第9話:瑛人の傷

 六花りっかが慌てて羽織を着てドアを開けると、申し訳なさそうな顔をした祥吾しょうごが立っていた。


「おくつろぎのところ申し訳ございません。瑛人あきと様がお呼びです。呪符と筆をお持ちください」

「は、はい!」


 急いで用意した六花りっかが案内されたのは、隣の部屋だった。


「こちらは瑛人様のお部屋になります。では、私はこれで。また明日、伺いますので」

「あっ、はい! お疲れさまでした」


 どうやら使用人は皆、かよいで住み込みではないらしい。

 叔父の家では五人は常に住み込みだったので、六花は驚いた。


(ということは、今この家には私と瑛人様だけ……?)


 急に胸がドキドキしてきた。


(と、とにかく入らなくちゃ)


 ドアをノックしようとして、六花は躊躇ためらった。

 春美はるみの言葉が思い出されたからだ。


(夜に獣の姿になる、と言っていた……)


 白狐憑き――それが実際どういうものか、六花は知らない。


(恐ろしい、冷酷という噂とはまるで違う方だけど……)

(獣の姿になったら、変わるのかも)


 急に恐ろしくなり、六花は後ずさりをした。


(どうしよう。噛み殺されたり……ううん、そんな……)


 春美は笑いながら妖魔を斬る殺戮魔だと言っていた。


(でも、春美姉様の言葉とは、まるで違う人だった……)


 六花は嫌な想像を振り払った。


(自分の目で確かめるんだ!)


 思い切ってドアをノックする。


「六花です」

「入れ」


 六花がドアを開けると、ゆったりした応接室らしき部屋が目に飛び込んだ。

 仕事をするためだろうか。机や書棚も置かれている。

 瑛人はゆったりしたソファに腰掛けていた。

 軍服から浴衣に着替えている。

 襟元からのぞく胸元が妙に色っぽく、慌てて目をそらせた。


(全然、獣じゃない……)


「六花、さっそくだが、傷を見てもらいたい。疲れが出たのか、妙に痛むのでな」

「はい……!」


 治癒の力を求められてここに来たのだ。六花は迷わずうなずいた。

 するりと滑るように浴衣がはだけられる。


「……っ!」


 しっかり鍛えられた胸筋が目に飛び込む。


(まるで彫像みたいな体……)


 自分とはまるで違う、しっかりと筋肉のついた男性の体に見とれてしまう。


(まったく獣らしさはない……やはり春美姉様の話と全然違う……)


 滑らかな白い肌には、胸の辺りに斜めに走った痛々しい赤い傷が残されていた。


(これが……治癒したい本当の傷……)


 昼に見せてもらった腕の傷とは違い、明らかに深い。


「これは妖魔に……」

「ああ。深追いしすぎてな。傷はふさがったが、まだじくじくと痛む」

「失礼しますね」


 顔を近づけて傷を見る。


(亮介様と同じくらいの深い傷……出血はなく、治りかけてはいるけれど)


 六花はしかと傷を目に焼き付けた。

 筆を持ち、呪符に呪言を書いていく。

 丹念に呪力をこめ、傷がふさがっていく様を想起する。

 書き終えると、すべての邪気が祓えるよう願い、そっと息を吹きかける。


「できました……」


 集中しすぎてクラクラするのをこらえ、瑛人に呪符を渡す。

 瑛人が胸に呪符をあてる。


「ん……」

「どうですか?」

「痛みが少し引いたな」

「申し訳ございません、もっとお力になれるよう精進しょうじんいたします」


 六花は深く頭を下げる。

 最高の術師ならば、傷くらい跡形もなく消し去るという。

 たとえ心の臓が止まっていても、直後ならば拍動を取り戻すことさえ可能だと聞く。

 それに及ばないまでも、傷をもっと薄くできるようにはしたい。


「また頼む。下がっていい」

「はい……」


 落胆させてしまっただろうか。

 はだけた浴衣を整える瑛人にもう一度頭を下げ、六花は使用済みの呪符を手に部屋へと戻った。

 使った呪符は燃やすか、川に流すのが慣例だ。

 結局、白狐憑きについて聞けずじまいだった。

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