第22話:母の心

「うわあ……」


 六花りっかは思わず声を上げた。

 サンルームから出ると、剪定せんていされた美しい木々や花々が咲き乱れている庭に出た。


「もう春ですからね。庭が一番美しくなる時期よ」


 石の小径こみちを通っていくと、噴水の前に出る。

 日の光を弾いて輝く水滴を、六花はうっとりと見つめた。


「こちらへどうぞ」


 香澄が噴水の前にしつらえた長椅子を勧めてくれる。

 六花が腰掛けると、香澄が躊躇ためらいがちに口を開いた。


「六花さん……。実はあなたに話しておかなくてはいけないことがあって……」

「えっ……」


 深刻そうな香澄の表情に、六花はどきりとした。


「な、なんでしょう?」

「瑛人の弟のことなんだけど……」

「弟さんがいらっしゃるんですか!?」


 初めて聞く事実に、六花は驚きを隠せない。


「ええ、そうよ。二歳下で、今ドイツに留学しているの」

「ドイツ……」


 六花には縁遠い言葉だった。

 ヨーロッパ大陸の先進国だという知識しかない。

 この時代、外国に留学できるのは、ほんの一握りの秀才や富裕層の者だけだった。


(すごい……さすが瑛人様の弟君……)


「それで、とても婚約パーティーに間に合いそうにないのよ。申し訳ないんだけれど……」


 済まなそうに顔をしかめる香澄に、六花は慌てた。


「そんな! 外国からわざわざ戻ってきてもらうほどのことでは!」


 六花が本当の意味で公爵家の一員になるのは、結婚してからだ。

 婚約の段階で急いで顔合わせる必要はない。


「本当にごめんなさい。帰国したら、すぐに挨拶に向かわせますから」

「は、はいっ、お気遣いありがとうございます……!」


 公爵夫人に頭を下げられることになるとは思わなかった。

 瑛人もそうだが、香澄たちも身分の違う自分たちを見下すことなく、きちんと向き合ってくれる。

 それは日陰者として迫害されてきた六花にとって、驚くとともに嬉しいことだった。


「六花さん、本当にありがとう。婚約を受けてくださって」

「えっ、そんな……!」


 香澄の言葉は嘘偽りのない感謝に満ちていた。


「私こそ……私なんかでいいのか、とずっと思っていて……瑛人様は素晴らしい方ですし、不釣り合いなのではないかと……」


 口にすると落ち込む。

 自分はふさわしくないのではないかという思いがぬぐえない。


「ち、治癒の力もそんな……大したものではないですし」


 手を当てるだけでどんな怪我や病気も治す、という白鷺しらさぎ一族の話が浮かんだ。

 六花は一日一枚、渾身こんしんの呪符を作るので精一杯だ。

 香澄がやわらかい笑みを浮かべた。


「ずっと心配だったの。あの子のこと……。白狐憑きとして生まれて、呪力を制御する必要があった。負けん気が強くて、剣術や武道を習い始めると怪我ばかり。あげくに呪力を見込まれて、軍学校に入って妖魔を倒す仕事なんて……」


 香澄が遠い目になる。


「だから、早く身を固めてほしくて、たくさん縁談を持ち込んだんだけど、うまくいかなくて……。やっぱり白狐憑きということで、貴族のお嬢様たちには荷が勝ちすぎたみたいで。まだ若いし、しばらく静観しようと思っていたのだけど……」


 香澄の顔にかげりがよぎった。


「見たでしょう? あの子の胸の怪我」


 妖魔と戦って負ったという、凄まじい傷が浮かぶ。


「すごい出血で……妖魔の傷だからなかなか治らなくて、ふさがるのにも時間がかかって……。真っ青な顔色のあの子を見ても、何もできなかったわ」


 香澄が声を詰まらせるのを、六花は痛々しい思いで見つめた。


「だから、本気で結婚相手を探したの。家に大事に思う人が待っていれば、あの子も無茶をしなくなるんじゃないかって思って……」


 遠方に住む六花の元に縁談が来たのは、この母の思いからだと六花は知った。


「そういう存在になれれば嬉しいです。ただ、私、治癒の力はあまり大したことがなくて……」

「そんなの! あなたの存在自体が癒やしなんだから。あの子のあんな優しい顔、初めて見たわ」


 香澄がそっと手を握ってくる。


「あの子のそばに貴方のような女性がいてくれて本当に嬉しい。末永く、あの子をよろしくお願いします」

「私こそ……よろしくお願いいたします」


 胸がいっぱいになり、六花は涙をこらえて頭を下げた。

 こんな風に頼りに思ってもらえているとは知らなかった。


「風が出てきたわね。そろそろ戻りましょうか」


 香澄とともに小径を戻ると、ちょうど瑛人が庭に出てきていた。


「遅かったな。心配で迎えにいこうと思っていた」

「あらあら。ほんの少しも目が離せないのね」


 香澄がからかうようにくすくす笑う。


「今日は二人ともありがとう。またパーティーの詳細が決まったら連絡するわね。そうそう招待したい方の名簿を作っておいてちょうだい。会場は皇都ホテルのボウルルームがいいかしらね」

「母上に任せるよ、どうせ、顔見せの場だ。どこでもいい」

「もう、そんなこと言って……! 女性にとっては一生に一度の記念すべき行事なんだから……」

「結婚式でもあるまいし、たかが婚約パーティーだろ」

「たかがとは何ですか! 本当に女心のかけらもわからないんだから」

「だから、母上に頼んでいるんだろ! 任せたからいいようにしてくれ!」

「あんたは軍服よね。じゃあ、六花ちゃんはドレスがいいかしら」


 際限さいげんなく語る香澄を適当にあしらう瑛人に背を押され、ふたりは屋敷を後にした。

 馬車に乗ると、瑛人がふうとため息をつく。


「あーーー、久しぶりに母上の口上こうじょうを聞かされたよ。立て板に水とはあのことだな。ったく、お喋り好きなんだから。常々つねづね、ウチは男ばかりでつまらない、女の子だったらもっと話してくれたと愚痴ばかり言われた」

「とても優しくて楽しい方ですね」

「まあな。……最近は心配をかけすぎて寝込んでしまっていたんだ。あんなに明るい顔の母上は久しぶりだ。ありがとう、六花」

「そんな……私は何も……」


 瑛人も香澄も、六花の存在が癒やしになっていると言ってくれている。

 ただ自分がいるだけで喜んでもらえるなど、考えたこともなかった。


(なんだか……お母さんの顔が見たくなったな……)


 ふっと亡き母を思い出し、六花は涙をこらえた。


「パーティーって私初めてなんです。大丈夫でしょうか」

「俺たちは顔見せするのが役目だ。来てくれた人に挨拶するだけだ。大仰おおぎょうに考えなくていい」


 そっと手が重ねられる。瑛人の手は大きく、六花の手をすっぽりとおおってしまう。


「俺がついている。おまえはそばにいてくれればいい」

「はい」


 いつからだろうか。瑛人の顔を見ているだけで六花は安心するようになっていた。

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