06
「…殿下」
広い宮殿。目的の部屋に辿り着くまで当然時間がかかるだろう。先程までいた部屋を出て数分は、そう思っていた。
それにしても、もう十数分は扉と窓で溢れたこの空間を眺めている。
「殿下」
彼は繰り返される呼明に反応することなく、ただ只管、早歩きで前を進んでいた。長く束ねられた髪が揺れる。
「…レーグルス」
「うるさい」
痺れを切らしたのか、レーグルスは立ち止まってカランコエの方を鋭く睨みながら続く声を両断した。呑気に、きょとりとした表情を浮かべたままのカランコエを数秒見つめて大袈裟に溜息を吐く。そして、困ったように寄せていた眉を指で解し、顔を正面へ向けて
「俺は竜族とは相容れない」
真剣な眼差しで、カランコエを捉えて確と言い放った。
「お前が執事になるのは構わないが、傍に着かせてやることはできない。騎士団の元に行くなり使用人に混ざるなり、好きに時間を潰していてくれ」
そうして、ふるりと投げやりに頭を横に振ってみせたレーグルスに、カランコエが口を挟む。
「竜族と相容れないというのは…先程、国王陛下が仰っていたことが原因ですか」
「…ああ。いや、見せたほうが早いな」
レーグルスは少しの逡巡の後、頷き、自身の後頭部へと手を回す。緩慢で、しかし何処か洗練された動作で、ガスマスクの紐を解いた。彼が深く息を吸う。そして、瞬時、眉を寄せた。顔色が悪くなる。冷や汗が伝う姿を見てカランコエが手を伸ばそうとすれば、レーグルスが右手の腹を見せて制止した。は、と弱々しく繰り返される息継ぎが静かな空間で際立って聞こえる。
「…殿下」
「この有様だ」
片手に持つガスマスクを潰しそうな勢いで握りしめて、彼は自嘲の笑みを浮かべる。
「俺は昔、お前達竜族を主食にした生物の肉を食った。…どうやら其奴の意志が強かったみたいでな、俺にとって竜族は食物になったんだよ」
そう語る鋭く尖った凶暴な歯がちらりと見えてカランコエが身を強張らせると、その些細な機微すら見逃さなかったのか、レーグルスは自身の口元を片手で隠す。
「俺には、お前達竜族の匂いがわかる。お前達だって美味そうなステーキを目の前にした時その香りを楽しむだろう。それと一緒だ。…竜族がそばにいると、ずっと、空腹感に苛まれる」
捕食者の鋭い眼光がカランコエを捉える。彼の持つ尾が馳走を前に嬉しそうに揺らめいている。
こうして対話ができているのはレーグルスの強い理性があってこそなのだろう。そうだとしたら、とカランコエは口を開く。
「それだけ苦しいのなら、どうして私を執事として認めてくださったんですか」
レーグルスがカランコエを傍に迎え入れた理由が理解できなかった。
先程あの場で襲ってしまうことだってできた筈だ。竜族と人間の力の差こそあれど、今後の関係を踏まえるとカランコエはレーグルスに対して牙を剥くことは許されなかった。加えて、あの場にはクロガネもいたのだ。彼の口振から察するにレーグルスが竜族を食物として見ていることは知っている様だったし、何より、レーグルスの執事として竜族を選抜したのはクロガネだ。最悪の事態は想定済みだったろう。
カランコエの問いに対して、レーグルスは考え込むように腕を組み、唇を結んで押し黙った。
広く長く続く廊下一帯が静まり返る。遠くから微かに聞こえる使用人や騎士の話し声だけが唯一聴覚から得られる情報だった。ゆっくりと時間が刻まれている。空気が流れていく。自身の脈拍がやけに大きく身体に響いているような気がした。
ふと、廊下に大きな埃のような影が落ちた。
差し込む自然の灯を見上げようと窓へ視線を遣れば、空から無数の雪が降り注いでいた。はらはらと花弁のように落ちていく。
「お前も、同じなんだと思った」
漸く、ぽつりとレーグルスが言葉を落とす。カランコエが、ちらりと声のした方へ視線を向ければ彼もまた窓の外を眺めていた。
「…それは」
「カランコエ。お前には帰る場所がないんだろう」
問いかけを遮った彼の歯に衣着せぬ言葉に心臓が強く握り締められる。
多忙さを武器にして無視してきた事実。自分が行方を眩ませて、もう数十日経過している。だというのに助けが無いのは、竜族が攻め込んできたと言う話が一切耳に入ってこないのは、キシペタカルレ王国と竜族の軋轢が原因だと思い込むようにしていた。
クロガネから執事になるように言われて二つ返事で引き受けたことだとか。レーグルスの護衛責務を担った時、もしもの出来事でこの国に居座ることが危うくなる未来を恐れたことだとか。
全て、心の底で理解していることの表れだった。カランコエは、ずっとあの国に帰ることを考えていなかった。気にしないふりをしながら、あの国に自身の居場所はないと知っていた。
レーグルスはカランコエが強く自身の両手を握り込む姿を視界に入れると、直様目を逸らした。見て見ぬ振りをするように、自身の発言はあくまで推察でしかないと言うように。
「だから、あの場から連れ出した。お前が執事になることを拒まなかった」
時刻は昼過ぎ。太陽は相変わらず高く登っていて、陽の光は眩く差し込んでいる。それでも雪が降るように世界は凍えていて、吐いた息は白を運ぶ。
「お前が一人にならないように」
カランコエには、輝かしく凍てついたこの世界で、その声が、その人が、とても温かく優しく感じた。
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