうと思ってさ」

「しょうがないから付き合ってやってるってわけ」

 庵と要のかけあいを、青は羨望の眼差しで見つめる。武具工師の発想力と、幻術師の応用力の融合を目の前で体感したのだ。

「あの、僕も参加させてもらえませんか」

 気がついたら作業台に身を乗り出していた。

「例えばですけど、その、幻術を封じた物質に呪毒を仕込んで敵に壊されにくくするとか、術の影響を受けにくくするとか、できるかもしれないです」

「毒術ってそんなこともできるの?」

「面白いね」

 それから数時間。三人の若狼が食事を摂る事も忘れて工房に籠もっている姿が、蟲之区管理官たちに目撃されたという。


 毒術師シユウに初任務の依頼が舞い込んだのは、それから三日後の事であった。


 法軍人にとって、任務は何よりも優先される。

 本職が内勤の非戦闘員であろうと、親の葬儀であろうと、妻の出産予定日であろうと、子の記念日であろうと。本人が健康かつ五体満足である限り、任務依頼を知らせる式鳥は、時間と場所を問わずやってくるのだ。

 よって青が医院での勤務中に式が来たとしても、

「すみません、三葉先生、任務の式が」

「任務?いってらっしゃい!帰還予定は式でも飛ばして知らせてね」

 任務が、の一言で抜け出す事ができるのだ。


 毒術師・シユウに割り当てられた任務内容は、妖虫討伐隊への同行。

 都の北部に位置する北溟(ほくめい)地方とよばれる地域の広大な黒ノ森にて、人里での妖虫目撃情報が増えていた。そんな中、小さな限界集落が一つ潰されたという。近隣の村が標的にされる前に、討滅隊で待ち伏せしようという策だ。

「鉢巻と覆面の用意、間に合って良かった」

 集合時間前に、青は藍鬼の小屋へ立ち寄って支度を整える。庵と要に作ってもらった幻術仕込みの鉢巻を目深に締め、軍支給の覆面で口元と鼻を覆う。

「僕は解呪要員って訳か」

 技能師は任務内容から己の役目を推測し、あらゆる事態を予測して準備をするもの。ハクロの正弟子時代に任務帯同で学んだ事だ。

 妖獣(虫)・妖魔討伐任務には必ず解呪役の同行が求められる。妖瘴を浴びる危険性が高いためだ。小規模な妖討伐任務は腐るほど発生するため、新米の薬術師や毒術師に廻ってくる任務はいくらでもあるのだ。

 集合時間は昼九ツ(正午)。夜に出現するという妖獣を待ち伏せるために、夕刻前に目的地へ到着する予定だ。

 北の大門前から出立した一隊は、青含め合計四人。青以外の面子は隊長を務める上士一名。中士二名。小規模な妖獣討伐任務における一般的な編成だ。大門前の転送陣から黒ノ森入口の陣守村まで飛び、そこからは徒歩で森の奥へ入る。

 目的地は、潰された限界集落の近隣にある村だ。そこを拠点に妖虫を待ち伏せ、もしくは打って出る。その判断は隊長が下すのだ。

 風術での高速移動と、気と体力の温存と回復のため徒歩とを交互に繰り返しながら、一隊は進む。山裾一面に拡がる鬱蒼とした森は、生い茂る木々同士が枝や蔓を絡ませあって陽や月や星の光を遮る。故に「黒」と表され、恐れられていた。

「シユウ君は、新人なんですか?」

 炎術で片手に灯して先頭を歩く隊長の上士が、青に声をかけた。中肉中背の三十前後の隊長は、相手が誰でも口調が変わらない。穏やかな佇まいが、初対面の時から印象的だった。

 大抵、任務に同行する技能職は隊列の最後尾や端につく。技能職は準備、補助、後片付け役であるとして、任務主軸の頭数に入れられない事が多いのだ。なのでこのように隊長自ら気にかけてくれる事は珍しい。

「はい、一色隊長。この春からです」

 前を歩く中士二人が肩越しに青を一瞥して、小馬鹿にしたように苦笑し合う。まだ体の線が細く、身長も伸びきっていない青が彼らから「ガキ」と見なされるのは致し方ない。軍で重視されるのは「戦える者」であり、高位の技能職は兎も角、位の低い技能職は戦力として期待されていない事がほとんどなのだ。

「毒術ってアレだろ?麒麟を取り逃がしたっていう」

「あ~、前代未聞だって聞いたぞ」

 流れてくる中士同士の戯言を、青は聞き流す。この手の陰口は慣れたものだ。

「し…」

 と、足を止めて振り返る隊長に気づき、中士二人は「私語失礼しました」と口を噤む。上官が足を止めた事により、全体が止まった。一色隊長は辺りを見回す。中士たちは頭上に疑問符を浮かべて上官の行動を見守る。青は隊長に倣い五感を研ぎ澄ます。

 静かだ。

 初めて足を踏み入れる場所ではあるが、それでも森の深さに反して生き物の音が少ない。

「急ごう」

 一言残して隊長は踵を返すや否や風を呼び、木々の枝を伝い跳んだ。慌てて青たちも続く。

 目的の村には予定より一刻以上早く到着した。

 そこで一行を待ち構えていたのは、惨状。

「な、これは…!」

 隊長が声を漏らす。

 森に切り拓かれた空間に築かれた人里、その人道のあちこちに散らばる「人だった物」の残骸。血だまりと、引きちぎられた臓腑。食い散らかされた痕跡。

「遅かったのか」

「そんなはずは」

 妖獣や妖虫は人を喰らって一度満腹になれば、しばらく人を喰らう事がない、というのが通説だ。その習性故に太古の昔は、定期的に生贄を差し出し妖を大人しくさせる慣習もあったという。

「隊長、奴は村を一つ食い散らかした後です。そんな大食漢な妖虫が存在しているのでしょうか」

「という事は、亜種でもいるのか、複数…?」

 中士と隊長らが辺りを検分している間、青も民家を一軒ずつ訪ねて回る。茅葺の質素な家屋の多くが半壊もしくは全壊させられ、遺体が食べカスのように散らばっている。村全体を包む血と脂が混ざった悪臭に、さすがの青も眩暈を起こしそうになる。

「?」

 積み上げた石垣に沿った人道をたどって進むと、村の奥の僅かな高台に社と祠が見えた。祀られているのは氏神のようだ。黒ノ森にふさわしい黒に塗られた鳥居が、社と共に破壊されずに残っている。

「ここは無事なんだ」

 鳥居の手前に立つ碑に彫られた文字は、長い年月で風化してしまっている。

「ヒト…ゴク、ウ…人身御供…慰霊…?」

 不吉な文字列に顔をしかめつつ鳥居を潜って石段を駆け上がると、人の手で土が均された境内らしき空間に出くわす。

「何だろう」

 その中央に、黄褐色の楕円形の物体があった。片手に苦無を握り、物体へ近づく。物体の大きさを例えるならば、大人の男が一人でようやく抱えられる米俵。片手に小さな炎を灯し更に近づくと、中央からひび割れている事が分かる。更に灯りを近づけると、それは糸をより集めた繭のような。

「卵嚢…!?」

 弾かれるように青は踵を返す。石段の上から村落全体が見渡せた。村落の中を探索する隊長と中士二人、その上方から三人を取り囲む無数の赤い眼、眼、眼―

「上です!」

 叫ぶと同時に青は苦無を投げ撃った。黒鋼は中士の頭上で光る赤い眼に突き刺さる。同時に白い煙が上がった。

『ギャアアアアアアア!』

 老婆の悲鳴のような音がつんざき、中士の足元に何かが落下した。

「いっ!?」

 それは犬ほどの大きさの、人面蜘蛛。青の苦無が突き刺さった老婆の顔面は、断末魔の形相。そこから、蜘蛛の体と足が生えている。

「避けろ!」

 隊長の声と同時に三人が飛びのき、直後、上空から一斉に蜘蛛が降り注いだ。隊長たちは入れ違いに木の枝へ飛び移る。上から見下ろす光景は異様だった。二十、三十はあろうか、人面を背負った蜘蛛がひしめき合っている。

「地神…針地獄」

 木の上から隊長が術を唱えた。村落中の木々の枝葉が同時にざわりと騒ぎ、枝という枝が蛇のように蠢き始める。号令をかけるように隊長が右手を一振りすると、撓った枝々が地に蠢く人面へ次々と突き刺さる。老若男女の断末魔が連続した。中には地から突き出た根によって串刺しになった蜘蛛もいる。

「う…わ…」

 石段の上からその様子を見ていた青は、覆面の下で奥歯を噛んだ。思わず耳を塞ぎかける。

「これだけの数の人面蜘蛛がどこから…」

 周囲を警戒しながら隊長が木から飛び降りる。青は石段を降りかけた位置から「隊長」と声をかけた。

「シユウ君、無事でしたか」

「石段を登ったところに、孵化した蜘蛛の卵嚢がありました」

 卵嚢とは複数の卵を包む袋の事であり、親蜘蛛は糸で繭状の卵嚢を作り出す。

「隊長、嫌な事を思いついちまったんですが…」

 中士の一人が顔色を青くしながら、串刺しになり絶命した人面蜘蛛らを見やった。

「まさかあの蜘蛛らの顔は、この村の人たちなんじゃ」

「…喰った対象になり替わる妖魔もいると聞きますし、ありえますね」

 表情に変化が見られなかった隊長の目にも、苦い色が浮かぶ。

「卵があるという事は」

 青のつぶやく声に、三人の上官の視線が一斉に向いた。

「親蜘蛛は…?」

「!」

 いち早く察知したのは隊長だった。目の前に立つ二人の中士へ肩と背中で体当たりする。直後、真下の土を突き破り、巨大な鍵爪が薙いだ。血の飛沫が中空に筋を描く。

「隊長!」

 中士の一人が背中から落ちようとする隊長の体を受け止める。巨大な鍵爪の足に続き岩や土を弾き飛ばして姿を表したのは、巨大な蜘蛛。青が見た事のある巨大化した蜘蛛ではない。八つの目の代わりに八つの人面が生えていた。

「炎神…」

 もう一人の中士が術を唱える。

「鬼火!」

 火の玉が人面蜘蛛に命中する。『イヤアアアァアア!』甲高い女の悲鳴と共に顔の一つが焼け落ちるも、蜘蛛は動きを止めず鍵爪の足を振り上げる。中士一人が倒れた隊長の体を肩に担ぎあげ飛びずさり、もう一人が武器を抜刀して鍵爪を弾き、顔の一つに刃を突き立てた。今度は『ァ”ア”ア”ア”ア”ア”!』と赤子が泣き叫ぶ声をあげて萎れていく。

「クソ…!」

 それでも蜘蛛は動きを止めず、血の臭いを追いかけているのか、隊長を背負う中士の後を追う。

「もしかして…」

 青は石段の上から飛び、隊長を抱えた中士の前に降り立つ。

「伏せて下さい!」

「!」

 刀を構えていた中士がその場に蹲ると同時に、両腕の革帯に差した針を引き抜きざまに人面へ放った。右手に三本、左手に二本、残った五つの人面の眉間へそれぞれ突き立つ。

『ギャァアアアィヤア”ア”ア”』

 得も言われぬ断末魔を上げ、五つの顔は白煙を上げて爛れ落ちた。剣山のような跗節を生やした鈎爪の足が戦慄くように震え、動きを止める。

「やったか」

 中士が安堵の声を漏らした直後、爛れた表皮が弾け飛び巨大な老女の面が表出した。

『ヨクモ…ヨクモ…食ロウテヤル!』

「え…!?」

「うわああ!」

 質量のあるあぶくが弾ける音と共に、老婆の顔が牙を向いて青たちに迫る。

『食ロウテヤル”ゥ”ウ”ウ”ウ”!』

 蜘蛛は確かに、人の言葉を発した。

「地神、天劔(てんけん)!」

 隊長の声。

 唱えに応じて地が揺れ、直後、老婆の顔を真下から杭が貫通して天へ突き上げた。衝撃で土や石に混じり、老女の悲鳴と共に緑の体液が天高く噴出する。

「隊長?!」

 振り返ると、中士に支えられて体を起こした隊長の姿。血に塗れた両手を重ね地に向かって押し込む動作と共に、

「奈落!」

 続く言霊に応じ杭は崩れ、蜘蛛の足元を瓦解、陥没させた。蜘蛛は穴深くへ吸い込まれるように落ちていく。

「今だ…炎神!」

 前に立っていた中士がすかさず穴の縁へと走り、

「大火球!」

 ありったけの気力と共に巨大な炎を顕現させた。両手を頭上に振りかぶり、奈落に向かって投げ落とす動きに合わせ天から墜ちる火球のごとく、炎が奈落の底で藻掻く蜘蛛へ降り注ぐ。

「…すごい…」

 地獄の釜のごとき有り様を、青は唖然と見守るしかなかった。炎の中で藻掻く蜘蛛の脚は、次第に動かなくなり、炎が引いた後は炭と化した遺骸が残った。

「おい、毒術の!」

 中士に呼ばれ我に返る。振り返ると、中士に上半身を支えられた隊長が、地に座り込んでいた。肩当てと胸当てが裂かれ脇腹まで裂傷が続いている。

「酷ぇ妖瘴が」

 中士の言葉通り、傷口を中心に隊長の上半身に黒ずんだ痣が広がっていた。

「は…、は…、っ…」

 苦しげな呼吸で胸が大きく上下している。

「妖瘴を食らってあんな大技使ったもんだから…気がだいぶ削られてる」

「一色隊長、わかりますか?」

 意識が朦朧としているようで、呼びかけにも応じない。いつかの藍鬼の状態を彷彿とさせた。

「いま、解呪を」

 言いながら、青は腰の道具袋から符を取り出した。解毒薬を封じた薬剤符だ。このために藍鬼は青に式術の会得を薦めたのだと、後になって理解した。符を隊長の傷口に当て、指先に意識を集中させる。

「解呪」

 短い言葉と共に青は指に挟んだ紙片を患部に押し当てた。紙片の文字列が淡く発光し、符が蒼く発火する。手のひらで炎を包み込むように握り込むと、炎が抵抗なく消失した。

 青が握った手を上向きに開くと、手のひらに黒い粉末がこびりついている。わずかに覆面をずらして手のひらに息を吹きかけると、粉末は空気に紛れるようにかき消えた。


 隊長の傷の応急処置を終えてから、中士の一人が隊長を担ぎ、四人は数刻かけて黒ノ森を出た。飛ばした式からの連絡を受けた医療班が転送陣を使い陣守村で待ち構えており、隊長を引き渡して任務は完了となった。

「任務報告は俺らがしておく」

 運ばれていく隊長を見送ってから、中士二人は青を振り返る。

「今日は悪かった。ガキみてぇなこと言って」

「え?」

 青がぽかんとしていると、中士二人は「忘れてんじゃねぇよ」と笑う。

「お前がいなかったら全滅してたかもしれん」

「助かった。今日一番の武功はお前だって、報告しとくからな」

「え、いえ、そんな!皆さんの方こそ」

 目の前で目撃した上士と中士の術の連携に、むしろ惚れ惚れしたのは青の方だ。覆面や額当てがなければ、どれだけ自分が興奮で頬を紅潮させているかが分かるのにと、少しのもどかしさを覚える。

「また任務で遇ったらヨロシクなー」

 先輩二人は手を振って去っていった。


 壊滅した二つの小村にはその昔、長らく妖に人身御供を捧げる風習があった。

 村で見かけた氏神を祀る社は、かつて人身御供として命を奪われた村人たちの霊を鎮めるためのもの。

 それが何のきっかけか、無念を遺した魂たちが怨嗟の権化となって村を襲った。

 中士からの報告を受けた法軍は後日、壊滅した村へ小隊を送り、蜘蛛の死骸の処理および社の整備と、村人の弔いを行ったという。


 青の、毒術師シユウとしての初めての単独任務。

 黒ノ森の妖虫、人面蜘蛛討伐任務はこうして成功に終わった。

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