幕間/至善になぐ。

 




 訓練で薄汚れたシャツとズボンに着替え、帽子の上からポンチョに付いているフードを被る。縦長の鏡の前でぐるりと一回転。少し汚れすぎているかもしれないが、自身と同じくらいの歳をした子供もきっと、このようにしてすぐ服を汚して遊ぶものだ。申し分ないだろう。

 窓の鍵を開けて向かいの木に移ってから、なるべく物音を立てないように息を潜めて慎重に降りていく。無事地面に着地すれば仄かに香る何処か懐かしい匂いに後ろ髪を引かれた。辺りを見渡しても特筆した変化はない。

「…なんだろ」

 ほんの少しの疑問と小銭の入った小袋を抱えたまま、駆け足気味に抜け道へと足を進めた。



「あら、坊や。久しぶりじゃないかい?」

「お久しぶりです」

 正午。迷うことなく真っ直ぐに訪れたのは王都を賑わせる露店街の一角に立つ、ホットサンドを売っている屋台。来るたびに屋台の奥に立っているおばさんとは、もう顔見知りと言った仲で時折抜け出しては此処に足を運んでいる。

 何を隠そう、ここのホットサンドは王宮で出る料理よりずっと美味しいのだ。味はするし、なんなら濃い。それに加えて暖かく香りもいい。普段出される料理とはまるで比べ物にもならない。

「ホワイトクリームが入っているやつを一つください」

 メニューに目を通す中ふと少しとろみのついたシチューのようなものが中に入ったホットサンドの絵に目が止まり、迷わずそれを指さしてみる。

「珍しいね。いつものに比べて少し値段が上がってるが大丈夫かい?」

「はい。今日は折角の誕生日なので贅沢でもしてみようかと」

「ああ、そりゃめでたい。ホワイトホットサンドね」

 くくり、と笑ったおばさんが作ってくるよ、と店の奥へ消えていく。此処の露店は、おばさんの持つ大きな一軒家と繋がっており、調理場は家の中にあるキッチンを使っているらしい。

 調理の過程は見ることができないため暇潰しに街行く人の話し声に耳を傾ける。今の自分は、あくまで買い物に来た一市民だ。

「あ…見た…よ。絶…く…って」

「ああ。……も………だよな」

 作業服を着た男たちが駄弁っている。確か、あの服は交通機関で働く人達のものだろう。話しているのは噂話と言うわけでもなく、どうも彼らが目にした珍しいものに纏わることらしい。

「な……う、く……んて」

 ぎ、と目を凝らして口の動きを伺う。何故、広い道の向かいにいるのだ。口の動きは見え難いし良いところが途切れて聞こえない。パズルのピースが足りない時はこのようなむず痒さがあるんだろう、などと、したこともない遊びの起きたこともない感情を想像する。

 男達が離れたのを確認して、ため息混じりに聞こえた言葉の穴埋めをしていく。一人で時間を潰すには持って来いだ。先程見た男達の口の動きをなぞる。

「…う、ぞく」

 口にして、どくん、と心臓が跳ねた。気づいたら、いけないような。ドッと冷や汗が湧く。

「はい、お待たせ!」

 瞬間、背後から言葉を遮られる。注文していたものができた様子で、おばさんの手にはこの店のロゴが描かれた四角い紙袋があった。紙の奥から湯気が立っている。おばさんが言う出来立てほやほや、といった表現が似合うような。

「ありがとうございます」

「ああ、待ちな」

 メニューに記された通りの硬貨を出そうとして一度静止される。それから、こちらにぎゅっとホットサンドを握らせれば、首を掻いて恰幅の良い腹を叩いて笑った。

「折角の誕生日なんだから値段はいつもと同じで良いよ。しがないおばさんには、こんなことしかしてやれないけどね」

「……ありがとうございます」

 いつも通りの安い、これっぽっちという言葉が正しいほど少ない硬貨。それらをざらりと机に出せば、おばさんは満足げに頷いた。優しい大人もいたもんだ。屋台の隣にある階段に腰掛けて、いただきます、と何処かの挨拶をした後に一口。

 ざくりと食パンの焼けた表面が心地よい音をたてた後、歯に圧縮されたパンがきゅうと縮こまり、切断面からホワイトソースの味が広がる。数月ぶりといっても誇張ではないほど久しく舌の上を踊る味は脳を美味しい、と言う単語で支配することが容易く可能なくらいには堪らない。熱いソースに舌が悲鳴を上げるのすら心地良い。どろりと溢れる玉葱の少し残る辛味が刺激と共に甘いホワイトソースと合わさり、味を飽きさせない程度に主張している。

 もぐ、と口を動かしていると、ふとおばさんが口を開く。

「そういえば殿下も今日が誕生日だね」

 ぐ、と喉に引っかかりかけたパンをどうにか押し込んで咳払いを幾つかした後に首を傾げて見せる。

「…殿下?」

「ああ、王宮のお偉いさんだ。現時点での第一王位継承者だね」

 そう、と小さく返して城の方へ目を遣る。此処からでもよく見える大きく聳える王宮。

「…そうだったんですか」

 第一王位継承者、レーグルスはまだ生まれて間もない頃、一度だけ国民の前に姿を出したことがあるという。国民が持つレーグルスの印象はいつまでも赤ん坊のまま。それなのに生まれた日を覚えられているというのだから、王位継承者などという立場は可笑しなものだ。

 最後の一口を飲み込んで包み紙を折る。階段から軽々と飛び降りれば、店主へと頭を下げた。

「今日も美味しかったです、ありがとうございました」

「いいんだよ、またいつでもおいで」





 スンと動く鼻がその匂いの正体を突き止めようとしていた。毎年この日だけは自由を与えられていたはずだ。なのに何故、呼び出されているのだろうか。

 現在、呼ばれて訪れたこの部屋は豪奢な装いもなく、王宮の中では質素な部類だ。扉も廊下の方とは異なり目に優しいものになっており、他はソファと机、大きな絵画が一枚と窓に取り付けられたカーテンがゆらゆらと揺れているのみ。こんな場所で話とは一体なんだろうか。

 向かいのソファに腰掛けて足を組んでいる男は現国王の側近騎士であり、言うなればお気に入りだ。あの国王の感情で支配されたこの城の中では、俺よりも立場が上の存在。

「何用でしょうか」

 口を開く素振りの見せない相手に問いかけてみるが、目の前の其奴は、かぶりを横に振るのみだ。奇妙な光景に納得がいかないまま言葉を飲み込むと不意に扉が開く。

 扉の外から、ぶわりと脳を支配されてしまいそうなほどに強い匂いが飛び込み、一瞬にして部屋中に広がった。視界が揺らぐ。家具の線が、前方に腰掛けていた騎士の姿が幾重にも重なる。

「…誕生日だと心が浮ついていたんじゃないか。だらしない」

 眉を顰めた俺を一瞥して、大きな図体をした男が冷めた瞳をぎょろりと動かす。ああ、その低くがらりとした濁声が何とも腹立たしいものか。

「ともあれ、折角お前も十五になったんだ。専属の執事とやらを与えてやろうと思ってな」

 其奴は不意に自身の背中へと右手を伸ばすと、何かを掴むような仕草をした後に放り捨てるように素早く腕を振るった。

 どさりと、何かが地面に落ちる。

「…りゅう、ぞく…」

 先程まではいなかった、クリーム色に近い金髪の少年が数メートル先で倒れている。よたよたと起きあがろうとする姿は小さい頃、祖父に教えてもらった子鹿のようなのだろう。

「そうか…くく、嗚呼、お前にはわかるだろうな。あの獅子肉を食ったお前なら」

 サァ、と寒気が走る。

 少年がこちらを見ている。先程までソファに腰掛けていたはずの騎士は男のすぐそばに駆け寄っていた。

 吐き気が込み上げる。

 何とか立ち上がった少年は先程までの弱々しい様子は何処へ消え去ったのか、ぐ、と力強くその場に立つと腰を折り、深く頭を下げた。

「本日よりレーグルス殿下の執事として任命されました、カランコエ・ブロスフェルディアナと申します」

 頭垂れていた其奴が冷め切った表情の顔を上げた。冷たい視線が突き刺さる。部屋中に広がった香りと、其奴の声が腹を奥底を掻き混ぜた。先程食べたホットサンドは何処へ行ってしまったのか。

 その昔、神殿で育てられた獅子の肉を食わされたことがある。それこそ神聖で良いものだと誰もが言っていたからだ。だから、出来損ないの俺を改善する為に、と称して無理矢理口に詰め込まれたことがある。

 後から知ったことだが、その獅子の食糧が。

「どうだ、お前が食った獅子が取り込んでいた竜の香りがするだろう」

 ぐらり、或いは、ぐわんぐわんと脳が揺れる感覚と胸焼けがさらに吐き気を促進させる。この男は、なんて非道なのだろうか。

 こんなことならさっさと逃げ出してしまえば。朝の時点で、もっと気がついていたなら、などと易々帰ってきた自分を恨む。後悔先に立たずというが、もしその後悔の元となる種が他人による故意のものなら、恨むのは自分じゃなくて其奴でも良いのだろうか。

 うだうだと蛙鳴蝉噪を脳が語っている。ああ、余計なことを考えてしまっている。だってそうでもしないと、この空腹感を抑えることが難しい。




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