03
移動した先は窓に取り付けられたカーテンが呑気に風に揺れている簡素な部屋だった。
ダークブラウンの扉にヘリンボーンの床。大きな風景絵画が一枚、銀の額縁に納まり、白色の壁にかけられている。黒色のシックな机を中心にレザー製のソファが向かい合うように二脚。
ソファに向かい合うように腰を下ろし、クロガネは運ばれてきたコーヒーを口に含んでゆっくりと嚥下する。そのままコーヒーカップをソーサーに戻すと、足を組み膝の上に手を置いた。背凭れに上体を預けて、漸く口を開く。
「アングスフォリアの英才教育を受けていたのならば、うちの王位継承者の事も教わっているだろう」
「はい、存じております」
言葉に滲んだ嫌味を無視してカランコエが頷けば、クロガネは退屈そうに鼻を鳴らした。
キシペタカルレ王国のたった一人の王子にして王位継承者、レーグルス。十数年前、たった一度だけ王妃に抱えられて国民の前に姿を見せたきり、一度も表舞台に上がったことのない、国民の記憶の中ではまだいじらしい赤ん坊の姿のまま時が止まっている小さな王子。
彼は国民にとって期待の星だった。
キシペタカルレ王国の国王は、クロム・アイオライトやクロガネ・アイオライトも含む、これまで七名全員が傍若無人だった。そして、その立ち振る舞いに見合う能力があった。圧倒的な権力と武力。優れた統率力に洞察力。向かう所敵なしとはよく言ったもので、幾度、王自らが戦場に立ち勝利を掲げてきたことか。幾度、他国に喧嘩を打ったことか。
国民はレーグルスの手腕に期待をしている。アイオライトの血筋が持つ才を活かして、この殺伐とした空気を変えてくれる権力者を望んでいる。
当人の意識も記憶も無いたった一度の披露会で、国民から数多の支持を受けた存在。ただ生きているだけで褒められ、国民の希望になる。
自分とは正反対の存在だと、カランコエは記憶していた。
「お前には其奴の専属執事になってもらう」
「…は、い?」
平然を装い返そうとしていた言葉が喉に引っかかる。困惑の色を顕著にしたカランコエにクロガネは目を細めて笑う。
「私が、レーグルス殿下専属の執事ですか?」
「ああ。明日から執事長を教育係としてつける」
困惑が重ねられていく。意図が読めずに目が回る。
奴隷として捕らえられていた身だ。それこそ、キシペタカルレ王国特有の竜族に対する虐げを受けたり、或いは闘技場なんかで竜の剣闘士として見せ物になる可能性ばかりを追っていた。
それがどうだ。この国で国王の次に地位を持つ者に仕える立場を渡されようとしている。当然、其方の方がカランコエの想定よりもよっぽど良いが、そんな都合のいい話があるのだろうか。
「まあ、お前の身分なら執事の立ち振る舞いなど身近で見ていて知っているだろうが」
疑問を浮かべるカランコエを前に、クロガネは付け足すように言い、はたりとカランコエの思考は一つに落ち着く。
自分は貴族の身だったものだから助かったのか。
確かに、アングスフォリアの宮殿にいた頃は、いつも多くの使用人がカランコエの周りを往来していた。宮殿にいる者は皆、代々皇帝に仕える執事や侍女というのもあり洗練された働きでカランコエにも嫌な顔ひとつ見せず接してくれたものだ。質の良さは手本にするに適切だろう。
とは言え今はもう、あの使用人達が自分のことをどう思っていたのかなど考えてしまい、思い出すと少しばかり億劫になるものだが。
「それで、だ。二つ、話がある」
「なんでございますか」
自国を偲ぶ気持ちを払拭する様に、クロガネの声へと耳を傾ける。
「一つ、お前をつけるのは彼奴が15になったらだ。彼奴が15になるまでは会わないように別棟で過ごしてもらう」
「はい、承知いたしました」
難しくない指示にカランコエは二つ返事で頷く。この大きさの宮殿なのだから、そもそも意図的でなければ出会う方が難しいだろう。それに、生まれてこの方習ってきた帝王学から一転、執事としての礼儀作法を叩き込まれる必要があるのだ。宮殿を歩き回ることが許される時間も少ない。
もう一つ、と続けてクロガネが口を開く。
「彼奴は竜族が嫌いだ」
告げられた言葉に思わずカランコエの身体が固まる。
「でしたら、私は…」
「彼奴も次期国王だ。いつまで経っても種族差別をしている場合じゃないだろう」
困った様子のカランコエに被せる様にクロガネが言った。彼の言葉は尤もだった。カランコエはレーグルスのことを何も知らないし、レーグルスが何を思い竜族を嫌うのか見当もつかない。ただ過去数百年続くキシペタカルレ王国と竜族の間に漂う空気を見ても、竜族嫌いな者が国王につくことを良しとは思えなかった。
「まあお前は、あまり難しいことは考えなくて良い。執事として傍についておけ」
「…畏まりました」
カランコエの返事を確認し、クロガネは大きく息を吐いた。
「まあこんなもんだな…何か質問は?」
「ぁ、レーグルス殿下の生まれた日をお伺いしても宜しいでしょうか」
「ああ、言っていなかったか。10日後だ、初節の13日に15になる」
あっけらかんと答えたクロガネにカランコエは言葉を失った。
カランコエには当然、執事の振る舞いの知識も経験も無く、況してや主人は竜族嫌い。どれだけ猶予を与えられても足りないような気はするが、心構えはしておきたかった。
たった十日。心構えどころか、執事としての立ち振る舞いを覚えることができるかすら危うい日数なのではないか。胸中で頭を抱える。
黙り込んだカランコエを見て、クロガネは一つ息を吐いてからコーヒーカップを手に取った。ぐい、と残りを煽ればカップを乱暴にソーサーへと戻して立ち上がる。
「もう質問は無さそうだな。では10日後。失望させるなよ」
クロガネは一方的に言葉を残すと、騎士の一人をその場に残して部屋から出ていく。遠のく二人分の足音を、カランコエは呆然と聴いていた。
座り込んだままのカランコエに騎士の一人が近づき、声をかける。
「それでは別棟へ移動しましょう」
「…ぁ、ええ。ご案内の程、よろしくお願いいたします…」
カランコエはこんがらがった頭を片手で押さえながら不器用に立ち上がる。騎士の男は平静な顔のまま、カランコエを別棟へと導く。
この宮殿で状況を飲み込めていないのはカランコエだけだった。
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