第3話 風呂入ろうぜ!

【風磨のターン】


 落ち着け俺。雑念だらけじゃないか。『一緒に入ろーよー、なーなー』としつこく誘ってくるレイを風呂場に押し込み、しばらく経った。


いまは奴の制服を洗濯している。うちの洗濯機はドラム式で、乾燥まで出来るから助かった。サッパリしてもらったあとは、お茶でも飲ませて帰すだけ。一応、あんな目に遭ったあとなのだ。家まで送ってやらねばならない。


 ……などと思っていたのだが。続いてサッと風呂に入り上がった頃、奴は俺の部屋でゴロゴロと寝そべり漫画を読んで寛いでいた。休憩して行く気満々である。宿題は、と言うと『どーせ明日休みじゃーん』と紙面から目を離さずに言い放たれた。


 一応、うちは偏差値がそこそこ高い。勉強せねば置いていかれるが、今日は俺も疲れてしまった。明日やろう。


「これめっちゃ面白い。続きある?」

「それ最新刊。まだ出てない……」


「めっちゃクタクタじゃん。久しぶりに運動した?」

「いや……気疲れ……殺さないようにすんのってめちゃくちゃ気ぃ遣う……」


 レイの大きな瞳がキラリと光った。なんそれ解説求む、という意だ。正直な気持ちを吐露したつもりが話を長引かせるきっかけを作ってしまったようだ。




 俺の家で代々口伝、というか体伝で受け継いでいる流派がある。基本の型は中国拳法ではあるが、言ってしまえば殺人拳。文字通り、防衛ではなく人を殺すことを目的とした、ガチの実践技なのである。


 かつては憲兵などが我が一族の元へ習いに訪れていた。時代は変わり治安が良くなるごとに、一族の考えは変わって行った。身元のわかる一般人が相手だとしても、おいそれと教えることは危険と判断したのだ。


いまは一族の者だけに受け継ぐ技として封印し、道場には中国拳法だけを看板商品として掲げ、今日も趣味人から警官までが稽古のために訪れている。


 父は言った。『外では絶対やるなよ。なあに、いつでも人を殺せるんだから、ちょっと嫌な奴に絡まれても余裕でいられて良いもんだ』。姉は言った。『5割くらいの精度でやればイケるから。簡単簡単!』。


 なにが余裕。なにが簡単だ。暴発と社会的な自爆の危険性がある恐ろしい武器を、勝手に持たされた気分だよ。その思いが幼少期から募りに募っていた俺は、そもそも体術を会得していること自体を封印する、と自分で決めた。


 しかし、本当に大丈夫だっただろうか。身内同士でしかできない稽古の場では、概ね上手く出来ていると評されてはいたが。生きてはいるけど後遺症が、とか。ある機能だけが使えなくなって治らない、とか。ないだろうか。心配だ。怖すぎる。


「マジでかっけえー! オレもやりたい! 教えて教えて!」

「だから。ダメなんだって。一族の者じゃないと」


「えー? そこをなんとか! 特別に!」

「……ダメ」


 何をどう言われても答えは決まっている。その主張を絶対変えない自信はある。俺らは幼い頃から骨の髄までしっかり染み込ませるように、他人に教えるなと言い聞かせられて育ってきた。その約束を破れば一族の殺人拳によって殺された者の呪いが発動してしまう、などと。


 大きくなるにつれてあれは大人たちの嘘だったと気づく時が来るが、その頃にはすでに洗脳は完了している。いざ行動に出ようとしても、本能的なブレーキがかかるようになっている。


 俺も漏れなく現在、その自動ブレーキの世話になっている。レイは石鹸の清潔な香りをふわんふわんと漂わせながら、グイグイと身体を寄せて俺の膝の上にまで乗り『教えろよー!』と乞うてきた。


 レイの白い腕が貸したTシャツの袖からするりと伸びてくる。それは俺の首に巻きついて、しっとりとした肌理の細かさを否応なしに伝えてきた。近くで見ても粗の見当たらないすべすべとした雪の肌。鉛筆が乗りそうなほどに濃くて長い睫毛が揺れる。そこだけ血潮で染めているかの如く、ふわりと膨らみ赤く潤った唇が艶かしく動く。『教えて』。……何を。


 さっき言われたばかりのはずなのに、なぜか理解が追いつかなくなっている。そばで喋られると声がいつもと違って聞こえるのだ。俺の身体全体に反響して、色の乗った甘い音であると脳が勘違いをし始めたせいだ。


「……勘弁してくれ」

「あのさー。オレってそんなにエロい感じ?」


「えっ!? ……わ、わかんない」

「こっち向けよ。そっぽ向いてたら説得力ねえよ。なあなあ、オレとエロいことしたくなった? その辺どうなん?」


「………………!!」

「クッソ反応してんじゃん。大嘘つきめ。素直なのは下半身だけじゃん」


「ごめん……」

「いいっていいって。男にウケ良いなーってのは気づいてたけど、風磨にまで有効だとは思ってなかった。もしかして、今までずっと我慢してた? 怒んないから言ってみな。実際どうなん?」


「し…………して」


 顔を至近距離で覗き込まれ、心臓を過度に動かしながらも『してない』と俺はしっかり答えるつもりだった。だって今までずっと友達だと思ってた奴が、突然盛ってきたら引くだろう。俺なら引く。ドン引きだ。だから嘘をついてでも、明らかに本音は違うことがバレバレでも、そんな気味の悪い思いをさせたくなかった。


 友達として大切にしたい、と俺はレイに伝えたかったのだ。本当だ。しかし奴はそんな俺の繊細な心遣いなど、要らない紙をくしゃくしゃにしてゴミ箱に投げるかの如く台無しにしてきやがった。


 キスをされている、と気づいたのは事が始まってから約5秒後。手遅れにも程がある。慌てて引き剥がそうとはしたのだが、掴んだ胴体はあまりにも細く感じて躊躇した。ぽっきりイッてしまうのではないかと。


 俺のささやかな抵抗を察したレイは腕に力を込めてきて、離れねえぞという意思が無言で伝わった。キスに動揺すると、息の仕方を忘れるというのは本当だ。じわじわと胸が苦しくなり、レイの背中をタップし一旦離れてもらった。


 風呂に入ったばかりなのに、こんなに汗が出たじゃないか。お前は何をしてんだアホか、という非難の声は頭の中だけでくるくると愉快に回っていた。その台詞は解放されたはずの俺の口から、出るようなことはついぞ無かった。


「ねー風磨、オレとさあ……」


「風磨ー! 制服乾いてんぞー! あ? おお、すまんすまん」




 ……終わった。俺としたことが。いつもドスドスと階段を上がる音が響くはずなのに、いまは全然気付かなかった。ガチャリとノーノックで元気に扉を開け放ったのは俺の姉である。性別は女性のはず。ちなみに、顔色はひとつも変えていなかった。


動揺の二文字を母親の腹の中に置いてきて俺に押し付けやがったあの姉は、今日も堂々たる登場、及び退場だ。


「……だれ?」

「……姉ちゃん……終わった……」


「えっ!? 久しぶりに見たけど姉ちゃんめっちゃでかくね!? 170は超えてんだろ!」

「確か、175センチくらい……終了した……」


 レイは膝の上から退かぬまま、すげえすげえとしばらく興奮していたが、いきなりスッと黙って大人しくなった。どうしたのだと思っていたら『めっちゃ恥ずい……』と呟きながら、俺の胸にぎゅうぎゅうと顔を押し付けてきた。呼気でそこだけ肌が温まる。


 その瞬間、キューッと胸が鋭い痛みを発し始めた。これはダメなやつだ。どうしても可愛く感じてしまう。側から見ると、ただの恋人同士のイチャイチャでしかなく、見ても何の腹の足しにもなるまいが、いざ自分が当事者になってみるとどうにも離れがたい類のものだ。いつまでもこうしていたい、なんて思ってしまう。


 さっきからずっと走り続ける心音と、それを激化させる燃料と化した甘ったるい気分を胸いっぱいに感じていたのだが、それは母の『ごはんだよー!!』で掻き消され、時間を忘れていたレイは『あっ、やべ。帰らなきゃ』と、いつもの調子に戻っていた。

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