07





「レーグルス殿下」

 模造剣同士の打擲の音が響く広間に駆け込んだのは、この場の人間に相応しくない身形の整った男だった。

 背丈はそこそこに、まだ幼さの残るその顔を緩めた青年が向かう先には、これまた同じくらいの歳の顔立ちをした男が座っていた。彼は呆れた面持ちをして、その場に立ち上がると自身についていた砂埃やらを乱暴に叩いて青年の方へと身体を向ける。

「…フェルディア、お前な。俺はあまり絡んでくるなと言ったはずだ」

 フェルディアと呼ばれた青年、カランコエ・ブロスフェルディアナその人は先に呼んだレーグルスの専属執事であり、また彼の発言通り距離を置くように命を受けていた。

 そんな発言なぞ知りもしないとでも言うように、カランコエは足繁くレーグルスの元へと通っていたが。

「殿下の事情は理解しております。しかし数分であれば、こうして顔を合わせられているではありませんか」

 カランコエはレーグルスの発言に何食わぬ顔で言って退ける。汗や砂、時には跳ねた泥で汚れたりと血が滲む鍛錬を重ねている主人を放っておくわけにはいかない、と彼は大袈裟に拳を作ってみせた。眩しいほどの笑顔にレーグルスの顔が歪む。初対面の際に見せられた毅然とした態度や廊下でおどおどと当惑しながら自分の後ろを追っていたあの姿は何処へ遣ってしまったのか。

「殿下にとって、この主従関係が命ぜられた故の名ばかりのものであったとしても私達個人は互いの関係は良好であるべきでしょう?」

 彼はレーグルスに渡す白いタオルを畳む片手間で語る。

「…はあ」

 レーグルスは受け取ったタオルで乱暴に肌を拭いながら、溜息を吐いた。

 カランコエの言い分は確かだ。命ぜられた主従関係がある以上、いざ表舞台に立った時のためにも互いのことはある程度、把握できていた方が良い。しかし彼があっけらかんと提案してしまうのがレーグルスは気に食わなかった。

 カランコエが危険に脅かされないのはレーグルスの理性があってこそだ。口内を潤すために湧いてくる唾液の忌々しさを彼は知らない。

 これ以上、何を言っても無駄なのだろう、と思考を切り捨て首を振る。日差しが傾き始めた空を見上げ、模造剣を籠へと放り投げた。

 一級騎士団こそ、自身が普段扱う剣に寄せた模造剣が送られる。だが、まだ見倣いのものなんかは安っぽい模造剣を皆で使いまわしているのだ。いくら王宮とはいえ、壊れやすく数が嵩むものの出費は考えるらしい。使いまわされ幾らかささくれができた模造剣は握るたびに手のひらに食い込む。

 赤く腫れ上がった手のひらの皮膚を隠すように真っ白なタオルを握りしめた。

「さ、もう戻るか」

 レーグルスはパッとタオルから手を離し、カランコエが慌ててそれを拾う。清潔だったタオルには赤茶色の血が滲んでいた。

 この場にいたのはレーグルス一人だ。

 この稽古場は広々としており、先に訪れた時は他に模造剣を交えている男達がいたが、彼らはレーグルスから数メートル距離を取っていた。

 レーグルスは一人で模造剣を握っていた。振るっていた。この時間、ずっと。

「…」

 カランコエはレーグルスの後ろを歩きながら広間を見渡した。

 稽古を受けていた男達は各々帰る支度をしながら隅に集まって話している。レーグルスと、そしてカランコエとよっぽど離れた位置に彼らはいる。

 執事となるための教育を受けていた頃を思い返す。カランコエがまだレーグルスの専属執事に当てられると発覚していなかった頃は積極的に話しかけにきていたというのに。そうして集まっては騎士団はここぞとばかりにレーグルスを乏しめた。聞いたのは大概、彼の心証を落とす発言ばかりだった。

 カランコエはレーグルスへと目を向ける。砂埃で汚れた服は一国の王子に渡されるものとは思えないほどシンプルで荒い布でできている。

 此処はカランコエが生まれ育った場とは大きく異なるのだ。まだ未熟な背中を見て、勝手ながら孤独感が芽生えた。

 カランコエの居場所は広々とした宮殿だった。そここそカランコエの家で、そして牢獄であった。しかしカランコエは親に大層愛されていた。甘やかされていた。筈だ。

 一歩外へ出れば非難を受けるが、宮殿は暖かくカランコエを受け止めてくれる。

 だが、レーグルスといえば身を置くべくこの場所で後ろ指をさされているのだ。彼の親である国王は彼を蔑んだ目で見る。

「レーグルス殿下」

「なんだ」

 呼びかけに応じる彼の声は、ぶっきらぼうだ。乱暴に投げ捨てられたような、とにかくカランコエに優しく手渡したものではない。しかし、彼は此方を見るのだ。きちんと振り返り、その瞳孔をカランコエへ寄せる。

 誠実な人だと思う。

 レーグルスはカランコエに対して突き放すような発言を繰り返すし、広々とした宮殿の中で何度もその場に置いていかれそうになったこともある。しかし理由もなくそうしているわけではない。その上、言い難いであろうその理由を出会ったばかりのカランコエに明かしてくれているのだ。

 口篭ったカランコエの姿を見て、レーグルスは怪訝に顔を歪めたあと再度背を向けて歩き出した。

 カランコエにはレーグルスが悪意を向けられる理由がちっともわからなかった。



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