ep.2 弟子志願
森を彷徨っていた少年の名は「青」と書いて読みを「セイ」。
青を妖獣から救った仮面の男は藍鬼(ランキ)と名乗った。
「ひとまずここで一晩休め。明るくなったら森を出る」
藍鬼は青を森の中の庵へ迎え入れた。山の岩壁が水の侵食によってできた小さな洞を利用した、草ぶきの粗末な小屋だ。
「青、お前の姓…名字は?」
「ミョウジ?」
「分からないのか」
狭い室内の上下左右を興味津々といった様子で見渡しながら、ここでも首を傾げる青の反応に、藍鬼はもはや驚く様子を見せなかった。
「お前いつから旅をしていた」
「ずっと」
物心がついた頃にはすでに旅をしていた。どこから来たのか、親の出自も知らない。
「そうか」
青の無知な返答すべてに対し、藍鬼はそう応えた。青が無知である事は青の責任ではないし、こうした境遇の子どもは少なくない。
「手当をしてやる。そこに座れ」
藍鬼は、狭い戸口に立ったままの青を床板が張られた居間へ上がらせた。促されるままに青は部屋の真ん中に置かれた椅子代わりの踏み台に腰掛けた。
小屋は狭くて粗末だが、室内に埃やカビ臭さもなく清潔に保たれている。
「おじ…藍鬼さんは森に住んでるの?」
「ここはただの作業小屋だ」
おじさんこと藍鬼は、本やモノで埋め尽くされた壁面棚から小瓶や箱を取り出して、青の前にならべていく。その一つ一つを、青は興味深げに眺めた。
「家は町にあるって事?」
「そうだな」
一通りの道具を揃えて藍鬼は青の前、畳へ直に腰を下ろした。まずは最も目立つ足首の傷を診はじめる。脚絆を外し、血で汚れたサラシを取り外しにかかった。
「その町は『五神通祖国の一つ、凪之国』っていうところ?」
「そうだ。俺は凪の国民で、この森も凪の領地内だ」
藍鬼は自らの左腕に装着した革帯を示した。それは刃物入れでもあり腕章となっていて、紋章と思わしき文様が刻印されている。
「母さまは、凪之国に行きたかったんだ…」
膝上に乗せていた青の手が、薄浅葱色の裾を強く握った。しばらく無言が続き、狭い小屋の中で藍鬼が作業をする音―小瓶が触れ、布が擦れ合う微かな音だけが流れる。
静寂を終わらせたのは、青だった。
「そのお面は、何の動物が描いてあるの?」
「鬼豹。伝承上の幻獣だ。あとお面じゃない、仮面と呼べ」
「仮面、取らないの?家の中なのに」
妖獣と戦っている最中も、戦いを終えた後も、小屋の中でも、藍鬼は仮面を装着したままだ。
「お前はまだ知る必要のない事だ」
薄暗い森や室内でよく転ばずに動けるなと青は内心で感心しつつ、顔に見られたくない傷でもあるのか、それとも素性を隠すためかは知り得ないが、幼心にも何かしら事情があるのだろうという事は察知できた。
「エンシン・ヘキと、サンって、どういう意味?」
代わりに継いだのは、また新たな問い。
「ん?」
急な話題転換に少し面食らったようだが、手当をする藍鬼の手は止まる事がなかった。
「術を使う時に、言ってたでしょ」
藍鬼が妖獣を牽制した時に用いた術のことだ。青は無知だが、記憶力は良い。
「エンシンは炎の神、ヘキは壁、サンは散る、だ」
「それってジンツウジュツって言うんだよね?」
「神通術について誰かに聞いたのか」
「水の術を使った人は見たよ」
足首の手当を受けながら、青は旅の道中で出会った術の使い手について語った。
「スイジンって言ってたから、水の神様って意味だったんだね。他にも風とか土とか光とか闇もあって、七つの神様の力を借りる術なんだって、おば…『キレイなお姉さん』が言ってた」
「っん…そ、うだな」
ガキにおばちゃん呼ばわりされた名も知らぬ女を思いやってか、失笑を抑え込みつつも藍鬼の手元は淀みなく動く。薬草から作った薬を手のひら大に切ったサラシに塗布し、青の細い足首の傷に重ねた。
「その薬は何からできてるの?」
青が腰を屈めて足首、藍鬼の手元を覗き込む。
「お前が手当てしていたのと同じ、ヨモギだ」
「本当?じゃあ母さまが教えてくれた通りだった」
思わず嬉しくなり青の足がぶらぶらと揺れる。「動かすな」と藍鬼に短く窘められた。
「これ、全部おじ…藍鬼さんが作ったの?」
たしなめられた事をさほど気にせず、背を起こして青は視線を壁棚へ向けた。空間を埋め尽くすほどの小瓶や、本や、箱からあふれている草花や木の実。
「くれぐれも勝手に触るなよ。劇薬や猛毒もある。触ったり吸い込んだら死んじまう」
「さっきの妖獣を倒したやつみたいに?」
青は細く小さい肩をぶるりと震わせて「分かった」と息を呑んだ。
足首の次は、妖獣の放った衝撃波で負った切り傷の手当だ。藍鬼は青の小さな手をとって、手首のサラシを外していく。作業を見つめながら、青は問いかけを続けた。
「神通術って、どうしたら使えるようになるの」
「使えるようになりたいのか」
青は細い首を大きく上下に動かした。
「そうか」
とだけ相槌を打って藍鬼は青の袖をまくりあげ、細腕に残る大小様々な傷口に軟膏を塗布していく。
「腹、見せてみろ」
最後に藍鬼は青の上着の裾を捲り上げる。三ツ目猪が発した衝撃波は腹部の布を裂き、青の脇腹にも薄い裂傷ができていた。痛みが無いので青も気付いていなかったが、傷の大きさの割に周囲の肌が内出血のように黒ずんでいる。
「妖瘴が残っている」
「ヨ―ショー?」
「妖獣や妖魔の呪いや毒のようなものだ」
藍鬼の手が腰の道具入れへ伸び、何かを引き抜いた。人差し指と中指に挟まれているのは、長方形の紙片。墨で文字が書かれている。
「毒なの??」
毒、の単語に青の顔色が暗くなった。毒が塗布された針一刺しで小丘のごとき巨体が死に沈んだ光景は、まだ幼い少年の記憶には新しい。
「解呪」
短い言葉と共に藍鬼は指に挟んだ紙片を患部に押し当てた。紙片の文字列が淡く発光したかと思うと紙片が蒼い炎に包まれ、藍鬼の掌がそれを握りつぶした。
「あ、あれ??」
背中を丸めて青は自分の腹部を覗き込む。ヘソ付近で爆発が起きたような気がしたけれど、まったく熱さは感じなかった。紙片と炎、ついでに腹部の黒ずみも跡形なく消えていた。
「今、今のは、何?」
不安を浮かべる青の目前で藍鬼が握った手を上向きに開くと、手のひらに微量の黒い粉末がこびりついていた。わずかに仮面の顎をずらして藍鬼が手のひらに息を吹きかけると、粉末は空気に紛れるようにかき消えた。
「薬剤符を使った解毒の術だ。毒や呪いを取り除く」
「神通術とは違う?」
「薬剤符は薬の効能を閉じ込めた札。解毒法は色々あるが、今のは毒術の応用だ」
「毒術は毒を消せるんだ…じゃあ炎の術でも炎を消す事はできる?」
「え…?」
初めて、藍鬼は返答に詰まった。
解を持たない訳ではない。五歳に満たない子どもがする質問から逸脱している内容に、意表を突かれたのだ。
「できない。神通術はいわば神頼みだ。誰かの神頼みを、赤の他人が取り消す事はできない。属性が異なるより強大な術をぶつけるしかない。例えば炎術であればより強い風や水を…とかな」
「毒術と神通術は違うものってこと?」
「そもそも系統が違う」
「毒術は神様じゃなくて何頼みになるの?藍鬼さんが針で妖獣を倒した時のも、あれも毒術?」
「……」
重ねられる青の問いかけに、藍鬼は口を噤んだ。こちらも解を持たない訳ではない。だが口を開いてしまえば、語るに数時間あっても足りなくなってしまうだろう。
ついさっきまで初歩的な炎術を見て驚いていただけの子どもが、知りもしなかったはずの術の性質の違いを理解した。
年齢によらない青の聡さは、藍鬼に保護欲か懇情の一片を芽生えさせかけている。
無知ではあるが素直で、問いかけに物怖じしない性質も功を奏すだろう。体系的に教育を受けさせれば化けるかもしれない、という期待。
それに森で妖獣と対峙した際の青は、無力な身ながらも妖獣の急所を見出し、投擲の才能の片鱗も見せていた。戦闘員としても伸び代があるやもしれない。
「夜が明けたら、ここを出る」
藍鬼の口から出た応えは、青の問いへの解ではなかった。
青のケガの処置は一通り終えていた。
「凪の役場へ連れて行ってやる」
藍鬼は立ち上がり、道具や薬剤を道具箱へ手早く詰めて棚の空いた箇所へ押し込んだ。
「藍鬼さん?」
質問ばかりして怒らせただろうか。青は当惑してただ藍鬼の動きを目で追う。
「そこに頼れば国がお前を保護してくれるだろう」
「ホゴ?」
国には難民や孤児を保護する福祉制度が存在する。住居の提供、職の斡旋、生活支援、そして教育。棚から離れて再び藍鬼は青の前に膝をつき、目線の高さを合わせた。
「青、学校へ行きたいか」
ぽかんとした幼い顔へ、
「術や戦い方を教えてくれる」
と言葉を変えた。
「行きたい!」
首が千切れるかというくらいに、青は大きく何度も頷いた。
「そうか」
青の目には、鬼豹の仮面の目許が柔く微笑んだように見えた。
*
暁を告げる鳥の声に、青は目を覚ました。
どこからか流れてきた頬を撫でる冷たい風に身震いして、薄い掛け布団の中で体を丸める。
「!」
二呼吸分ほど微睡みかけて、急激に覚醒して目を開けた。上半身を起こして辺りを見渡せば小屋の戸口は開け放たれ、朝陽が狭い小屋内を照らし、白光に舞う埃が煌めいていた。
「起きたか」
戸口から影が差し、長身が土間へ踏み込んだ。藍鬼だ。昨夜と同じ上下黒の衣服、黒い鬼豹の仮面も変わらず装着したままである。明るい場所で見れば仮面の隙間から露出する輪郭や肌、首筋の肌理から、思いのほか若いようだった。
「くそー、カオが見れなかった」
「残念だったな」
あからさまにガッカリした顔をする幼い少年を軽くいなして藍鬼は両手に抱えた竹籠を竈の上に置いた。片方の籠には数尾の魚。もう片方には赤い果実が数個。
「傷はどうだ」
藍鬼に促され青は布団から這い出る。袖や上着の裾をめくるとどこもサラシが全く乱れた様子もなく白いままで巻き付いていた。痛みや熱も感じない。
「痛くなくなってる!ありがとう!あ」
青の腹が空腹を思い出して盛大な音を鳴らした。
「味付けは調合用の塩ぐらいしか無いが」
と前置きして藍鬼は魚を手に取り、切っ先が削られた竹串を無造作に刺す。串刺しの魚を眼前に掲げ、空いた手に小さな火球を発現させながら魚をひと撫ですると、ほどよく皮に焦げ目がついて湯気が立ち始めた。
「便利だね」
ぽかんと口を開ける青の前に、魚の塩焼きと赤い果実を並べた皿が置かれる。
「それ食って薬を飲んだら出発するぞ」
言われるが否や青の手が魚を引っ掴む。恐怖と傷の痛みから解放された安堵感が、青の心身に生への渇望を取り戻させた。藍鬼が棚から薬を取り出し振り返るまでの僅かな時間で、皿の中は空になっていた。
「食欲が戻ったなら問題ない」
青の様子に満足したように、藍鬼の黒い仮面が小さく頷いた。空になった青の皿に黒い丸薬を置き、傍らに湧き水を汲んだ竹の水筒を置く。
「抗炎症薬だ。飲め」
「コーエンショー…」
「傷が悪くならないようにする薬だ」
「分かった!」
薬を飲み終えた青が、ぎこちない手つきで身支度を整えている脇を通り抜け、藍鬼は居間の奥の部屋へ姿を消した。青が片方の袖のサラシを巻き直すのに苦戦しているうちに、再び居間へ戻って来る。手に黄土色の麻袋を抱えていた。それを、青の前にどっかりと置く。麻と革で作られた背嚢―背負い袋―だった。
「お前の荷物だ。中にお前の道具袋に入っていた物と、それとお前の母さまの着物が入っている」
持っていけ、と差し出された袋を受け取るやいなや中を開けると、まず青の目に飛び込んできたのは薄浅黄色だった。畳まれた衣の下には青が昨晩まで腰に巻いていた道具袋があり、更にその下、まるで着物と道具袋で隠されているかのように、小さい布袋や小瓶がいくつも鞄の底に敷き詰められていた。
「他にもたくさん入ってる」
青が袋から顔を挙げると、目線を外して横を向く黒い鬼豹の仮面。
「予備の薬や痛み止めだ。あとは兵糧丸や乾物、要するに食い物だ」
「いいの?」
「腐らせるよりはマシ。それだけの事だ」
「ありがとう!」
藍鬼に抱きつこうとしたが避けられ、そのまま青は土間へ転がり落ちるのであった。
小屋から出たところで藍鬼は振り返った。片手で空中に図形のようなものを描きながら小さく何かを呟くと、目の前の小屋が消失した。
「え!?」
そこに最初から小屋などなかったかのように、目の前に見えるのは岩壁に穿たれた小さな洞と小川だけ。
「幻術だ。隠しているだけで、小屋はそこに「ある」。毒術と同じで、これも神通術とは系統が違うものだ」
「いま僕が質問しようとしたのに」
「お前の傾向と対策はもう分かった」
黄土色の袋を背負った小さい背中が、先を歩き始めた藍鬼の後を追う。
森の小道を歩く大小二つの人影。
青は昨晩から身に着けている薄い浅黄色の上下、両手両足首には藍鬼から提供された真新しいサラシを巻き、足首にはこちらも藍鬼が縫いつくろった脚絆が被せられている。
一方の藍鬼も昨晩と身に着けるものに大きな違いはないが、陽光の下で並んで歩く事で気が付く事がいくつかあった。腰に巻かれた革帯には、吊るされた道具袋の他に、背中側に刃物差しがあり、千本や苦無といった道具用の小刀が数本ずつ収まっていた。また、手甲は黒い布地が手首を覆い隠し、甲当て部分には獣らしき模様が掘られた銀板がはまっていて物々しい。軽装に見えて武装に抜かりなかった。
藍鬼の武装とは逆に、太陽の元にある森は昨夜とまったく異なる平穏な姿を見せていた。
「森を抜けるまでどれくらいかかるの?」
眩いほどの木漏れ日があちこちで瞬き、風は穏やかだ。夜に蠢き地を這うような獣たちの唸り声は鎮まり、代わりに小鳥と小動物たちの鈴のような声が飛び交う。
「二刻半も歩けば陣守の村に着く」
「ジンモリの村?」
「着いてみれば分かる」
青は空を見上げた。木々の密度が高すぎて遠景がまったく見えず、森を抜けるまでの距離感がまったく掴めない。昨晩もし妖獣に遭遇しなかったとしても、永遠に森を彷徨って餓死していたかもしれなかった。むしろ妖獣に襲われた事が幸運だったとも思える。こうして救い人に出逢えたのだから。
「なんだ」
視線に気づいたのか、鬼豹の仮面が斜め下の青を向いた。
「学校って、どんな事を勉強できるの」
「色々、だ。凪之国で生きて行くために必要なことを一通り、な。神通術や体術、言葉、算術、国の事、そして世界の事」
凪之国で生きたいくためーそれすなわち凪之国への忠心と引き換えに生活が保障されるに他ならないが、藍鬼の口からその説明がなされる事はなかった。
「毒術は教えてくれるの?」
「基礎的なところは」
「藍鬼さんみたいになれるの?」
「……」
「僕、藍鬼さんに教えてほしいな、毒や薬のこと」
黒豹の仮面が前方へ視線を戻した。
「学校の成績が良ければ考える」
「本当!?おシショーになってくれる?」
飛び跳ねたはずみで麻袋の中で小瓶が音を立てた。
「変な言葉は知っているんだな」
頭上から小さいため息が零れる。下から見上げれば仮面の隙間から見え隠れする顎と口元が、青の目には笑っているように見えた。
「お前は麒麟になれるかもしれない」
「キリン?」
「良き毒術師になれるって意味だ」
麒麟。
その言葉が持つ重みを青が知るのは、まだ先の話となる。
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