透明な仕切り
今日も仕事を頑張った。そう労いながら、歩くだけのゾンビになって電車を降りた。
空腹ではあるし甘い物を食べないとやっていけないとは思うが、それよりも歩くという事だけが頭の中を占めている。
子供の頃は、大人はそんなんじゃないと思っていた。でも実際は違って歩くだけの日が多い。勉強をしていないはずなのに意外と頭って使ってるんだなぁ、と思いながらエスカレーターに乗った。
今日は運良く人が少ない。贅沢に手すりに肘から先をべたっと置く。たった数秒で上にたどり着くのに、うとうととしてきた。思ったより長いのでは?と思うが、エスカレーターで巻き込まれたりコケる事を思うとなかなか眠れない。
上に着くと特に考える事なく、何時も通り曲がった。エスカレーターの近く、隣を、なるべく道を省略するために曲がった。歩くだけしか意識を保てない今でも、この風通しの良い感覚は少し寂しい。
子供の頃、よく、網にかかる虫や魚のように透明な仕切りにかかっていたのだ。それがなぜか楽しかった。なぜ楽しいのかは今でも分からない。でも楽しく感じていた。
その透明な仕切りというのもよく分からない場所にあったりする店舗もあって、周りの同級生もよくぶつかっていたものだ。
──あぁ、やはり昔なじみが居ないのは──
その先の言葉は良いものが見つからなかった。心に穴が開いたとも、寂しいとも色々と近しい言葉はあるが、心境には全く当てはまらない。
感情も言葉もなんと難しいものなのだ。自分の事を曖昧にしか理解できないのに、他人にきちんと理解できるまで伝える事ができるのだろうか。
私が電車を乗り始めたのは小学校の頃からだった。それも2年生の半ば。
幼稚園児でも1人で乗ってる子を見て、母に聞いた事があった。なぜ私は大きくなってから電車に乗ったのか。
答えは、トイレだった。当時の私は心当たりがあったのでそこで黙って、いつしか忘れていたが、もっと詳しい答えは5年生の時にひょんなことから聞くことになった。
担任の先生が「子供のうちはトイレを我慢したくても勝手に出てくるから、授業中にトイレに行きたくなったら我慢せず、人の目を気にせず行きなさい」と。
それを理解できるようになったのはもっと後だったと思う。そういう理由で母は私が大きくなってから電車に乗せたのだろう。そう考えると、電車に乗れる子供は凄いなと思う。
初めての駅は物凄く怖かった。人がたくさん、広さもあり、触ってはいけなさそうな機械もたくさん。好きに歩けるわけでもなく母の真後ろを必死について行く事しかできない。
少しでも道を外れたらどこかに流されて、二度と帰れなくなるのではないか。
そんな姿を見て母は、時間もあるしという事でしばらくは切符を買わず椅子に座った。当の私と言えば親の気持ちも知らずに、私はのんきに(なんで座ったままなんだろう、疲れたのかな?)なんて考えていた。
じっと座っているのもたった数分で飽きて、もぞもぞと体を動かし始めた頃。
「買い物があるからここで待ってて」
と言って近くのコンビニに入っていった。
うん、と頷いたものの本当は行ってほしくない。でも頼まれた事はきちんと守らないといけない。でも凄くさみしい。とせめぎ合う気持ちで小さな心が破裂しそうだった。
チラチラと読めないアナログの時計を見てはコンビニを見る。あぁ、まだかなぁ、なんて思いながらまた時計に目をやり、一瞬で飽きて近くにある、読めない漢字や数字、たまに外国語になる掲示板を見てはいったい何が書かれているかを考える。
それもまたすぐに飽きて、駅員さんを見る。親子なのか、おばあさんとおばさんが話しかけているようだ。
それもすぐに飽きては他の所を見る、それを繰り返していた。
もう1時間くらい経ったんじゃないだろうか。
多分実際はそこまで待っていないのだと思う。だけどあの頃は時間の感覚が早かった。
再びコンビニを見ても母は見えない。これならぬいぐるみを持ってきたらよかった、とひどく後悔した事を覚えている。
電車が来る音がして、文字が変わって、人がたくさん上がってきたり、急いで階段を走る人の流れを何回見ただろう。
駅員さんと話している親子らしき人がこっちへ来て、隣に座った。そう、隣に座った。向こうに空いている椅子があるのに。
これじゃあお母さんが帰ってきたら座れないと思うと涙が勝手にポロポロと溢れ出た。コンビニから出たら、お母さんはいったいどこに居ればいいのか。
そんな姿を見て隣の親子は慌てて、どうしたの、と話しかけてきた。娘さんに至っては目の前に来てしゃがんで目線を合わせている。
「どこか痛いの?」
「ママがいないねぇ、さみしいねぇ。ママはどこにいるのかい?」
なんて色々と話しかけてくれている。でも私はしばらく話せなかった。話そうにも、うまく声が出ない。頭を撫でたり、子守唄を歌ったり、色々としてくれる2人の優しさにさらに涙が出た。
けれど感情というものは不思議なもので、あんなに悲しかったり優しさに感動して心がいっぱいになって溢れていたのに、泣けばすっからかんになっていた。
「となり、座ったか…から、おか…お母さんがすわえ…座れなくなう…なるって思…思って」
一生懸命ひぐひぐとなりながら話したら、母親らしきおばあさんが、そうだねぇうんうん、と背中をさすってくれた。
「ごめんねぇ。あなたの親が戻ってきたら隣に移動しようと思っていたんだよ。それを話せばよかったねぇ。怖い思いさせてごめんねぇ。お母さんが戻ってきたら隣に座れるから大丈夫だよ」
「ううん、大丈夫」
そうかい、よかったよ、と言って、カバンから取り出して涙を拭いてくれたハンカチは凄く優しい香りがした。
戻ったら隣に座れるという言葉を聞いたからだろうか。それとも子供ゆえの速さなのだろうか。ひぐひぐとなるのがなくなると、すぐに親子に話しかけていた。
「駅、初めてなの」
「そうなんだ。楽しみだね」
「それならいつか駅弁というのを食べるといいよ」
などなどたくさんの会話に付き合ってもらったものだ。今思うと、大人って凄いと思う。自分の事で忙しいのに、他の人、特に扱いづらい子供の相手をするんだから。
それじゃあ私たちはもう行くね、とその親子は立ち上がって切符を買いに行く。私も、またね、気をつけて行ってらっしゃいと言って手をふった。
また1人で暇だな、なんて足をぶらぶらしているとコンビニから母の姿がちらりと見えた。たった一瞬だけ。それだけで喜んでは寂しくなった。
まだ出てこないかな。
まだなら大好きな歌でも歌ってようかな。
なんて、無理に自分の心を持ち上げていたものだ。でもそんな心配はいらなかった。すぐにお母さんはコンビニから出て、戻ってきのた。
隣に座って、はいこれ、と袋を渡してきた。中身は当時ハマっていたヨーグルトベースのジュースが入っている。
「飲んでいいの!?」
と聞いたら、いいよと返事が返ってきた。
いただきます、と言って小さな紙パックからストローを取り出す。
「切符買ってくるからもう少しここに居てね」
と言うお母さんの声に気づかず、ストローをさして、すぐになくならないようにチビチビと飲み始めていた。ほんの1吸いしては、ごく少量のジュースを口の中に広げて甘味を味わう。ヨーグルトのような風味も広がり、とても爽やかだ。かすかないちごの香りが鼻を通る。
「行くよ」
と戻ってきたお母さんの隣を歩いて駅員さんの所へ向かう。何やら切符を見せていて駅員さんが何かをして、「どうぞ」と言うとお母さんが前に進んだのでよく分からないままついて行った。そのままエスカレーターに向かう。ジュースを落とさないように両手で持って、エスカレーターに乗る準備をした。
隣にいるお母さんが少し遠回りをして曲がる。なんでだろう?と思いながら私は近道をした。
数秒後、ダン!と物凄い音がした。1歩踏み出した瞬間ではなく、1歩も踏み出せなかった。
特に痛みはない。ただ驚いて目の前を眺めていた。慌ててお母さんが、遠回りをして戻ってきて「ここには仕切りがあるから気をつけて」と言って、目の前の何かをコンコンとした。
全く理解が出来なかったから、自分も目の前に手を出してみる。すると腕を伸ばしきる前に何かに触れた。これが仕切りか。コンコン、とすると意外と丈夫で面白い。
でもいったい何で出来ているのだろうか。顔を近づけてみても、爪で軽くひっかいてみても分からない。ガラスなのだろうか、それとも窓なのだろうか。
手をベタァとつけても、さらにそこから押しても全く動かない。かと言ってザラザラもしていない。
その時お母さんが何かを言っていたが、全く耳に入らなかった。そのくらい謎に満ちていたのだ、その仕切りというのは。
衝撃に耐えれるのか、バンバンと叩いてみたが特に何も起こらない。うーん、とうなりながら、手の甲でさすってみる。そうしたら上からくすくす、と声が降ってきた。
なんだろう?と上を向いてみると特に顔はないが、この謎の壁がくすくすと笑っていた。
「くすぐったいよう!」
そんな事を言うのでいったんやめて、爪でコツコツと叩いてみる。
「それもくすぐったいよう!」
それじゃあこれはどうだ、と手をグーにした所でやめた。さすがに殴ったらくすぐったくないだろう、という考えがよぎったが、その殴るというのは物凄く痛い。そしてそれは私の胸もズキズキと痛くする。
「ごめんね、色々な事をして」
「いいよ」
「ねぇ、ここで何をしてるの?」
「立ってる」
「???。え、ここで立ってるだけ?」
「うん」
というのはどういう事なのだろう。不思議な答えにしばらく沈黙が流れていた。
「それが私達の仕事なの」
「しごと?」
「そ。ここに私がいないと省略して通ろうとする人が多くて、人間同士ぶつかって痛い思いするからね」
「へえ、そうなんだ」
「私達なら走ってぶつかっても受け止める事ができるから雇われたの」
「その仕事って楽しい?だってあなたが痛い想いするじゃない」
「うーん、私達は楽しいかな?私達ってぶつかられてもくすぐったいとしか思わないもの」
「ふーん」
ちょっとうらやましいかもしれない。そう考えながら、味が恋しいのでジュースを1吸いした。
「でもたしかに楽しいかも。虫や魚になった気分!それにぶつかっても痛くないよ」
「そう?他の場所でも見かけたらよろしくね」
「うん。あ、ねえ、仕切りさん、友達だからこれ一口あげる」
「それは??」
「すっごい美味しいジュース!これ好きなんだぁ」
「そうなんだ、嬉しいけど私仕事中だから飲めないんだ」
「そうなの?内緒にしててもだめなの?」
「だめだよ。見てないと思っていても見られているし、運良く見られなくて秘密にしたって私自体が悲しいもの。裏切ったようで」
「ふーん、そっかぁ。だから私、悪い事したらバレちゃうのかな。いつもバレるの」
「ふふ、誰かに見られてるね」
悪い事はするもんじゃないんだなぁ、なんて思いながらまた1吸いする。
「もうそろそろ行かないといけないんじゃない?電車を使うって事はきっと遠くまで行くんでしょ?」
「うん!冒険に行くんだ!向こうで起こった事、友達に話すの」
「それじゃあ、早く行かないと。時間は歩みが早いから」
「もうちょっとゆっくりしててもいいのに。ね、私ゆめみ。またね」
「ゆめみちゃん、また会ったら話そうね。あ、でも私の背中から話しかけちゃだめよ。そこで立ち止まると他の人が通れなくなって、詰まって怪我をするから」
「うん、分かった」
と、とてとてと母の元へ行く。時間は本当に早いもので、もうすでに向こうに着いたら何をするか、何が起こるかと考えていた。
本当に時間も、人間の気持ちも、考えも早い。
たまに感じる事がある。
暇な時にポツンとその流れを眺めるのだ。誰も彼も、どれもこれも忙しなく動いて、自分たちで時間にもっと早く動くよう急かして。だんだんと早くなっていく。頭や心も早く埋まっていく。
言葉は出てこないが、仕切りがどこの施設からも消えた時と同じくらいの気持ちになる。これはいったい何なのだろうか。自分で新しく言葉をつけるべきだろうか。そうすれば少しは理解できるだろうか。
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