そのダンベルを手放さないで

月井 忠

第1話 筋肉……触れ合い

 俺がドアを開けると、目の前を人が通った。


「おっと」

「あっ、すいません」

 男は謝ると、一旦止まる。


 見たことのある顔で、おそらく隣人の男だ。

 筋肉質ではないのだがガタイが良くて、タッパもある。


 普通にしていれば圧迫感を感じるのだろうが、背中が曲がっていて、どうにも小さいイメージのある男だった。

 手にはダンボールを抱えている。


 後ろ手にドアを閉め、隣を見るとドアは開けっ放しで、引っ越し業者と思われる男たちが出入りしていた。


「お引越しですか?」

 普段なら挨拶で終わるはずだったが、聞いてみた。


 もし引っ越す予定なら、これが最後の別れになるだろう。


「はい」

 男は苦笑いをする。


 よく見ると目の下にはくまができていて、いかにも調子が悪そうだった。


「あの、大丈夫ですか?」

 俺は心配になって聞く。


「え? は、はい」

 男はダンボールを持ったまま突っ立っている。


 こちらも、その男を放置して立ち去ることができず、二人で棒立ちとなった。


「あのっ! その……深夜に物音しませんでしたか?」

 突然男は目を見開いた。


「……いいえ」

 少しだけ気圧されながら、俺は答える。


 調子が悪そうだった男の目には何か異様な光があったのだ。


「そうですか……それなら……いいです」

 そう言うと、男は大きな背中をこちらに向け、階段の方へと歩き出した。


 何だったのだろう。

 疑問に思いつつも、スマホで時間を確認する。


 通勤時間には、まだ余裕はある。

 男の背中を追うようにして、一緒にアパートの外に出た。


 思った通り、アパートに面した道路には引越し業者のトラックが止まっていた。

 男はダンボールを地面に置くと、再び棒立ちとなった。


 その視線を追うと引越し業者がせわしなく働く姿をぼーっと眺めているようだった。


 あの男、大丈夫か。

 そんな風に思うが、何かができるわけじゃない。


 俺は彼らに背を向け歩きだす。


 ふと、ごみ置き場に目が行った。

 いつもより量が多かったからだ。


 おそらく、あの男が引っ越しをするということで粗大ゴミを出したのだろう。

 だが、その中にひときわ目立つ物があった。


 ダンベルだ。

 しかも、金色のダンベルだ。


 それが無造作に捨ててある。

 そもそもダンベルはこうして、捨てて良いものなのだろうか。


 まだ時間はある。

 俺はかがむと、試しにそのダンベルを握ってみた。


 近頃、全く運動をしていない。


 このダンベルを持ち上げることができるだろうか。

 そう思ったのだ。


「重っ!」

 びくともしない。


 見た目からは想像できないほどの重さだった。

 どうやら、筋力も落ちているらしい。


 それともこのダンベルが上級者向けなのか。

 年は取りたくないものだと、まだまだ若いくせに思ってしまう。


 ふと背後から視線を感じた。

 未だ引っ越し作業中であったトラックの方に目を向ける。


「えっ?」

 そこには、あの隣人の男がいた。


 調子の悪そうだった男は今、まっすぐに背を伸ばし目をこれでもかと見開き、俺のことを見ていた。


 驚愕、いや恐怖、もしくは憎悪の色が見えた。

 俺はすぐに小走りになって駅へ向かう。


 なんなんだアイツは。

 俺が何をしたっていうんだ。


 せっかく最後の別れと思って声をかけたのに、それを仇で返すなんて。

 歩きながら俺は毒づく。


 あの目には、間違いなく俺を呪う意思があった。

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