第5話 マッチョの資格

「ぬぅあああぁぁぁぁ!」

 俺は全力で飛び起きた。


 はあ、はあ。


 自らの激しい息遣いを聞く。


「またか、またなのか……」

 俺は手で顔を覆う。


 あれは夢だ。

 夢だったんだ。


 しかし、そうと知っても拭い切れないほどの恐怖が頭にこびりついていた。


 ダンベルカールをしようとすれば、ぶつかってしまうほどの距離。

 そこに何人もの俺が、マッチョたちがいたのだ。


 やつらは俺をチラチラと見ていた。

 君もやれよ、と言わんばかりの視線だった。


 そして、最後に俺が言った。

 ナイスバルクと。


 屈辱だった。

 どうして俺が筋トレをしなくちゃいけないだ。


 いや、これ以上考えるな。

 あれはただの夢で、現実ではないのだ。


 布団を跳ね飛ばすかのようにしてめくり、俺はベッドから下りる。

 スリッパに足を通して動こうとするが、なぜか床との引っかかりを感じた。


 足元を見る。

 床には薄い模様のようなものがあった。


 俺は急いでカーテンを開け、体をかがめてフローリングを斜めに見る。


 そこにあったのは足跡だった。

 いくつもの足跡は滴る汗によって形を作り、寝室の全ての場所を覆っていた。


 そう、スリッパが引っかかったのは、フローリングが汗でべちゃべちゃだったからだ。

 俺は夢の中で感じた、うだるような暑さを思い出す。


 まるでサウナの中にいるようだった。

 しかし、あの暑さとは反対に俺の体は震えた。


 俺の顔をしたマッチョたちが、この部屋にいた証拠がフローリングに刻まれている。


 俺は視線の端に光を感じた。


 待て、見てはいけない!

 そんな心の声を無視して、俺はそれに目を向ける。


 ベッドの下。

 狭い空間にそれはあった。


 金色のダンベルが、朝日を浴びて輝いていた。




 もう、無理だった。

 俺は引っ越しを決める。


 隣のヤツがそうだったように、俺はこの部屋から、いやダンベルから逃げることを決めた。


 そこからの俺は早かった。

 直ちに次の転居先を決め、引っ越し業者に連絡をする。


 数日の間に引っ越しの段取りをつけたのだ。

 部屋の小物をダンボールに入れてまとめ、準備も万端となった。


 だが、寝室にはまだアレがあった。

 ゴールに到着したということなのだろうか。


 あれから実体化したままとなった金色のダンベルがベッドの下に置かれていた。


 ダンベルは朝になっても消えることはなく、ずっとそこに居座り続けた。

 俺は、隣のヤツと同じことをしようと決めた。


 金色のダンベルを持ち上げ、寝室を出る。

 玄関のドアを開け外に出ると、目の前を人が通った。


「おっと」

「あっ、すいません」

 男は謝ると、一旦止まる。


 引越し業者の格好をした男だった。


 引っ越しは明後日のはずだ。

 それなのになぜ。


 そう思って隣を見る。


 ドアが開けっ放しだった。

 どうやら隣に誰か引っ越してきたということだろうか。


 引越し業者の男は軽く会釈をすると、すぐに廊下を駆けて行った。

 俺はその後を追うように、ダンベルを持って外に向かう。


 やはり誰かが引っ越してくるのだろう。

 外にはトラックが止まっていて、業者が荷物を運び出している。


 俺は持っている金色のダンベルを見た。

 また、新たな被害者が生まれるかもしれない。


 だが、このダンベルを遠くまで運ぶ力は俺にない。

 仕方なく、ゴミ捨て場まで来て、乱暴に落とす。


 ゴン!


 アスファルトと激しく衝突する音がした。

 フローリングに落とす音とはまた違う。


 ざまあみろ。

 心の中でそう吐き捨てた。


「もったいない!」

「うおっ!」


 急に背後から声が飛んできた。

 無様な叫びをあげて振り返る。


「マッ!」

 俺は言葉を詰まらせる。


 そこにはマッチョがいた。

 真っ黒に日焼けして、タンクトップに半ズボン。


 季節感を全く無視した格好だった。

 まだ冬の風が残っているというのに、寒さを感じないのかこのマッチョは。


「キミ! そのダンベル、捨てちゃうの?」

「え?」


 マッチョはゴミ捨て場に置かれた、金色のダンベルに視線を向けていた。


「ええ」

「良かったら、ボクに譲ってくれないか!」


「は?」


 このマッチョは脳みそまで筋肉になってしまったのだろうか。

 こんな呪われたダンベルを……。


 いや、待て。

 このマッチョは何も知らないのだ。


 俺の心に突然、邪悪な考えが忍び込んできた。


 このマッチョに呪いを押し付けた方が良いのではないか。

 いくらダンベルを捨てたからといって、マッチョの呪いが解けるという保証はない。


 俺がこのアパートを出ていってもマッチョたちは追いかけてくるかも知れない。

 それなら、このマッチョになすりつけるた方が確実と言えるだろう。


 そうだ、俺に呪いを押し付けて逃げた、ガタイのいい男のように。


「か、構いませよ」


 俺は自分の悪意にふるえていた。

 ここまで、人は悪に染まることができるのだろうか。


「やったあ!」

 マッチョは喜び、金色のダンベルを握る。


 このマッチョは、これから眠れない夜を過ごすことになる。


「素晴らしい!」


 ダンベルの落とされる音で起こされ、無視をすればマッチョたちがベッドを囲む。


「良い重さじゃないか!」

 マッチョは無邪気にダンベルカールをして、己の上腕二頭筋を見せつけてくる。


 知るかっ!


 俺は背中を向けてアパートに戻ろうとする。


「おう! キミも、ここの住人か!」

 マッチョが呼び止めた。


「今度、ここに引っ越してくることになった、筋繊維 爆男はぜおだ!」


 俺は振り向いて、そのマッチョを見た。

 おそらく蔑むような目をしていたはずだ。


 こいつの頭みそは筋肉でできている。

 なにが、筋繊維 爆男はぜおだ。


 マッスルネームなのだろうが、それにしたってセンスを疑う。


「ところでキミ! いい前腕筋だね!」

 爆男はぜおはそう言って、白い歯をむき出しにして笑った。


 俺はこのマッチョを憎んだ。

 侮蔑の眼差しを向けて、すぐに立ち去る。


 なにが前腕筋だ。

 前腕の筋肉は前腕屈筋群とも呼ばれ、さまざまな筋肉で構成されているのだ。


 その全てをそらんじることもできないヤツがマッチョを名乗ることは許さない。


 いい前腕筋だと!

 俺は決してマッチョなどではない。

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