14
ぱっと、瞬きのような軽さで瞼が開かれる。
カランコエは茫と何処かに立ち尽くしていた。
視界一面が暗く、辺りは静寂に包まれている。まるでまだ気絶しているのではないかと勘違いしてしまいそうなほどだった。
床に着いた蹠の感覚だけを頼りに、体の方向を適当に変えてみる。
その時、丁度腹を向けた先から仄々と灯が差し込んだ。
顕になった室内は、意識を失う前までメリアと話していた自室と良く似ている。視界の端に映る室内の雰囲気に何処となく違和感を覚えながら、灯りの先を追う。
廊下に並ぶ洋燈の煌めきを遮るようにして立つ人物が其処にいた。
「…フェルディア?」
掠れた声がカランコエを呼ぶ。
たった今この部屋の扉を開いたのはカランコエの主人であるレーグルス・アイオライト、その人だった。
「殿下?」
カランコエは恐る恐る呼びかける。
逆光を受けたレーグルスの表情は窺えない。ただ、この空気感に異様な感覚が素肌を這った。
「なんで、お前がここに、いや、お前のその匂い…」
レーグルスは片手で口元を抑えながらフラフラと覚束ない足取りで室内へと侵入する。
一歩、距離が近づいただけだ。彼がただカランコエのいた部屋に一歩足を踏み入れただけだったのに。瞬時、カランコエの皮膚が粟立つ。
先ほど抱いた違和感が質感を持ってカランコエの肌を撫でた。冷たい風が肌の上を滑り、そのまま冷感を置き去りにしていくものに近しいかもしれない。何かが肌の上に膜を張っているようだった。それはレーグルスが一歩部屋に踏み入るなり、壁中を走り回り忽ちカランコエを包囲した。
部屋に広がるそれ、レーグルスから溢れ出す其奴は、カランコエの持つ魔力すら飲み込まんとする膨大な魔力だった。
正しく、蛇に見込まれた蛙のようだった。
体は硬直したままで、呼吸すらままならない。酸素不足の脳が悲鳴をあげている。
互いの僅かな息遣いだけが部屋に響いていた。
立ち竦んだカランコエの目の前に立ったレーグルスは、彼の肩を強く押して床へと転がす。先程まで地面に吸い付いていた足は簡単に剥がされ、カランコエは転倒する。
レーグルスは何も言わぬまま馬乗りになり、そのまま大きく口を開く。
「…せ」
不意に、ぽつりと掠れた声を落ちてくる。
「……殿下?」
カランコエは、その僅かな理性を逃さなかった。
漸く解けた金縛りから逃れるように上体を起こそうとする。
「刺せ、早く」
「…は?」
言葉の理解が難しいまま黙り込めば、その間もぼたぼたと、彼から滴る汗が燕尾服を濡らしていく。
「駄目だ、今の俺は、違う」
駄々を捏ねる子供のように途切れ途切れの言葉がこぼれる。ぐるぐると彼から音がする。彼の腹の虫が空腹を知らせている。
カランコエは捕食者と被食者の立場を理解する。過去に襲われた竜族は何を思ったことだろう。鼓動が耳元で鳴っているかのように騒がしかった。息が詰まる。
「…ゔ、ぐっ!?」
瞬時、レーグルスの腕がカランコエの首へと伸びた。
起こしかけた身体は床に叩きつけられ、首にはレーグルスの手が宛がわれる。乾燥した指の腹の皮膚が喉仏に強く押し付けられた。
「…ッ」
かは、と息が洩れる。
救いを求めて、手足がバタバタと闇雲に蠢いた。
ギリギリと首を絞める力が強まっていく。視界が白む。手足が痺れる。
ぐ、と意識を保とうと踏ん張る脚を動かしたところで、固いものがポケットの中を転がる感覚がした。
「…ぁ」
思い出す。ずっと持ち運んでいたものがあった。
それは食べ物でもなければ、本来凶器にするために預けられたものでもない。それでも。
カランコエは自身の首へと伸びる腕に片手で抵抗をしながら、空いた左手をポケットに入れる。其奴の感触はすぐに指先に訪れ、ジンと痺れを伝播させた。
ぐ、と強く手で握り込み、残った気力を振り絞り手を上げた。そのまま、鋭く尖った其奴を彼の、主人であるレーグルスの首筋へと思い切り叩き込む。
皮膚と皮膚がぶつかり合う感覚があった。それと、何かがぷつりと皮膚を貫く感覚も。
薄い膜が穴を開けられる。膜の抵抗を受けなくなったその物体は力のままに彼の首へと飲み込まれていく。
首にかけられたレーグルスの手の力が徐々に弱まり、身体が酸素を求めてがむしゃらに息をする。
そこで、目の前が白一色に染まった。
「…は」
緩徐に視界が戻っていく。
どうやら暗いところから急に明るい場所へと引き寄せられたが故、眩しさに目がやられてしまっていたらしい。
きょろりと辺りを見渡せば自室であった。窓からは陽光が差し込んでおり、先程の薄暗い部屋で抱いた違和感もない。
「もしかして、なんかヤバいとこだったりした?」
呆然とするカランコエに尋ねたのは、先程の一件を起こした張本人だった。メリアは変わらずベッドの上で胡座をかい状態でカランコエの顔を覗き込む。
手には確かに感触が残っていた。未だ震える指先を織り込んで拳を作る。握り込んでいた凶器となってしまったもの、父から贈られた宝石は置いてきてしまったようで、失ったそれだけが先程の出来事を現実だと証明していた。
「…いえ」
首を横に振る。
先程見たレーグルスの様子は明らかに普通ではなかった。あの姿を言いふらされるのを彼は良く思わないだろう。
カランコエの姿から只事ではないことは明け透けだったが、メリアも特に気に留めてないようで形式だけの確認のように「そ?」とだけ言えば前のめりだった体制を崩す。
喉を整えるように、けふけふと何度か咳払いをした頃には手の震えは治っていた。
「っと、それで、先程のものがメリアさんの能力とのことでしたが…」
先程の出来事の発端はカランコエがメリアの能力を聞いたことにある。恐らくメリアの能力よりあの空間へと飛ばされたのだろうというところまでは推察できるが、あの場が何だったのかまでは掴めなかった。
「あー、そう。君が何見たかは知らないけど」
メリアは一つ点頭して続ける。
「今のは、この場で起きる未来の出来事。俺、指した人間を身体ごと過去か未来へ送ることができんの」
「…未来の」
違和感の正体がわかり、霧が晴れていく。現在いる自室と先程送られた場所を比べれば、僅かに荷物が増えていた気がする。未来の自分もまだ此処にいて、自身の所有物を増やせるくらいにはこの場に馴染んでいたのだ。
暫くはこの場所に止まっていられることを確約された。
そんな安堵感と共に、不安の種も芽吹いていた。
レーグルスのことだ。自身が首元を刺したというのもあるが、そもそも何故彼はあのような調子だったのだろう。足取りも心許無く、普段の彼と比べて不調なさまが顕著だった。
そもそも、何故彼はカランコエの部屋へと訪れていたのだろうか。口ぶりからするにカランコエが部屋にいるのは想定外だったようだし、カランコエの持つ魔力に反応しているようにも思えた。
事前に解き明かせば、彼に襲われそうになった先程の出来事を、彼に楯突いた己を取り消せるのではないだろうか。
考え込むカランコエに対し、メリアは何も言わなかった。
暫くの沈黙の後、部屋にノックが響く。
「フェルディア、いるか」
扉越しに聞こえた籠った声の主はレーグルスだ。先方、耳にしたのとは異なる平坦な声音に胸を撫で下ろす。
カランコエは慌てて椅子から立ち上がり扉へと駆け寄る。取手を捻り扉を開くとマスクを装着したレーグルスの姿があった。
「お呼びですか、殿下」
呼応したカランコエと相対すれば、先ほどまでの落ち着いた様は何処へ、レーグルスは訝しむように眉を寄せた。
「…なんかお前…」
「?どうかしましたか?」
レーグルスは暫く黙り込みマスクの内側でスンと鼻を鳴らした後、いや、とため息混じりに言った。
「なんでもない。兎も角、向こうの情勢も一旦は落ち着いたようだが…話し合いの方はまだ続くだろうな。婚約成立が前提の協定もあったから」
「またビオシュ公国に赴くんですか?」
「いや、暫くは書面でやり取りをすることになったよ。王族が揃って国を留守にするのも良くないからな」
「んで、その時に頼られるのが俺ってわけ。メリア郵便屋さんだね」
いつの間にベッドから降りてきていたのか、メリアは話に割って入ると同時にズズイと身体をカランコエとレーグルスの間に差し込む。
「ああ、今後とも頼む」
「まー、任せてよ。仕事はそこそこ真面目にするしぃ」
平然と話を続ける二人はカランコエを置いてけぼりにし、話を区切らせるとメリアはそのまま廊下へと出ていく。
「また必要になったら連絡して。じゃあね」
メリアは簡潔に話を終えると、そのまま背を向けて走り去っていく。足音が遠のいたのを確認して、カランコエは浮かんだ疑問を提示した。
「先日ビオシュ公国へ向かった際のことも、国際問題の書面を簡単に預けられるのもそうですけど…、メリアさんってこの国とかなり密接にあるといいますか、信頼をおかれてますよね」
「まあ、そうだな」
思い返せば、カランコエを連れてきたのだって恐らくクロガネから何らかの頼まれごとをしていたのが理由だろう。加えて、この宮殿の肖像画が保管されている場所に彼が描かれた絵画が残っている。
メリアだって竜族だ。何故、彼が此処までこの国と信頼関係を築けているのだろう。カランコエと同時期に助けられたあの少女は別として、メリアが他の竜族と親密にしているところはあまり見たことがないし、そもそも竜国に帰っているのかすら知らないが、それにしたってキシペタカルレ王国は竜族に対して攻撃的だし相互的な信頼関係の構築は難しく感じる。
「メリアさんは、いつからこの国にいるんですか?」
「さあ。少なくとも六代目から関わりがあるみたいだがな」
六代目と言えば、殊更竜族との不破を悪化させた国王ではなかったか。
カランコエは今回、ビオシュ公国へと向かうことはなかった。向かう可能性すら考慮されなかったのだ。レーグルスの専属執事として配属されて数節。この存在を公にもされていない。
そもそも、レーグルス自身が表に出ることもないため仕方がないことだとは思う。なにより、カランコエは出身が新竜帝国の皇族だ。世に出すと面倒も多いだろう。
竜族で人間より優れた能力持っているとしても、同じく竜族で優れた手腕があり数十年、関係値を築き上げた人には敵わない。理解はしているが自分の頼りなさが不甲斐なく感じた。
「何かあったか?」
「いえ、何も」
焦ることはない。まだ暫くはこの場に置いておいて貰えるのだから。
カランコエは萎む思考回路を払拭するように被りを振って、そういえばと話を切り出す。
「どうして此方にいらっしゃったんですか?」
普段、レーグルスがカランコエの部屋へと訪れることは滅多にない。そもそもがカランコエの方からレーグルスへ会いに行くし、そうしては突っぱねられての毎日だった。
レーグルスは調子を戻して尋ねたカランコエの表情をまじまじと伺った後、特に用事はないと答える。
「久しぶりに戻ったから顔を見ておこうと思っただけだ。また明日からは今まで通り働いてもらうからな」
その様子なら大丈夫そうだな、と言い残して彼は部屋から出ていく。レーグルスのことだ。カランコエの普段との調子の差異に気がついていない訳が無い。
「…はあ」
聞こえないように扉を閉めて、ため息を一つ。
手に残る感触がじわじわと再燃し、彼を傷つけた事実をカランコエへと突きつけていた。
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