第2話 ダンベルは誘う

 俺は自宅のドアを開ける。


 そう言えば朝、隣の男が引っ越しをしていたっけな。

 今の今までそのことを忘れていた。


 アパートの廊下が綺麗になっていたから、もう隣は空き家なのだろう。

 すると、あの目が思い出された。


 爽やかな朝に不釣り合いな、俺を呪う目。

 頭を振って、そのイメージを追い払う。


 こっちは疲れて帰宅したばかりだ。

 あんな男のことは忘れてしまうおう。


 いつものルーティーンで、飯を食い、風呂に入り、一杯だけビールを飲んで寝床につく。

 なんてことはない、一日の終わり。


 そのはずだった。


 ドスン!


 あまりの大きい音に目が覚める。

 心なしか若干、部屋が揺れた様な気もする。


「何だってんだ!」


 スマホで時間を確認する。

 深夜の三時。


 しばし、迷う。


 外から聞こえた騒音という感じはしなかった。

 間違いなく部屋の中からだ。


 大方、何かの家具が倒れたということだろうが、それなら無視して寝るということもできる。

 起きてから家具を直せば良いわけで、今それをする必要はない。


 明日だって仕事なのだ。

 一度起きてしまうと、睡眠時間が大きく削られる。


 しかし、何かが倒れたとして、あんな音のする家具はあったか。


 冷蔵庫が倒れるなんてことはまずないだろう。

 というか、音の質が違うし、中のものが散らばったりしたら、もっと違うものになりそうだ。


 俺はあの大きな音を頭の中で、再生する。


 ドスン。


 何か重くて硬い、塊のようなものが落ちた音だった。

 そんなものは、この部屋にはない。


「くそっ」

 俺は音の出どころを確認するため布団から出た。


 未だ春は遠い。

 布団で温められた体は急速に冷やされる。


 真っ暗な中、俺はゆっくり歩いた。


 照明をつけてしまったら、完全に目が覚めてしまう。

 カーテンから漏れてくる月明かりでも十分床は見える。


 俺はゆっくり足音を立てないように歩く。


 俺は気づいてしまった。

 音がしたということは、音を立てるような動きがあったということだ。


 何もない部屋で、何かがひとりでに動く。

 そんなことはありえない。


 つまり、何かを動かす誰かがいるという可能性があった。


 忍び込み。

 住人が寝ている間に住居に侵入して盗みを働く。


 そんな輩がいるらしい。


 一番可能性のある状況だった。


 今からベッドに戻って寝るという選択肢はない。

 だが、このまま進んで窃盗犯と鉢合わせというのも勘弁だった。


 俺はそこで初めて、自分が何も持っていないことに気づく。

 こういう時はバットでも持っていたほうが良いだろうか。


 いや、そもそもバットが家にあるわけじゃないし、仮に持っていても狭い部屋で振り回して、相手に当たるかどうかは怪しいものだ。


 俺の頭はすっかり冴え渡り、眠気など消え失せていた。

 そろりそろりと歩く。


 寝室のドアノブに手をかける。

 ひんやりと冷たい感触が手のひらに伝わる。


 音がしないようにゆっくりと回し、薄くドアを開く。

 狭い隙間に片目を合わせて覗いた。


 リビングへと向かう廊下に影はない。

 気配もない。


 いくら泥棒がプロだと言っても、息はするだろう。

 そういう気配すらないのだ。


 侵入者はいない。


 はずだ。


 俺は自分に言い聞かせるようにして、ゆっくりとドアを開ける。

 侵入者はいないという暗示をかけないと、固まって動けなかった。


 足音を立てないように廊下に出る。


 問題ない。

 未だ気配はない。


 そう唱えながらリビングへと進む。


 リビングと言っても、かなり狭い。

 隠れるような場所はない。


 この距離で息遣いが聞こえないわけがない。


 壁で隠れて隅の方まで見えないことが不安を煽る。


 ケチって既製品のカーテンを買ったものだから、丈が足りずに月明かりは窓の下から漏れている。


 大丈夫だ。


 俺は意を決し、ばっとリビングへと飛ぶ。


「なんだよ」

 やはり誰もいなかった。


 どうやらまだ頭が半分寝ていたらしい。

 夜中に窃盗犯が自宅に侵入してくるなんて妄想をまともに思えてしまうのだから。


 そう思って、一応窓の鍵を確認する。


「問題なし」

 そう口にして自分を安心させる。


 いくら頭で妄想だと断定しても、鼓動は未だ早鐘のように鳴り響いている。

 心身を落ち着ける必要があった。


「寝るか!」

 頭は完全に冴えているが、寝室に向かうことにする。


 横になっていれば、寝ることもできるだろう。

 そう思って振り返る。


「えっ……」


 廊下の向こうには玄関がある。


 月明かりはそこまで届いているが、とても薄い。

 そこは闇が濃く、あるはずのドアが真っ黒に染まっている。


 なのだが、一点、光があった。


 俺は近づく。


 寝室のドアの向こう。

 玄関との間に、光る何かがある。


 それは僅かな月明かりを反射していた。


 暗闇でもわかる金色の光。


 そう、あれは隣人の男が引っ越した昨日の朝。

 ゴミ捨て場で見た、あれだった。


 床には金色のダンベルが転がっていた。

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