03
「竜族か?」
「いや、でも宝石が何処にも…」
甘い甘い、幼少の夢は何処へ。意識が浮上し、重い瞼が持ち上げられたことにより、悲惨な現実を突きつけられた。視界は朧げで、目が覚めたばかりだというのにすでに眠気が襲ってくる。
空腹感は既に何処かに捨ててきた。痛みもなく、感じるのは冷寒の羽衣だけ。悪臭が充満する閉鎖的な空間は薄暗く、部屋の隅に捨てられたカランコエは已む無く足を折り畳んで眠りに落ちていたことを思い出した。膝小僧に顔の半分を埋めたまま外の様子を覗く。
向かいの牢屋から手が伸びている。痩せこけた、幼い手がカリカリと宙を掻いて踠いていた。空腹を告げる音が何処からともなく聞こえてくる卑劣な環境下。此処は心優しい牧師が世話をしてくれる孤児院でもなければ教会でもない。薄汚い奴隷商人の店。
カランコエは込み上げるものを腹に押し戻して自分の足を抱き締めた。
此処に来る直後に何をしていたのか。曖昧な記憶では何も想起し得ない。ただ、竜国で一人でいるところを狙われ、人間界に落ちたところまでは記憶に残っている。味方に敵ありとはよく言ったのもで、城内にカランコエをよく思わない人がいた。これだけが現在となっては不要で明確な事実。其れからどうやって助かり、此処まで運ばれたのかは不明だが、大方、下衆な商人かその仲間に見つけられ、こうして売り物になってしまったのだろう。
この牢に投げ入れられた時の痛みがジクジクと己を主張する。清潔とは程遠いこの環境で怪我をし、まともな治療も消毒すらできていない。細菌が湧いている可能性があるのだから、当然の痛みとも言える。
不意に凄惨な悲鳴が轟く。恐らく地下にあると思えるこの場所は、よく音が反響する。定期的に悲鳴や狼藉の音が聞こえてきた。
ここにきて何日経過したか数えることすらできていないが、まともな食事を摂らずともまだ生きているということは一週間も経っていない。そんな事実すら塗り替えてしまうような、退屈と惨たらしい音。天井のシミを何度数えただろう、向かいに入れられた子供の縋る手を何度見ただろうか。
不意に、牢の外で人影が動いた。じゃり、と小石を踏む音と共にゆらりゆらりと揺れるその手に赤色の宝石が覗く。直感が告げる。竜族のものだ。
竜族は魔力の通る宝石を通じて同族として共鳴したり、家族としての一叢を作る。カランコエは表にこそ宝石はないが、其れらを感じ取る力は持っていた。男の手から流れる液体を確認するに、さきほどの悲鳴は恐らくその竜族のもの。竜族の宝石は当然、希少価値が高い。竜族同士で有れば自身の分をその身体に所持していることから奪い合いなどが勃発することはないが、ここは人間界でコレクターもいる。良い値で売ろうと引き剥がしたのか、切り取ったのか。
カランコエは、自分の耳にそっと手を併せて小さく息を吐いた。耳羽の裏に隠していた宝石がころりと顔を出す。宝石を持たないカランコエが父から譲ってもらったもの。愛しい息子の為なら、欠けても構わないと父は自身の輝かしい羽の一部を砕いてカランコエに渡した。それをお守りのように肌身離さず持っていたのは良いが、この状況である。いつバレて奪われるかも解らず、彼の竜族のように身体に手を出される確証がないとも言えない。ただでさえ、カランコエは髪色と耳の形状が竜族であることを物語っている。特に、竜族の宝石の位置は個々違っており、背中にできていて普段は隠れている者もいるのだ。身ぐるみ剥がされて、など屈辱もいいところ。
身の毛立つ憶測に浸っていた時、不意にガシャンと強く音が響いた。錆が叫く。牢の扉が開き、どしゃりと品なく人形を扱うようにして何かが投げ入れられた。それが何なのか、否が応でも理解してしまった。グン、と滴る同族の香り。血の臭いはしないため、恐らく先程の件の竜族でないことは確かだ。
思わず身が硬くなる。全ての竜族が偏見の目を持っているわけではないことは理解していた。何と言っても両親がそうだったのだから。しかし、嘲笑するに恰好の的とも言えた相貌だったカランコエの記憶の中にいる他者は一塊になって自身を迫害してばかりだった。いわれなき中傷。生傷、此処に至る原因ですら、上げ出したらきりがないほど。
「…は〜ァ。こっちは身体が売り物なんだから大切に扱って欲しいんだけどぉ?」
むくり、と転がっていた体が苦言を呈しながら起き上がる。槿花色と赤の二色でできた髪を片方に結い、額に大きさの異なるツノのような青く光るの宝石を持つ其奴は、耳にも取り付けられた棘を撫でながら鉄格子の奥を睨んだ。運ばれてきたばかりなのか恐らく私服であろう上着には先程投げられた衝撃でついた汚れしかついていない。
「んぁ、なに、熱烈な視線向けてくんじゃん?」
不意に、此方の視線に気づいた其奴が振り向く。カランコエの姿を視界に入れたその竜族は、彼の正体に気づくなり平然としていた目を細めた。
「なぁんだ。…そういうこと」
茶化すような口調が一変し、意味深に呟く。竜族であるなら、此方が相手をそうだと気づく時、相手もまた感じ取っている。まさに彼の深淵のような話である。先程まで鋭利な歯を覗かせていた唇を閉口し、後頭部を掻いて呆れ混じりに息を吐いた。
「君、運がいいね」
「……え」
竜族の男はそれだけ吐くと、上着の内ポケットから小瓶を取り出してカランコエに投げる。慌ててそれを両手で受け止めれば、何やら別の国の言語で長々と文章が綴られているラベルが貼られていた。男に顔を向けて首を傾げたカランコエに、彼は残念そうに目を伏せ眉を寄せて首を横に振る。
「残念なことに僕は同族に欲情する趣味はないけれど、子供に対する同情はあるからね。本当はその薬も僕用に貰ったお高〜いやつなんだけど、そもそも先に半分あげちゃったし、残り全部飲んでいーよ」
やれやれ、と天井に向けていた手のひらを下ろし、人差し指で小瓶を指す。少し振れば、ちゃぽん、と優しい水の音がした。彼の言う通り小瓶の中身は既に少し減っているようだが、だからと言って易々と信用していいのだろうか。召使いを筆頭に民に追放を促され今現在、奴隷にされようと此処に居る自分でも一応は王族だった身だ。他人から渡されたものに対する危機感は人一倍強い。それが体内に入れるものなら、殊更。
迷うカランコエの仕草に痺れを切らしたのか、眉間に皺を作った男は青い瞳孔の片方を伏せて、何なら自分が毒見をしてもいいけど、とぼやく。
「…そんなの何の証明にも…」
もし、彼が口をつけた方と逆に毒が塗られていたなら、それこそ嘘の裏打ちだ。頑なカランコエを見て、彼が数度目の溜息を吐いた瞬間だった。
「何をごちゃごちゃくっちゃべって芝居作ってんだよ。オイ、出てこい金髪」
鉄格子の奥には痩せこけた男と、ふくよかな肉体の男が其々汚れた身体で立っていた。
一瞬、呼吸が詰まり心臓が強く跳ねる。小瓶を受け取った時、思っていたより前に出ていたらしい肉体は縮こめても無くならないし真っ白な皿の上に置かれた肉のように目立つ。
「…」
はく、と息が洩れる。父から貰った宝石を奪われたら、もし宝石が見当たらないからと言った理由で身ぐるみを剥がされ、最悪解剖でもされたなら。先程までの想像がこの後現実になる可能性を突きつけられて背筋が凍る。
「オイ、聞いてんのか」
下賤な声が鳴いている。膨よかな男の命令で牢の扉が開き、痩せこけた男がカランコエへと忍び寄った。その時だった。
傍観者だった竜族の男が立ち上がり、痩せこけた男に足を振るう。其れをさらりと交わした痩せこけた男が牢の外に逃げようと背を向けたところを竜族の男が地面を蹴り、一瞬にして間隔を狭めて首に拳を入れた。膨よかな男が慌てて牢を閉じ、鍵をかけようとするのを諫めるように、男は自分の履いていたサンダルの紐を解いて蹴り上げ、膨よかな男に命中させる。
汚くひしゃげた悲鳴が上がりその場に立つのが竜族の男のみになったのは一分も満たない程、短い間の出来事だった。
「はァ。依頼料弾むって言ってたから来てみれば環境は劣悪で態度も最悪。まぁ奴隷商人って時点で期待してなかったし、こういう潜入の仕方だって計画を聞いた時点で多少は?想像してたし?そういうプレイだと思って楽しもうとも思ってたんだけどさ」
もう片方のサンダルも脱ぎ捨て、地面に素足を置いた男が握り拳を鳴らす。反響した騒音を聞きつけてか、血塗れの防護服を着た男が刃物を片手に寄ってきた。本能が警音を打ち鳴らす。少し乾き始めているそれが何なのか、理解しそうなほど冷静な頭が怖くてカランコエは小瓶のコルクを開けた。いつまで経っても痛みで動けないままより、応戦した方がいいかもしれない。生憎、カランコエは竜族として武器にもなる尖った宝石は持っていないし、火を吹くことだってできやしない。しかし、追放される前までは相応の武闘も習っていた。
小瓶を握る震える手を口元に寄せた時、竜族の男がその手から小瓶を奪い、中身を自分の口へと流し込んだ。
「…え」
「お前は座ってりゃいーの」
カランコエが葛藤していた間に防護服の男は地面に臥せっていた。音もなく、静かな犯行に目を丸める。
さて、と竜族の男が息を吐いた。
「曲がりなりにもこっちは竜族なんだわ。人間風情が調子に乗んなよ」
骨が砕ける音が鳴り響く。狭く閉鎖的なこの空間に轟くそれと繋がって、竜族、と確かに自分を称した男のその腰から異形が顔を出す。鋭く尖ったそれは、よく見知ったものだ。
更に奥に身を潜めていたのか、はたまた作業中だったのか、二つの影が大きな刃物と薬の瓶を持って駆け寄ってくる。今の今まで気を失っていた膨よかな男が目を覚まし、怒りに満ちた表情で立ち上がる。
それを冷酷な瞳で眺めていた彼は、強く結んでいた唇を薄く開けた。
「僕、人間は愛してるけど、ブスな奴はそもそも相手から除外してんだよね」
くるくると伸び続けながらも、ぐん、と力強くうねった異形が膨よかな奴隷商人の胸を突き刺す。肉体に空洞を開けることを前提とした力強さ。商人の背から飛び出した大きな槍には己が竜の尻尾であることを証明するかのように輝かしい宝石がついている。
膨よかな男は今にでも竜の彼を殴ろうとしていたのか、強く握られて準備万端と言わんばかりの拳が痙攣していた。男からこれでもかと言うほど血が溢れ出す。ひしゃげた内臓が所々顔を出している。砕けた骨が地面に散らばって砂利と同化していた。
目が回りそうなほどグロテスクな世界に、カランコエは息をするのも忘れていた。困惑と助けられた安堵感。無数の感情が混濁している。
竜族の男は踊っているのか、とでも言うように軽々しく人の命を奪っていく。伸び切った爪で皮膚を引っ掻き、鋭く長い尾で肉体を潰し、長い足で邪魔なものを蹴飛ばした。液体が飛び、骨が砕け、内臓が吐き出され、皮膚が破れ、髪が千切れ、人間がひしゃげる。投げられる薬の入った瓶を避け、逆に奪ってみては投げつけて無慈悲にも唇で弧を描いた。
「内も外もブサイクなお前達の人生でも最期の最後に僕の美形を拝めたことだけは幸運だね。自慢して回ってもいいよ」
水に濡れた動物が身体を振るように竜族の男が手で風を切ると、べちゃ、と壁に赤色が飛び散る。横暴なその台詞に見合うように、既に魂の抜けた肉塊を仁王立ちで見下げていた男は、静寂が訪れたことでようやく自我が戻ったのか、ハ、と弱々しく息を飲んだ。
「…やば、やっちったじゃん」
あわ、と情けなく男の唇が歪む。
「はぁぁ、わざわざ大ごとにならないように地下室にまで来たのに…ただ気絶させて捕縛するだけの予定だったのに!」
作戦無視しちゃったよぉ、と情けなくチャラついた声で喋る男は、まるで先程とはほど遠く別人の姿だ。あの竜族を彷彿とさせる凶器の尾も、いつのまにか仕舞っており、事情を知らない奴らが見ればこの人が数人もの大人の男を一人で殺めたとは思わないだろう。
男はあからさまに、がっくりと肩を落とした後、気持ちを切り替えるように力無く首を横に振るった。そうして顔を上げれば、ちらりと此方へ視線を遣り、
「ま、良いや。上物は無事みたいだし?ま、あっちの子が手遅れだったのは可哀想だけど」
そう独りごつ。あっちの子、というのは先の竜族のことだろうか。手遅れという言葉に身体が強張るのを感じる。ぎゅっと弱った力で拳を作れば、男が振り返ってカランコエを視界に収める。品定めをする様な視線を送った後、男の影はゆっくりとカランコエへ近づいた。ペタペタと素足が床に触れる音がする。嫌に水気を含んだ、湿気を帯びた音だ。
男はカランコエの目の前に付くと腰を下ろし、彼の腕を掴んでは、そのまま小さな身体を引っ張り上げた。
重力に抗う感覚。数日間、苛烈な環境に置かれたカランコエに抵抗する気力もない。況してや、目の前の人は同族で自分よりよっぽど長く生きていると見える。
「さ、ついておいで」
手を引かれるまま、半ば引き摺られるような形で薄暗い道を歩く。
同族である男が、竜族であるのを理由にカランコエのことを上物と云うとは思わなかった。であれば、カランコエの身分を知ってのことか、と思案してみる。そうなれば言い回しからして無事竜国に返してくれるわけがない。不安だけが募っていく。
「何処に…連れていくんですか」
乾いた喉を震わせて問いかけてみれば、男はぴたりと止まって此方に振り返った。鮮やかな赤色の尻尾髪が揺れる。
「新しいお家まで連れて行ってあげよう」
男は態とらしく、深い黒の瞳を隠すように目を細めた。
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