第二部

ep.16 若狼


 少女の家には、泥人形がいた。それが少女のものごころ―最初の記憶だった。


 屋敷の廊下をいくつも曲がり長い渡り廊下を通り抜けた離れ、庭に面した広い部屋の真ん中には寝台が置かれ、泥人形はいつもそこに眠っていた。

 その泥人形は屋敷の者たちから「奥方様」や「あやめ様」と呼ばれていた。少女の父親も泥人形を「あやめ」と呼んでいたが、なぜあの泥人形を花の名前で呼ぶのか、少女には理解ができなかった。

 泥人形は桃色の寝巻きを着ていた。寝台の敷布や掛け布団も薄桃色の布地に美しい花の刺繍が散らされていた。しかし泥人形の体や口から零れ落ちる赤黒い泥が、寝巻きも寝具も汚してしまっていた。屋敷の者たちはしょっちゅうそれらを取り替えては洗って忙しそうだった。

 少女が気安く離れに近づく事は許されていなかった。それは同い年の兄も同じだった。屋敷の大人に理由を尋ねると誰もが困った顔をしたので、そのうち尋ねるのをやめた。


 最後に少女が泥人形を目にしたのは、桜が散り始める季節だった。その日だけは特別で、父親に連れられて兄と共に離れの部屋へ向かった。泥人形が眠る寝台の周囲に、白い装束を身に着けた人たちが膝をついて俯いていた。

「近づいてはいけない」

 寝台に近づこうとした兄を父親は引き止めた。「うつってしまっては大変だから」と父親は言った。納得したのか兄は足を止めて、父親の隣に並んだ。「うつってしまっては大変」の意味も、何が大変なのかも分からず、少女は寝台へ近づいた。大人たちが遠慮がちに少女へ手を伸ばしかけたが「構わん」と父親が短く声を発すると、少女に伸びかけた手たちは引いた。

 少女は寝台の側に立って背伸びをし、泥人形を覗き込んだ。その時も泥人形は美しい衣を身につけていた。掛け布団の上に置かれた手は表面が赤黒い泥で覆われていて、辛うじて指であろうと分かる突起が数本生えている。

 少女は泥人形の「手」らしき部位へ、自分の小さな手を伸ばした。指先で赤黒い泥土のような表面を撫でてみると、思いのほか硬い感触がした。不思議と心地いい手触りに、少女は泥人形の手を両手で包みこんだ。おにぎりを握るように指に少しだけ力を入れてみると、どういう仕掛けだろう、泥人形の手がわずかに動いて少女の指先を握るように折れ曲がった。

 ねえ見て見て、動いた。

 背後に立つ父親と兄に伝えたくて振り向くと、

「御臨終です」

 誰かがそう言った。寝台の側に膝をついていた白い装束の大人が立ち上がり、泥人形の顔や首のあたりに手を当てて、そして首を横に振った。

「あやめ様!」

「奥方様」

 部屋の外から女たちの泣き声が連鎖した。父親はまっすぐに前を見つめたまま口をつぐんでいた。その隣で父親の衣服の裾をきつく掴んでいた兄は「かあさま」と泣き出した。

 かあさま。

 兄はたしかにあの泥人形を、そう呼んだ。



 大月青には、ふたりの師匠がいる。

 一人は故人で、元毒術師、龍の称号を持っていた。務め名は「藍鬼(らんき)」。

 二人目は、現薬術師、麒麟の称号を持っている。務め名は「ハクロ(白鷺)」。

「そうか、ついにか…」

 妖鳥の仮面が、心なしか肩を落とす。

 陣守の村から南下した森の中、藍鬼が遺した作業小屋の居間にて、ハクロと青の師弟は向き合って座っていた。

「こちらを、お返しします」

 青は改まって、ハクロの前に木札を差し出し、両手を床について深く頭を垂れた。

「これまでの、八年にもおよぶご指導、感謝いたします」

「ぐすっ」

 妖鳥の仮面の下から、鼻をすする音が聞こえた気がしたが、青は聞こえないフリをした。

 藍鬼いわく「善人」を絵にかいたようなハクロは、情が隠しきれずに漏れだす事が多い。

 気にしすぎると話が先に進まないので受け流すに限る、というのはハクロに近しい人間たちの間で暗黙の了解となっていた。

 長との師道選択の面談の後、青はハクロを伴い藍鬼の小屋に赴いていた。

 藍鬼への報告と、ハクロとの正弟子解消とこれまでの礼を伝えるために。

 案の定、師弟関係の証明となる木札を返還されて、ハクロは「早いなぁ、そうかぁ」と涙声で呟いている。

「そのうちまたお会いできます」

 まるで今生の別れのようなハクロの様子に小さく苦笑しながら、青は顔を上げた。だが大月青とハクロとして鑑みれば、青は下士、ハクロは麒麟という立場の違い、大きな上下の差がある。師弟関係が解消されれば、青がハクロへ今のように気安く近づく事は叶わない。

「今のうちに、この場所でこうして、藍鬼師匠と、ハクロ師匠のお二方にご報告と御礼が言えて、良かったです」

 改めて青が頭を下げると、

「大人になっだなぁぁぁ…」

 ハクロは青に背を向け仮面を持ちあげ、袖で顔を拭うのであった。

「一師にも今のお前をお見せしたかった…」

 麒麟となった今でもハクロは藍鬼へ敬意を忘れる事がない。

 彼のこういうところが、青をはじめ周囲が彼を好ましく思っているところだ。

 仮面を元に戻して再び青に向き直ったハクロは、室内を見渡す。

 小屋の様子は藍鬼が使っていた頃と何ら変わっていない。今は青が引き継いで、変わらず勉強や作業小屋として使っている。

「青」

 一巡り見渡して、ハクロは背を正して改まる。

「はい」

「どの師道を選んでも、これまでと変わらずに努力し続けなさい。そう遠くないうちにまた逢えるだろう」

「はい」

 かつて青が二種で三級を取得した時に、ハクロが言い残した「いつかまた遭えるかもしれん」は現実となった。きっと今回も、実現するだろう。

「それと、同期は大切にな。職種は異なっても、同じ時期に師道に入った者同士の結びつきは、強いぞ」

 聞けばハクロ、藍鬼、ホタルの三人は同時期に師道に入った同期であったという。

「ホタル二師は、お元気なのでしょうか」

「あれから間もなくして子ができたと聞いた。あ、いやいや、話し出すとまた長くなる。お前が俺のところまで上がってきたら、ゆっくり話そう」

「はい。その頃にはきっと、お酒が呑めるようになっています」

 青の応えに、妖鳥の面が笑ったように見えた。


 ハクロを見送った後、青は一人、小屋の中にいた。

 春を迎え陽が長くなり始めたとはいえ、夕暮れが近づくと気温が下がる。シジュウカラの声も遠ざかり、森は夜を迎えようとしていた。

 青は居間の真ん中で仰向けになり、格子窓から差す僅かな外光のもと、掲げた腕に残る痕を見つめる。

「今日は少し赤いかな」

 八年が経った今も、藍鬼がつけた鍵の刻印は消えていない。光にかざさなければ目視できないほどではあるが、青の体調や感情に合わせて濃く浮き出たり、紅潮したりと、日々表情を変える。ように見える。

「師匠、僕が毒を選んだことを怒ってる?」

 夕焼けの中、橙色に映る模様の痕。

「来年の今頃にはきっと、同じ道を歩き始めてると思うよ」

 拳を強く握ると、痕は赤みを増して浮かび上がってくる。

「取り戻す。絶対」

 森が夜に覆われ始め、窓から差していた光が闇へと溶けていく。

 手をおろして横へ投げ出し、大の字になる。

 風が運ぶ梟の声を遠くに聞きながら、青は静かに目を閉じた。



 一年後 ふたたび、春

 十六歳になった青は、薄暗い長室にいた。


 長および四人の技能職位管理官が並ぶ前に、対峙するように立つ。

 前回と異なるのは、管理官には椅子が用意されておらず、長も青が入室時から起立していることだ。

「大月青を毒術師・狼の位に任ずる」

 長の声を受けて、技能職位管理官の一人、物言わぬ白い仮面が白い長衣の裾を引きずって一歩前に踏み出た。両手で三宝を掲げていて、盆に敷いた白い絹布の上に、光る銀板。狼の紋章が彫られた甲当てだ。

「それを身につける時の君は「大月青」ではなくなる」

 長は執務机に置かれた書類を手に取る。

「務め名(つとめな)は『シユウ』か。由来を聞いても?」

 務め名とは、法軍人が用いる偽名全般を指す。その場限りの任務で即席の偽名を用いる事もあれば、技能職のように特定の職務にあたる時に用いる場合と様々だが、いずれも届出制となっている。

「蕺(しゅう)を「しゆう」と三文字読みにしたものです」

「蕺?」

「ドクダミです」

 青の答えに「ほう」と長の呟きが聞こえた。

 ドクダミは薬術や毒術において最初に習う薬草だ。家庭でも広く一般的に、効能様々な薬の原料として用いられる。初めての調合がドクダミを使った血行促進茶や、解毒薬である技能師も多い。

「興味深いね。毒術師の務め名が、無毒の薬草とは」

 長の言う通り、ドクダミは「毒矯め」「毒止め」とも呼ばれ、むしろ解毒に使われる。

「素性を騙るにもちょうどいいですし、初心を忘れずという自戒も込めて。個人的には、気に入っています」

 偽名本来の役割を鑑みて、務め名をあえて自らと反対の意味を含ませる者も少なくない。

「いずれも大切なことだ」

 長の目配せを受けて、三宝を持った管理官が青の前へ歩み寄る。

 眼前に掲げられた狼へ、青は手を伸ばした。想像よりも重さは感じない。名工の手によるものか、狼の紋章以外も意匠を凝らした彫りが見られ、表面も切り口も一切の粗さを感じない。

 しばし指で手触りを楽しんでから、青は銀板が隠れるように甲当てを畳んだ。顔を隠していない状態でこれを身につける事はできないのだ。

 空の三宝を持った管理官が元の位置へ戻る。

「毒術師、狼の位、シユウ」

 長の改まった声。青は背を正した。

 それが下士・大月青とは別の、新しい職位。

「初任務の命は追って知らせを送る」

 甲までの上位資格保持者が任務にあたる場合、必ず同職の技能師配下でなければならないが、狼以上から単独で任務を請け負う独り立ちとなる。また昇格に関して、技能師に試験は存在しない。創作物や、任務での成果・仕事ぶりのみが評価対象となる。

 これまでの道のりは藍鬼やハクロの導きがあってこそのものだが、下士と同様に、狼から先の師道は完全に己の実力次第となるのだ。

「そうそう」

 面持ちを固くする新米毒術師へ、長は微笑みを手向けた。

「初任務までに、顔を隠す手段を決めておくように」


 狼任命早々に、青は悩んでいた。

 これは新米技能師の誰もが通る道である。

「仮面は…無理だな…」

 七重塔から勤務地の医院へ向かう道すがらも、青の頭の中は「仮面か覆面か頭巾か」がぐるぐると巡っていた。

 二人の師匠はいずれも仮面を着用していた。青が常々、内心で「よくあんなものをつけて身動きが取れるな」と思っていたのは内緒だ。幼い頃に藍鬼を真似して子ども用のお面をつけて練習を試みたが、柱や物にぶつかるは、蹴躓いて転ぶはで散々だった。

「覆面は視力が確保できるけど、鼻や口が塞がれるのは困るし…」

 薬草や毒物を嗅ぎ分ける嗅覚は毒術師にとって重要だ。

 口を隠されては吹き矢も使えない。

「ホタル二師みたいな頭巾は…」

 嗅覚と口は自由になるが、ほぼ目許が隠れてしまう。

「え…難しいな。みんなどうやって決めてるんだろう」

 これまで受けてきたどんな試験問題よりも、青を悩ませている。

「うーん」

 悩んでいるうちに勤務先の医院に到着してしまった。敷地をまたぐ前に立ち止まり、青は頭を振った。ここからは医療士・大月青として務めを果たさねばならない。

 白い医療士の制服に身を包んだ青は、気持ち新たに医院玄関へ続く石畳へ足を踏み出した。

「大月君、ちょうどいいところに!頼みがある!」

「いっ」

 総合受付の奥で診察記録の整理を始めたところで、上長である三葉医師に肩を掴まれた。そのまま腕を引かれて三葉の勤務室へ連れていかれる。周囲の医療士たちは気の毒そうな眼差しで青を見送った。

「臨時保健士ですか?」

 部屋に連れ込まれるや否や、三葉から「保健士」と刺繍された腕章を渡される。

「初等学校の保健士が身ごもってね」

 専任の保健士が見つからず、医院の医療士で交代しながら席を埋める事になったとのこと。そこで最初に白羽の矢が立ったのが、青だった。

「勤務表はこれから作って交代制にするから、ひとまず一週間、通ってくれないかな」

「もちろんです、承知しました」

 嫌な顔を見せる事なく即答した青に、三葉の面持ちが安堵に緩んだ。

「助かる~!恩に着るわ」

 青が医院内で重宝される理由の一つがこれだ。

 頼まれた仕事を断らない。

「気の毒に」と青へ同情を寄せる同僚も多い。だが今回の依頼についてはむしろ、母校への凱旋という点で、青にとって喜ばしいものだった。


 そこで青は、懐かしい面々と再会する事になる。


「もしかして、大月青君?」

 名を呼ばれて振り返ると、

「小松先生、つゆりちゃんも」

 今は教頭先生となった元担任教師と、教職員見習いの元同級生・つゆりがいた。

「新しい保健士さんが青だなんてびっくり!久しぶりだね」

「背が伸びたわね、大月君」

 二十代だった小松先生は今や教頭先生となっていて、高位の教職員が身に着ける裾の長い衣を身にまとっていた。一方のつゆりは青と同じ時期に下士に合格した後、教職員資格取得に向けて、こうして母校で実習を受けているという。医療従事者の制服を身に着ける青を、二人は少し珍しそうに見つめた。

「あ…ごめんなさい。「大月医療士」って呼ばないとね」

「先生は「小松教頭」で、つゆりちゃんは「如月先生」ですね」

 恩師と元教え子たちは、今だけ十年前に戻ったように笑いあった。


 学校には保健室があり、保健士の仕事はこの部屋での待機が大半を占める。

 青が入学した直後の初めての神通術授業で、トウジュの術が暴発して小松先生が火傷を負った。あの時も治癒術が使える保健士が対応していた事を思い出す。

 青を保健室へ案内した後、つゆりは授業のため、小松先生は会議のために予鈴に追われて去っていった。

「懐かしいな」

 独りになった青は、前任者が残した引き継ぎ資料をめくりながら、保健室内や窓の外の様子を眺める。術の練習をした中庭や、基礎体力や運動能力をつけるための授業を行った運動場が、あの頃よりも狭く感じる。

 石垣で仕切られた中庭の向こうに、砂を敷いた運動場があり、更にその向こうには裏山が続く。

 運動科目の授業が難易度を上げてくると、裏山全体を使った模擬任務が行われたものだ。隠れる班と、捕まえる班に別れるいわゆる「鬼ごっこ」ではあるが、何人もの現役法軍人たちが監督として目を光らせ、けが人や死人が出ないように見張っていた。

 まだ神通術を制御しきれない生徒も多く、加減が利かずに術の暴発が起き、生徒を庇って引率係がケガを負う事も頻繁に発生する。そういう時も、保健士の出番だ。

「薬や湿布は…と」

 棚を開いて在庫を確認する。治療に必要な物品の管理も、仕事の一つ。不足品を注文書に記載して、後で用務長へ提出すれば良い。子どものケガを治す簡単な傷薬や湿布くらいはすぐに作成できてしまうが、大月青としてはその権限がない。

「そのあたり、立場の使い分けに気を付けないとな」

 誰もいない空間では思わず独り言が漏れる。室内を見渡し、天蓋で仕切られた二つの寝台の敷布と掛布が清潔であるか確認する。室内は全体的に掃除も丁寧になされていて、引き継ぎ書にも抜かりが無く、前任者の几帳面さが窺えた。

 どれくらい時間が経ったか、気が付けば外から賑やかな声が聞こえてきた。

「お」

 顔を上げると、子どもたちが中庭に集まっている。

「懐かしいな~」

 術の授業だろうか。担任と思われる中年の男性教員を中心に、子どもたちが輪を描いている。輪の端に、実習生のつゆりが手帳片手に立っていた。

 青は硝子戸を開き、外の様子に聞き耳を立てた。先生に倣って唱えを口にする子どもたちの声と、そこから「できた!」とか「すげー!」といった声も上がり始める。中にはかつての青のように、何も発現せずに俯いている子も。そこへつゆりが駆け寄り、しゃがんで目線を合わせて励ましていた。

「ちゃんと先生やってるなー」

 つゆりは昔から正義感が強く、常に弱いものの味方をする人柄であった。良い教師になるだろう、と微笑ましく眺めているうちに、その日の授業は何事も起きずに終了し、その後も特に異変はなく、青の臨時保健士としての初日は平和に終わった。

 保健士の勤務時間は、全ての授業が終わる夕方前の時間まで。三葉からは「体力があれば医院に戻ってきて!」と言われているので、今日は医院に戻って診察履歴の整理の続きでもしようか。そんな事を考えながら保健室の掃除をしていると、

「ん?」

 窓の向こう、視界の端で何かが動いた。

 見ると、運動場から裏山へ抜け出そうとしている小さい人影が見えた。

 校内の子どもたちは早々に帰宅していて、中庭にも運動場にも残っている子どもはいなかったはず。

「学校の子か…?」

 今も規則が変わっていなければ、初等学校の子どもは無断で裏山へ立ち入ってはいけないはず。裏山は中等課の生徒も演習場として用いるため、練習用の罠や人工的に地形を複雑に作り変えている箇所もある。

 青は保健室を抜け出し、運動場を横切った。運動場と裏山の境界には大人の背よりも高い石壁が巡っていて、金網扉が設けられているが錠前は教職員が管理している。

「でも確かこの辺りに」

 人影が消えたあたりの地面を探ると、石壁にできた穴を雑草で隠している箇所がある。まさか青が在籍していた頃からあった抜け穴が、いまだに残っていたとは驚きだった。

 成長した体では通り抜けることができないため、風術を使って壁を飛び越えて裏山側の草叢に着地する。

「探してくれ」

 普段は伝令に使う鳥の式を呼び出し、空へ放った。青色の鳥は宙空を三度旋回し、東側へ飛んでいく。その後を追って青は足を早めた。

「いた」

 侵入者はすぐに見つかった。そう離れていない場所、雑木林の中にできた小さな広場のような空間に、少女の背中が見える。青は気配を消して樹木の影に身を隠した。

「風神…」

 呟きが聞こえる。術の練習に来ていたようだ。

 年齢は八歳か、九歳頃。初等学校の中では上級生だ。肩より少し長い髪の毛をおさげに結んでいる。青の位置からでは顔が見えないが、きっと真面目な子なのだろう。かつて自分も術の練習場所を求めて裏山に入り込み、小松先生に見つかって連れ戻された事が何度もあった。

「うーん、ダメだぁ」

 独り言が届く。思い通りに術が発動しないようだ。

「風神…」

 少女は再び両手を前に掲げて目を瞑る。いつ声をかけて帰宅を促そうか青が迷っていた、その時、ごうと音がして風が雑木林を通りかかる。春特有のつむじ風だ。

「きゃ!」

 小さな悲鳴。広場の中央で小さな竜巻が上がった。砂利と草を巻き上げる風の音と、少女の悲鳴が混ざりあう。春の突風と少女の術が混ざり合って暴発したのだ。

「しまった…!」

 青が少女の元にたどり着く前に竜巻は消失して、そこにうずくまる少女の姿だけが残る。体のあちこちに裂傷ができていた。

「ごめん、もっと早く止めていれば」

 しゃがみ込んだ少女の前に片膝をつき、青は最も大きく衣服が裂けた少女の左腕をとる。

「だ、誰ですか…?」

 怖怖とした少女の声。

「えっと、臨時の…じゃなくて、保健室の先生だよ」

 先生という言葉に安心したのか、少女が顔を上げた。頬や額にも痛々しい切り傷が見える。

「怖かったね。大丈夫、いま診て…」

 優しく声をかけた青の言葉が詰まる。大きく裂けて血で汚れた袖、そこから覗く赤い傷口の面積が、目に見えて小さくなっていくのだ。

「え?」

 少女の袖を捲って腕を見ると、小さな切り傷がまるで時間が高速で戻っていくかのように消えていく。

「何…」

 少女の顔へ視線をやると、痛々しかった頬や額の傷も、懐紙で汚れを拭ったかのように消失していった。最も大きかった腕の傷はまだ生々しい血の粒が湧き出していたが、端から徐々に皮膚と肉が意思を持っているかのように融合し傷口を小さくしていく。

「もう大丈夫です!びっくりしただけです!」

 青の腕を振り切って、少女は立ち上がった。唖然とする青へ、ぺこりとお辞儀をする。おさげが動物の尻尾のように揺れた。

 再び顔を上げた少女は、木の実のような瞳で青を見つめる。少し日に焼けた肌と髪。活発で利発そうな面立ちだ。

「ほら、もう全然大丈夫!」

 短時間で七割ほどの傷が消えた腕をひらひらと振って、少し自慢げだ。

 この事態を異常と自覚していないように見える。

「保健室の先生?」

 動きを止めた青へ、少女が少し困ったように首を傾げた。

「あ、えっと」

 我に返った青は強引に笑顔を作り、立ち上がる。

「ばい菌が入ったら大変だから、手当しようね。先生と一緒に保健室に行こう。あと、裏山には勝手に入っちゃダメだよ」

 少女は素直に「はーい」と爛漫な笑顔を見せた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る